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祖父と孫は豪華な食事を楽しんだ。一行にも酒食が振舞われた。
会見は二時間ほどで終わった。その後秀頼一行は城を出て方広寺に向かった。家康達は城に残った。
家康は側近の本多正純と板倉を座敷に呼んだ。
正純は家康政権の官房長官ポジションを務めていた。
相手を理屈でねじ伏せてひんしゅくを買う所があった。関ヶ原の戦いの時、父本多正信は徳川秀忠軍の参謀長ポジションを務めていた。戦後、正純は家康に対して「遅刻の責任を取らせて父を切腹させろ」と迫った。
板倉は報告を上げた。
「伝令二人を討ち取りました。死体はこちらで引き取って後日山に埋めておきます。
例の三人組は日向守が見張っています。新しい伝令が来ても一人残らず喧嘩に見せかけて処分します」
「二人は喧嘩に見せかけられなかったか。手こずって鉄砲でも使ったか?」
「いいえ。切り口が鮮やかすぎるのです。達人がやったとはっきり分かる。
京都の町衆は今回の会見成功を大変喜んでいます。彼らの喜びを裏切る真似はしたくないものです」
「今日一日を作り出すのに十年かかった。太閤の望んでいた形とは違うが豊臣家は残ったよ。さすがにこれ以上(の抵抗)はないだろう」
正純は注意喚起した。
「今日初めてお会いしましたが、相当自分に甘い性格と見ました。自分の領地どころか、自分の体さえ管理出来ないとは。
あれで俺達に代わって日本を治める気だったんでしょう?こっちは奴らが始めた無様な負け戦の尻ぬぐいまでやってやった訳ですけどね。
我慢が出来ないお人です。今は片桐が睨みを利かせていますが、いずれ苦言を呈す者は排除して、側近だけで政治を行うようになるでしょう。隙を見せてはいけません」
板倉は憂慮した。
「太閤は『領地を治める力なし』として多くの大名を改易してきました。かつての主家や後継者さえもです。今太閤が生きていて、前右府が太閤と血の繋がりのない六十万石の大名だとしたら、太閤は決して許しはしません。
大御所の時代だからこそ前右府でも家を全う出来る。その事に大阪城内の者が気付いてくれればよいのですが」
家康は不安を述べた。
「個人的に気がかりなのは前内府(さきのだいふ。織田信雄の事)だ。彼とは友好関係を保っていきたい」
本屋の時代小説のコーナーに行くと「家康が最も恐れた男 〇〇××」といったタイトルの本が沢山並んでいる。どれも納得の武将ばかりだが、二条城会見の後に家康が信雄の存在を憂慮した事はあまり知られていない。
秀頼一行は方広寺で再建工事を見学した後、加藤清正の屋敷に休憩に立ち寄ろうとした。
しかし清正は屋敷への立ち入りを拒否した。味方と思っていた清正から冷淡な態度を取られた一行は傷付いた。
夕方、秀頼一行は船で大阪に帰った。
見物人は川岸に立って船を眺めた。
何とか戦争は回避された。人々は安堵した。船に向かって嬉しそうに手を振る者もいた。
見物人の中に勝成と中川もいた。
笠男がやってきて勝成の隣に立った。
勝成は話しかけた。
「あの船には豊臣家の歴戦の勇士三十人が乗っている。お前なら勝て……」
「勝てますね!」
中川は注意した。
「こちらは三河刈谷三万石の城主、水野日向守である。徳川御門葉の重鎮に対していささか礼を欠いた態度ではないか?笠を取って名乗られよ」
笠男は笠を取って会釈した。
二十代後半。オールバックの髪型。身長は百八十センチ前半。体はムキムキだった。
いつ大名と面会してもいいように、毎日風呂に入って体は清潔にしていた。ヒゲは剃り、爪も切り、身だしなみには十分気を使っていた。
「失礼いたしました。播州牢人、宮本武蔵と申します」
武蔵の剣術は集団戦闘を念頭に組み立てられている。目指していたのは一対一での最強ではなく、多対一での最強だった。
最前線で敵部隊を一人で切り伏せる姿が彼の思い描く理想の自分だった。桃太郎の恰好をした男と無人島で決闘する自分は決して本意の姿ではなかった。
楠木正成は言う。
―「少年の頃から戦場に出ていても、自分の思い通りに戦えるようになるのは三十才からだ。そしてその三十才が武士としてのピークだ」
伝説の剣豪は人生で最強の時を迎えつつあった。