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幕府は二十八日から全軍二十万に食料配給を開始した。
兵舎は船場の木材貯蔵場を使った。工事は急ピッチで進んだ。
毎日沢山の家が出来上がった。城外の野原に小さな村が無限に増殖し続けた。
淀川のせき止め工事も行った。守口(大阪城北東にある街)辺りに水を止める堰や、水を別の方向に流す水路が作られた。
淀川の下流は水量が低下した。しかし泥が溜まっていて歩けなかった。
幕府軍は複数の舟橋を架けて往来を自由にした。また城近くの川には多数のスノコを浮かべた。兵士はスノコに乗って城を監視した。
豊臣軍の士気は低下した。
毎朝外を見るたび、昨日とは景色が変わっている。食事は薄い粥。話題は誰それが裏切ったとか、明日には全軍打って出て玉砕するんだとか、そんな話ばかり。不安しかなかった。
十二月一日、豊臣軍首脳部は大阪城大広間で作戦会議を開いた。後藤は頭に包帯を巻いていた。
大和川で敗れた事で幕府の補給体制は盤石になった。一方、大阪城内の兵糧、弾薬は乏しかった。援軍の見込みもなかった。
時間が経つほど豊臣軍は弱くなる。まだ動ける今、抜本的な手を打たないといけない。
首脳部の意見は割れた。
後藤、幸村、明石全登、木村重成は戦争継続を提案した。
降伏はこの際仕方ないとしても、もっと有利な条件で降伏したかった。そのためには幕府軍にある程度打撃を与えて、「これ以上の戦闘は耐えがたい」と思わせる事で譲歩を引き出す必要があった。
大野治長と織田有楽斎は即座の講和交渉開始を提案した。
正規軍の主力をぶつけても幕府には勝てなかった。「これ以上の戦闘は耐えがたい」と思わせる事は不可能だった。
豊臣軍の戦力が減るほど幕府は楽になる。向こうは譲歩する必要がなくなり、条件は悪くなる。それなら早い内に話をまとめた方がいい。
二人は「見込みのない戦いに兵士を付き合わせて無駄死にさせたくない」とか、「秀吉が築いた大阪を戦火に晒していいのか」とか、あれこれ言って即時講和に誘導しようとした。
実際は開戦直後から裏で幕府と交渉していたのだが、そこは黙っておいた。
強硬派は総攻撃を主張した。全員で打って出て家康と秀忠を殺せば勝てる。大野治房や治胤、側近グループの渡辺、薄田、牢人グループの長宗我部盛親、毛利勝永といったメンバーが属していた。
強硬派は積極的に発言した。仲間は「その通り」と声を揃えて賛同した。慎重な意見は大声を出して遮った。
秀頼は強硬派を支持していた。彼らの力強い発言に何度も頷いた。
後藤は士気を高めるために夜襲を提案した。作戦自体は了承されたが、指揮官や参加部隊を誰にするかでまた揉めた。
後藤は自ら出撃すると申し出た。幸村も自分が行くと手を上げた。治房も「俺に任せろ」と名乗り出た。
会議は何も決まらずに終わった。




