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十五日、茨木城の片桐且元は京都の板倉勝重に救援を要請した。
この日、伊勢桑名藩主の本多忠政率いる伊勢方面隊が早くも京都に入った。京都一帯の部隊は五万に増えた。北陸、中部、東海道方面の部隊も数日内に到着予定だった。
伊勢方面隊は京都南西の枚方まで進出して、豊臣軍の北上と淀川の堤防破壊工作を警戒した。
淀川は京都と大阪を結ぶ物流の大動脈だった。秀吉の時代には淀川の東岸の土手に京街道が整備された。川は重要な陸上輸送路にもなった。
堤が破壊されると、川の水が減って道が水浸しになる。
後世の資料には「豊臣軍は幕府軍が枚方に来る前に寝屋川(枚方の南西にある街)の堤を壊した」という記述がある。
しかし伊勢方面隊の偵察兵は守口(寝屋川の南西にある街)まで進出したが、方面隊本部には「何ら問題なし」と報告を上げている。
一か月後には幕府の輸送部隊が京都~大阪間を往来し始める。仮に堤防破壊作戦があっても復旧作業は一か月で完了したと考えられる。
十七日、京都からの援軍一万が茨木城に入った。
大野は茨木城襲撃案を撤回した。側近グループも大野を恨んだ。
大阪の部隊は連日増加した。しかしそれ以上の速さで京都の部隊は増加した。援軍要請を断る大名の書状も連日届いた。
豊臣家は諸大名の援軍を当てにして開戦した。その援軍が一人も来なかった。
有楽斎はさっさと諦めて幕府の密使に講和交渉を切り出した。
有楽斎は交渉の最大の障害は過激な牢人グループだと考えていた。彼らに主導権を奪われてはいけない。有楽斎は弱気になった大野を支えつつ、講和を受け入れるように説得した。
半ば諦めてしまった大野は講和に理解を示した。しかしそれでも完全には勝利を諦めきれなかった。
待っていたら誰かが来るのではないか。もう一度使者を送ったらOKしてくれるのではないか……
側近グループ、牢人グループは反大野、反有楽斎で結合した。連合グループは再び京都攻撃を主張した。
大野は要求を拒否する代わりに各地の集落を攻撃させた。
強制的に買い上げる事を徴発という。略奪は代価を払わずに奪う事をいう。徴発は基本的には合法とされる。
戦国時代の補給は現地徴発が基本だった。進軍先の村は道の駅やガソリンスタンドのような存在だった。村を潰せば幕府軍の補給を寸断出来た。
大野治房、大野治胤兄弟は大阪城周辺の村々を放火して回った。
連合グループの不満は収まらなかった。
頼長は側近グループの中で重要な地位を占めていた。彼のポジションはグループ内で危うくなった。
父と敵対するか。グループと手を切るか。ふて腐れた頼長は誰にも協力しなくなった。




