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淀川は大阪城北西部で西に進む本流と、南に進む支流に分かれる。支流は木津川と呼ばれている。
木津川の東岸に阿波座という街があった。西岸には福島という街があった。
阿波座の中心部に敵の拠点の一つ、博労淵砦があった。守備兵は七百。指揮官は側近グループの一人、薄田兼相が務めていた。
敵は木津川東岸の土手の上に複数の井楼(監視用の大きなジャングルジム)を建てた。
岸辺には人の背丈と同じぐらいの高さの葦が生い茂っていた。敵は井楼の上から、あるいは葦原に身を隠して木津川を航行する味方を打ってきた。
阿波徳島藩主の蜂須賀至鎮は阿波座の住民から「博労淵砦の守備は手薄。今攻めれば落ちる」という情報を得た。
蜂須賀は幕府に攻略を願い出た。他の諸将も名乗り出たが、幕府は粛清された大久保忠隣の息子、石川忠総を砦攻撃の主将に指名した。万が一にも失敗がないように水野勝成隊、浅野長晟隊、九鬼嘉隆隊に支援が命じられた。
水野勝成隊は砦攻略の拠点を木津川の中州に作った。
中州に土塁と砲台が設置された。
対岸の葦は刈り取られた。土手の上の井楼は大砲で破壊された。
大砲の有効射程は二百メートル。中州から対岸の土手までは百メートル。土手から五十メートル東に博労淵砦があった。
十一月二十八日、水野隊は完成した砲台陣地を石川忠総隊二千に明け渡した。
石川は大久保忠隣粛清に連座して改易、蟄居処分を受けたが、今回罪を許されて参戦した。石川はこの戦いに再起を賭けていた。徳川家康も思いに応えて砦攻撃の主将に石川を指名した。
勝成は石川を励ました。
「まあ簡単な戦だよ。ここから土手越しに砦を打つだけ。危なくなったら周りを頼るといい。今更かく恥もないだろ?」
石川は勝成の手を取って泣きながら感謝した。
明けて二十九日深夜、大雨が降った。
石川隊千は九鬼家の船団で木津川を北上した。
土手の上に幾つか井楼があったが、雨に濡れるの嫌がって誰も見張りに付いていなかった。
石川隊は木津川東岸北部に奇襲上陸して博労淵砦の北に回り込み、夜明けと共に中州と北から二正面攻撃をかける作戦を取った。
幕府軍は木津川西岸の福島方面でも密かに行動を開始していた。東西両岸を一気に攻略する大規模な作戦だった。
同じ頃、別の船団が木津川を北上して木津川東岸南部を目指していた。
蜂須賀至鎮隊と池田忠雄隊の合同水上部隊計千。忠雄は蜂須賀の娘婿だった。
水上部隊は東岸南部に船を寄せた。兵士は船を降りて土手に上がった。
阿波座は碁盤目状に整備された街である。
幾つかの十字路に土のう(土を詰めた米俵)を並べたバリケードが設置されていた。しかし雨に濡れるの嫌がって誰も守備に付いていなかった。
阿波座と運河一本隔てた東に船場という街があった。
船場の蜂須賀本隊二千は運河に舟橋を架けて密かに阿波座に上陸した。部隊は雨の街を無言で駆け抜けた。
水上部隊は博労淵砦の西に展開した。
船場の本隊が鎧の音を鳴らしてやってきた。カチャカチャした音が雨の中でもよく聞こえた。
しかし砦の敵は動かなかった。酒を飲んで熟睡しているのか。怖くて出てこれないのか。
本隊は砦の東と南に展開した。北は敢えて開けておいた。
両隊は火縄に火を点けて銃を構えた。
包囲部隊は砦に向かって火縄銃を発射した。それから力の限り大声で叫んだ。
砦の守備兵は北の門を開けて逃げ出した。七百人いるはずなのに四十人しかいなかった。
部隊は無人の砦に突入した。
朝になって雨が上がった。部隊は奪った砦で朝食の餅を食べた。
切れた勝成が怒鳴り込んできた。
「アアアアアアアアアアアアアアア!?」
宮本武蔵と蜂須賀家の重臣、樋口正長は七輪と網で餅を焼いていた。
武蔵はなだめた。
「まあまあまあまあまあ……」
「(抜け駆けするのは)二回目じゃん!二回目じゃんか!」
「隙を見せた敵が悪い。
薄田と戦えなくてがっかりだなあ。どこに行ったんだろう」
「さあな!女の所じゃねえの!?」
指揮官の薄田は何故か不在だった。兵士も遊びに出かけていたため、蜂須賀隊の奇襲に対応出来なかった。
幕府水軍は木津川西岸の一大拠点、福島砦に奇襲を仕掛けた。
指揮官の大野治胤は兵八百で砦を守っていたが、奇襲に怯えて逃走した。木津川両岸は幕府軍の手に落ちた。
石川隊は阿波座北部を制圧する事で何とか面目を保った。
豊臣正規軍は大和川で幕府軍と何とか互角に戦った。しかし砦を巡る争いでは一方的に負けた。砦には士気と練度の低い牢人部隊が配備されていた。
幕府側は牢人部隊を侮った。正規軍ならともかく牢人部隊なら楽勝、という空気が支配するようになった。
敗北した薄田と大野治胤は「ダイダイ(みかんに似た果物。見た目は立派だが美味しくない)武者」と周囲から軽蔑されたという。
しかしこのダイダイ武者のエピソードは確かな資料からは確認出来ない。薄田が女性の所にいたという話は後世の小説家の創作である。
船場の木津川口砦も指揮官不在の隙を突かれて簡単に落とされているが、この砦の主将は馬鹿にされていない。鴫野で旗を捨てて逃げた渡辺も同様である。
豊臣軍司令部の中に「しょうがない。誰が率いてもあの連中では勝てない」というような、責任を棚上げにして指揮官同士でかばい合う空気が存在していたと考えられる。豊臣軍の方でも牢人部隊を軽視していた。
渡辺に関しては言い逃れ出来ないが、彼の責任を追及すると自分達にも及ぶので黙っていた。
豊臣軍は一連の攻防で城外の砦をほとんど失った。
三十日、豊臣軍は残った砦を燃やして惣構え(大阪の城下町全体を囲む壁と堀)内に撤退した。
幕府軍は惣構えを東西南北から包囲した。
秀忠率いる幕府本隊は大阪城南部の岡山に移動した。
戦いは攻城戦に移行した。




