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一六一四年九月二十三日、豊臣家でお家騒動が勃発した。
二十七日、重臣の片桐且元は大阪城から追放された。片桐派の重臣や織田一族は豊臣家を見限って退去した。
重臣の大野治長が城内の実権を掌握した。
片桐は豊臣家の家臣でもあるが、徳川家の家臣でもあった。
現代で例えると、日本政府がアメリカ大使を外患罪で逮捕して処刑しようとしたが、閣内の親米派の猛反対で国外追放処分に変更した、というような話だ。最低でもトマホークは覚悟しなくてはならない。
十月一日、幕府は諸大名に動員令を発した。軍資金の足りない大名には金を貸し与えた。行軍ルートに当たる東海道の諸大名には兵糧や薪炭の輸送を指示した。
江戸や駿府に諸大名の部隊が集結した。
宮本武蔵は京都所司代、板倉勝重が住む所司代屋敷を訪れた。
二人は座敷に大阪城近辺の地図を広げて話し合った。
大阪城の北には川が流れていた。西は中州。東は湿地。南は陸地だった。
板倉は閉じた扇子で南を指した。
「南には御譜代や将軍家の本陣が置かれる。
(東を指して)こちらは東国勢。(北を指して)こちらは関西勢。(西を指して)こちらは西国勢。
豊臣家をどうするか。両将軍の間で意見が分かれている。
将軍家は豊臣家を滅ぼす気だ。この場合、南の城攻めの部隊が活躍する。
大御所は交渉で片付ける気だ。もしかしたら京都に軍勢を集めただけで終わるかもしれない」
「それはないでしょう」
「まあね。ただ開戦しても交渉は続けると思う。大御所は一貫して豊臣家を残したいというお考えだから。
この場合はそれなりの長期戦になる。俺としてお前には西の部隊に行ってもらいたい」
「伊賀様はどこに?」
「京都で後方支援。大御所からは織田侍従(豊臣家の重臣の一人、織田有楽斎)との連絡を密にしろと言われている。
戦争しないで解決するならそれが一番いいんだろうけど……」
十月十二日、徳川家康率いる先発隊が駿府を出発した。
家康は開戦前に調停で解決する気だった。しかし関西では豊臣家の先制攻撃で既に戦争が始まっていた。




