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会見前日、町人に扮した勝成は家臣二人を連れて京都を歩いた。
京都の人口は三十万。日本一の巨大都市だった。
街は「御土居」と呼ばれる全長二十キロの土壁で囲まれていた。土壁の外は洛外、中は洛中と呼ばれた。会見場所の二条城は洛中にあった。
市内の情勢は不安定だった。戦の気配を察した町民が避難を始めていた。一方で働き口を求めて各地から牢人が集まっても来ていた。
大阪に比べれば治安は大分良かった。牢人が避難民を襲う事もなかった。大八車を引っ張って歩く避難民と、槍を担いだヒゲ面の牢人集団が何事もなくすれ違った。
街では道場ビジネスが盛んだった。玄関に「〇〇流」、「××流」と看板を掲げた立派な道場もあれば、地面に矢を四つ刺して四角に区切っただけの野外道場もあった。共通しているのはヤカラしか通っていない点だった。
朝鮮出兵で剣術が注目を浴びた。戦後は道場ビジネスがブームになった。
関ヶ原で多数の牢人が発生した。優秀な牢人はすぐに再就職出来た。出来なかった牢人は農民になった。
帰農したくない牢人は道場に集まって、世の中を恨みながら人殺しのスキルを磨き続けた。
道場は反体制分子のたまり場になっていった。
当局は道場を監視下に置いた。道場側は致命傷を与える危険な技は自主規制して、健全なスポーツ組織である事をアピールした。
一口に古武道と言っても、関ヶ原の前と後で大分違う。関ヶ原前は耳や鼻を素手でちぎる技が揃っていた。
自主規制後も道場は治安悪化の要因であり続けた。数年前には弓、槍で武装した道場生数百人が武芸者一人を京都郊外で襲撃する事件も起こっている。
とある寺の前に宿があった。
勝成チームは宿の二階で中川志摩之助率いる別チームと合流した。
水野家の軍事部門を統括する重臣である。勝成とは古くからの付き合いだった。
勝成と中川は二階の窓から対面の寺を見下ろした。
中川は説明した。
「大野の家臣三人はあの寺に入った。色が黒い奴。目が細い奴。体が大きい奴。オオカミの糞(狼煙の燃料。大変臭い)を持っていた。連中が二百人に合図を出す係だ。
裏口は星川に見張らせている」
部隊に合図を出す係さえ見張っておけば、部隊全体の動きを監視出来た。
勝成一行は交代で寺を見張った。
翌朝、秀頼一行の出迎え役が上鳥羽の船着き場(京都の南の玄関口)に集まった。
駿河府中藩主の徳川頼宣。家康の九才の息子である。荒々しい性格だった。
肥後熊本藩主の加藤清正。頼宣の義理の父に当たる。
誠実な忠臣のように言われているが、資料上からは強い主体性を持った性格が読み取れる。自分の判断で動く男だった。
島津家領内の反乱では密かに反乱軍を支援した。反乱軍は敗北したが、家康の仲裁で首謀者の元島津家重臣は助命された。加藤は敗北後も首謀者と水面下で連絡を取り合って再起を促した。動きを察知した島津家は首謀者を処刑した。
秀吉は朝鮮出兵の戦費を賄うため、加藤家の領内に豊臣家直轄領を設定していた。いわばピンハネ用の飛び地である。この飛び地を家康の将軍就任から半年後に横領した(それ以前の可能性もあるという)。
幕府と朝鮮の講和交渉中、宗主国の中国に独自に使者を送って交渉を始めようとした(半島では中国軍も戦ったが、中国側は朝鮮に丸投げする形で交渉を任せていた)。朝鮮側は二重外交だとして怒り、交渉は一時決裂しかかった。
妻は水野勝成の妹。似た者同士の義兄弟だった。今回は家康の重臣の一人として秀頼を出迎える事になった。
頼宣は緊張していた。加藤は幼い婿の後ろに立って、両肩を優しく揉んでやった。
頼宣の兄の徳川義直。
紀伊和歌山藩主の浅野幸長。義直の義理の父に当たる。
石田三成に強い敵対心を抱いていた。江戸時代に入って風邪を引くと、
「三成がいた時は隙を見せてはいけないと気を張っていたから病気知らずだった。幕府に厚遇されて気が緩んだんだな」と自嘲したという。
義直は気持ちの籠った強い表情でじっと川を見つめた。
浅野は未来の息子を頼もしく思った。
播磨姫路藩主の池田輝政。関ヶ原の功績で一族合わせて百万石近い領土を与えられた。身長が低く、出世をねたんだ大名に陰口を叩かれたという。
伊予宇和島藩主の藤堂高虎。実戦経験豊富な苦労人である。家康に信頼されて政権中枢で活動していた。
池田はのんきにあくびをかみ殺した。藤堂は周囲を見回して警戒を怠らなかった。
秀頼一行が乗る船がやってきた。御座船安宅丸のような立派な船である。
頼宣は船を睨んだ。
加藤は遠回しに頼宣をたしなめた。
「俺は人相学まで駆使して天下一の軍隊を作ろうとしました。それで分かったのは、普段から威張って大口を叩く人間は戦場では役に立たないという事です。普段優しく真面目な人間こそが、戦場では真の勇者となる。
婿殿にもそのような男であって欲しいと思っています」