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二十二日、家康隊は京都に入った。幕府軍は十万に膨れ上がった。
家康隊は二条城に向かって大通りを移動した。大勢の群衆が見物に集まった。
民家の壁に落書きが書かれていた。
―「御所柿は 独り熟して 落ちにけり 木の下にいて 拾う秀頼」
板倉は慌てて二条城の大広間に参上した。
家康は八世紀の貴重な蔵書群の書き写しを部下に指示している所だった。
板倉は家康に犯人捜査を恐る恐る申し出た。
家康は「捜査するな。落書きはそのままにしておけ。参考になる意見もあるだろうから」と捜査中止を指示した。
家康は個人の場で政治思想を表現する事は許したが、友好イベント(方広寺完成式典)での政治発言は許さなかった。
二十三日、家康は二条城大広間に諸将を集めて会議を開いた。
家康は片桐をねぎらった。
「よくぞ耐えた。仇は取ってやる」
「どうか先鋒をお命じください。兵は少ないですが敵に関する知識は豊富です。誰よりも多く豊臣兵を殺してみせます」
「先鋒には冷静な判断が求められる。怒りで判断が鈍ったお前にだけ任せる訳には行かない。支援を付ける」
家康は腹心の藤堂高虎に先鋒を命じた。
「片桐と共に先陣を駆けろ。支えてやってくれ」
藤堂は頭を下げた。
参謀長ポジションの本多正純は作戦を説明した。
「一か月後に将軍家の本隊十万が到着します。
こちらは全軍二十万。兵站は万全です。
敵は今は五万。この調子で増え続けると一か月後は十万。兵站に不安を抱えています。
敵は城に籠ってこちらを迎え撃つ構えを見せています。
こちらは将軍家の到着後、抑えの部隊を残して奈良方面から豊臣領内に侵入。北上して東西南北から惣構えを包囲します。
攻城戦の準備は完璧です。仕寄(塹壕)を築いて接近し、大砲と火薬で城壁を破壊して内部に突入します。
具体的な諸隊の配置は将軍家の到着次第決定します」
兵站担当の板倉は補給事情を説明した。
「二十万人が半年食えるだけの十分な食料が伏見と尼崎にあります。しかし全員に毎日三食届ける仕組みを作るには多少のお時間をいただきたい。序盤は御辛抱いただく事になりますが、必ず解決しますのでどうかご安心ください。
冬場の戦いですから暖房や住居の問題も発生します。これに関してはこちらの用意した分だけでは足りません。攻略目標に船場を入れてくださると助かります」
諸将は活発に意見を交わした。
全員やる気があった。しかし家康の本心は和睦だった。
開戦阻止に失敗した幕府は戦争の早期終結に目標を切り替えた。
幕府と有楽斎は水面下で接触した。有楽斎は二つの講和条件を打診してきた。
家康親子の不戦の誓紙(今後は何があっても豊臣家を攻めないという念書)の提出。
牢人衆に対する寛大な処置。
二万の豊臣家が三万の牢人衆に「戦は終わりだ。出て行け」と言ったら城内で反乱が起きる。牢人衆にある程度譲歩しないと和睦は成立しない。
しかし寛大な処置とは具体的に何を指すのか、有楽斎も分かっていなかった。
今牢人衆に講和条件を聞いたら殺されかねない。有楽斎は彼らとの交渉で条件を詰める事が出来なかった。
牢人衆としては名門豊臣家に正規雇用されたい。彼らは生活の安定のために戦っていた。
豊臣家としては早期退職を勧めたい。そのためにはそれなりの退職金と、「城から出れば命までは取らない」という幕府の地位保全が必要だ。
幕府は副司令官格の有楽斎に講和の意思がある事を確認して満足した。上手く行けば総大将の大野もこちらに引き込めるかもしれない。




