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大野は諸大名に決起を呼びかけた。
南は島津から北は伊達まで、仲間になりそうな大名には手当たり次第声をかけた。西軍に参加して改易された有力武将にも多額の金銭を送って協力を求めた。
大野は並行して牢人部隊の編成、兵糧弾薬の購入、砦の構築を行った。
牢人衆の集まりは良かった。砦も大阪城の西の船場が当時日本一の木材貯蔵場だったので、ここの木材を接収して建て放題だった。
しかし兵糧弾薬の確保には手こずった。
大阪城下には米を保管する蔵屋敷があった。大野は蔵屋敷を接収する準備を進めていたが、着手する前に板倉勝重と堺商人が運び出してしまった。
大阪商人は値上がりを見込んで各地の米を大阪港に回送しようとした。板倉は米の大阪回送を止めた。
尼崎港は大阪港、堺港と並ぶ物資集積拠点になっていた。尼崎の幕府代官は支配下の集落から人質を取り、米を大阪に売らせないようにした。
大野は幕府が取り損なった蔵屋敷を抑えて蔵米を回収した。また関西各地の市場を回って米を購入した。しかし全軍を養うには到底足りなかった。
弾薬は堺が独占していた。堺商人は大阪への売却を拒否して幕府に独占供給した。
七日、板倉は京都~大阪間の主要街道を封鎖。豊臣軍の北上を警戒した。
幕府軍三万が二条城と伏見城に展開していた。
豊臣正規軍は二万。牢人は一万。全軍が攻めてきても幕府本隊が到着するまで十分耐えきれる計算だった。
大野はひたすら募集をかけた。「考えなしに人を集めると城を乗っ取られる」と批判の声もあったが、ともかく数で上回らないと話にならない。
近隣農民や市内の商人も徴兵した。
戦国の兵士は基本的に志願制である。どうしても頭数が足りない時、これで負けたら家が滅ぶという時、専業農家も徴兵された。
牢人衆は練度と忠誠心が低かった。生活の安定が第一だった。
徴兵された市民はやる気もなかった。自分の命が第一だった。
大野は兵士の質には拘らなかった。強気のヤカラと弱気の市民がどんどん集まった。城内の武器、兵糧の備蓄は減った。
食事はおにぎりとみそ汁から薄いおかゆになった。
一部の兵士は有り余る木材で試作した木製銃を持たされた。「話が違う」と逃げる者も多かった。
それは政権中枢部もそうだった。
幕府の動きは想像以上に素早かった。すぐに大軍が大阪城に殺到するだろう。
弱気になった豊臣秀頼は城内の豊国社(秀吉を祀った神社)で連日勝利を祈った。君主というより教祖のようだった。
大野は強気だった。やがて援軍が大阪城に駆け付ける。形成は一気に逆転するはずだ。
秀頼の側近グループは過激だった。こうなったのは堺のせいだ。粉々にしてやりたい。
首脳部は大阪城本丸御殿の大広間に集まって作戦会議を開いた。
大野が会議を主導した。
「物資問題を早急に解決しないといけません。
兵は増える一方です。豊臣恩顧の大名が駆け付ければ更に増えます。我々にとっては嬉しい誤算ですが。
堺を制圧して物資を略奪しましょう。これで当座を凌ぎます」
側近グループの一人、渡辺糺が不満を述べた。
「あんな街は燃やしてしまえばいい!」
側近グループは口々に同意した。
織田有楽斎はたしなめた。
「物資がなければ戦えない。堺は役に立つ。今は潰せない」
有楽斎の長男で側近グループのリーダー格、織田頼長は更に過激な意見を述べた。
「物資なら伏見にある。私に譜代の精鋭を与えてください。三日の内に攻め落としてみせましょう」
大野は拒否した。
「関ヶ原の時、敵は二千の兵で伏見城に籠り、四万の味方を十五日間足止めした。
あの時と違って今は敵だらけだ。主力を北に送れば東と西と南から攻められる。堺を抑えて援軍を待つのが最善手だ」
「だから三日で行って帰ってくるって言ってるんですよ。俺ならやれます」
「気持ちは分かる。俺も堺の連中は全員殺してやりたい。でも勝利のためなんだ。ここはこらえてくれ」
有楽斎は大野に穏健策を提案した。
「無傷で堺を手に入れて活用したい。一旦協力を申し出る。断ったら軍事介入。どうか?」
「まあ言うだけなら……」
有楽斎は秀頼の判断を求めた。
「上様。御裁可を」
「そのようにしろ」
会議は終了した。諸将は大広間を退室した。
大野と有楽斎は一緒に帰った。有楽斎は耳打ちした。
「堺制圧の指揮は話の分かる奴に取らせろ。渡辺や木村に任せたら滅びるぞ」
大野は堺に物資提供を求めた。
堺は反徳川派と親徳川派に割れた。
幕府旗本で堺奉行の柴山正親は要請を拒否した。
親徳川派の豪商、今井宗薫は片桐且元に協力を求めた。今井家と片桐家は親戚だった。
反徳川派は柴山と宗薫の動きを伝えた。
大阪と堺の間で緊張が高まった。




