6-11
蜂須賀家の奇襲部隊は船場の対岸で待っていた。
味方の関船船団が運河の西からやってきた。
船団は奇襲部隊の前で停止。一列に並んで舟橋を作った。
奇襲部隊は舟橋を渡って船場に上陸した。
後続の小早船団がやってきた。
船団は船場の南岸に小早を着けた。兵士は船を下りて上陸した。
関船の兵士はもしもの場合に備えて運河に残った。
奇襲部隊は砦の東側を抜けて北の裏門に回り込んだ。
船を下りた上陸部隊は南の正門前に展開した。
身軽な兵士二人が南北の板塀を乗り越えて砦内部に侵入した。
敵が寝起きする兵舎が何軒も建っていた。全員寝ていた。
監視用の井楼(大きなジャングルジム)もあったが、監視はいなかった。
兵士は南北の門のかんぬきを抜いた。
外の部隊は砦に向かって一斉に鉄砲を打ちかけた。それから大声を出して威嚇した。
敵兵は着物のまま兵舎から飛び出した。二日酔いで顔が赤かった。
北の門から奇襲部隊が雪崩れ込んできた。
敵兵は南に逃げた。
南の上陸部隊は門の前に竹束を連ねて待ち構えていた。
敵兵士が門から飛び出してきた。
部隊は火縄銃をつるべ打ち(狙いも付けずに連射して弾幕を張る事)にした。
先頭の敵は弾幕に突っ込んで即死した。後続の敵は砦に逃げ帰った。
竹束の後ろから櫂型大木刀(舩の櫂を削って作った大きな木刀)を持った武蔵が飛び出した。味方槍隊は彼に続いた。
上陸部隊は死体を踏み越えて砦内部に突入した。
鎧姿の勇敢な敵十人が雄叫びを挙げて逆突撃してきた。
上陸部隊は足がすくんだ。武蔵はむしろ加速して単身突撃した。
武蔵は助走を付けて大木刀をアッパースイングで振り抜いた。
先頭の敵一人はホームランで数メートル後ろに吹っ飛ばされた。
後続の敵二人がひるまず突っ込んできた。両利きの武蔵は左打法にスイッチして、ダウンスイングで二人まとめてなぎ倒した。
一番強くて勇敢な三人が即死した。残った敵は恐怖で立ち止まった。
武蔵は敵陣に切り込んだ。後続の味方も勢いに乗って突撃した。
敵は恐慌状態になって逃げ出した。
逃げ場を失った敵は東西の塀際に殺到した。押し合いで圧迫死が続出した。
味方は背後から弓鉄砲を打ち、槍で突いた。生き残りは何とか塀を乗り越えて逃げていった。
夜が明けた。
井楼の上に蜂須賀家の卍の旗が掲げられた。部隊は「えい、えい、おう」と勝ち鬨を挙げた。
十九日の木津川口の戦いで大阪の陣は本格的に始まった。
翌二十日、幕府と有楽斎、そして交渉に同意した大野は本格的に講和交渉を開始した。
使者には豪商の後藤庄三郎や、大野四兄弟の末弟で幕府に仕えていた大野治純が起用された。
幕府は秀頼を切腹させる代わりに将兵、領民の助命を認める案を提案した。大野は拒否した。
幕府が大野に送った使者は五体満足で返された。大野も本気で話し合う気だったので危害は加えなかった。
両者は水面下で交渉を重ねた。
大野と有楽斎は有利な条件付き降伏を考えている。牢人グループと側近グループは先行きに漠然とした不安を抱えながらも強気の姿勢を崩さない。
最終的な決定権は君主の秀頼にある。
その秀頼は神社でひたすら祈り続けている。しかし何度祈っても事態は好転しなかった。
このままでは豊臣家は滅びてしまう。ここで大野と有楽斎は牢人グループリーダー後藤の一本釣りという奇策に打って出た。
有楽斎に続いて、大野も勝利から条件付き降伏へと戦略目標を切り替えた。
二人の判断は決して間違いではないだろう。劣勢に陥った戦争指導部の多くが「まだ勝てる」、「ここで諦めたら全て無駄になる」と戦争継続を選んで国を廃墟に変えてしまう。少ない可能性に賭けて全てを失うよりは、損切りして被害を抑えた方がいい。
二人は交渉の最大の障害は六万人の牢人衆と考えていた。しかし本当の障害は二人のリーダーシップの欠如だった。六万人に言う事を聞かせる力が二人には欠けていた。
大野が取り込んだ牢人衆は徐々に豊臣家をむしばんでいく。
(続く)




