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家康の本陣は大阪市南部の住吉大社にあった。
十二月二日、家康は住吉から大阪城南部の茶臼山に移動した。お土産に大量の鉄の盾を持参した。
茶臼山は現在の通天閣の近くにあった。元は古墳だったが、戦国時代に城に改装された。
幕府は更に改築した。頂上には風呂付きの屋敷が作られた。麓には家臣の住む屋敷や兵舎が建てられた。
茶臼山の二キロ東に秀忠が本陣にしている岡山があった。こちらも元古墳で、戦国時代には城となり、今回秀忠の手で大改修された。
諸将は茶臼山の頂上の屋敷に集まった。
家康は彼らに「仕寄」と「友崩れ」を命じた。
仕寄とは塹壕工事の事である。体が隠れるほどの深い溝を城まで掘り進めていく。上から見ると稲妻のようなジグザクの形だ。
右斜め前に向かって溝を掘る。掘った土を溝の左側に盛って壁を作る。竹束は条件次第で打ち抜かれる事もあるが、土ならほぼ問題なく防ぐ。石や鉄より安くて防御力が高い。
ある程度行った所で方向転換、今度は左斜め前に向かって掘る。掘った土で溝の右側に壁を作る。これを城の前まで繰り返す。
城の前には土で攻撃拠点を作る。
高さは城門と同じ。形は台形。大きな土俵のようだ。頂上に土のうの胸壁を築く。
ここで城内の敵と打ち合う。十分に弱体化させた後、今度は城壁ぎりぎりまでジグザグの溝を堀る。最後に城壁を梯子で乗り越えて内部に突入する。
会議が終わった。
家康は各隊を見回って鉄の盾を配り、「工事が終わるまで城は攻めるな」と釘を刺した。それから住吉に帰っていった。
大阪の城下町は惣構えで守られていた。
惣構えの南側の堀は幅三十メートルの空堀だった。土塁の高さは九メートルで、東西の長さは二キロあった。土の万里の長城である。
幕府軍主力は南の土塁から一キロ南の平地に展開した。
中央に越前福井藩主の松平忠直隊と、近江彦根藩主の井伊直孝隊。親藩と譜代の精鋭部隊である。
対面の土塁には木村重成隊と長宗我部盛親隊が配備されていた。士気は非常に高かった。
左サイドは陸奥仙台藩主の伊達政宗隊と、伊勢津藩主の藤堂高虎隊。準親藩、準譜代の強力な部隊である。
対面には織田有楽斎隊、有楽斎の息子の織田頼長隊が配備されていた。士気は非常に低かった。
右サイドは加賀金沢藩主の前田利常隊と、小大名の混成部隊。前田隊は参戦した大名の中で最大の部隊を率いていた。
前田隊の背後に秀忠率いる幕府本隊が展開していた。
前田隊の対面に仙石秀範隊、明石全登隊が配備されていた。両隊が守る土塁の前面に砦が増築されていた。
場所は惣構えの南東角。上から見ると正方形で、周囲を空堀で囲まれていた。仙石、明石隊の守る背後の惣構えとは橋で繋がっていた。
砦には真田幸村隊が配備されていた。砦の正式名称はない。便宜上「真田丸」と呼ばれていた。
前田隊は真田丸の南七百メートルに位置する小橋山に展開した。部隊は北に向かって塹壕を掘り進めた。
幕府は真田丸に偵察部隊を派遣した。
部隊は吊井楼を使って内部を偵察した。
大きな井戸のような装置である。人が乗ったゴンドラを滑車で釣り上げて、上から偵察したら地上に戻す。車輪が付いているので移動も簡単だった。
真田丸の長さは東西百八十メートル。サッカーコート一、五倍分の広さだ。
空堀は深さ十メートル。幅は四十メートル。堀際と堀底に前進を阻む馬防柵が張り巡らされている。
土塁の高さは六メートル。その上に高さ三メートルの土塀が設置されている。空堀の底から土塀まで全部合わせると、七階建てビルの高さに匹敵する。
土塀には二メートル間隔で銃を打つ狭間が開いている。
東側はまだ未完成だった。ここには土のうを積み、竹束を並べていた。
真田丸の東に篠山という小さな丘があった。
真田丸と篠山の間に谷間があった。谷底まで砦までの高さは十五メートル。これは五階建てビルに匹敵する。
この谷間が天然の空堀の役目を果たしていた。ただし柵は設置されていなかった。
守備兵は三千。真田というと六文銭の赤い旗が有名だが、幕府に付いた兄への配慮から、ただの赤い旗を掲げていた。
指揮官がいる場所を示すシンボルを馬印という。亡き父への弔いを込めて、亡父昌幸が使っていた黒い正方形の旗の馬印を使っていた。
真田丸の南口を攻めるのが正攻法だった。
西口は危険だ。砦と長城の二正面から攻撃を受ける。
しかし比較的脆い東口なら……




