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方広寺鐘銘事件は様々な問題が絡み合って出来ていた。
最初に席順問題が起きた。次に日程問題。銘文問題。棟札問題。最後に官位問題が持ち上がった。
幕府は問題の一端が公家の一部にあると見た。後に関白の鷹司信尚は幕府に冷遇されて耐えられなくなり、辞職を申し出ている。
五山は呪詛を否定した。
この年の十一月、三井寺が密かに家康を呪詛しているとの密告が入り、崇伝と板倉が調査に入った。結果は事実無根だった。また伊勢神宮が裏で家康を呪っているとの噂も流れた。
林羅山の呪詛という指摘は、現代の日本人から見ると突拍子のないものに見える。しかし当時の日本人はそういう発想が自然に出る社会に生きていた。
現在、方広寺には問題の鐘が保存されている。教科書にもその写真が載っている。間違いなく日本一有名な鐘だろう。
細かい字で長文がびっしり書かれてある。最初に外施仁政、国家安康を発見して問題視したのは京都市民だった。発表した論文をネット住民が解析してねつ造を暴いたような経緯である。
幕府に後ろめたい気持ちがあれば、言いがかりの決定的証拠となる鐘は後世に残さない。正しい裁きを行ったという揺るぎない自負があればこそ、幕府は清韓の犯罪の証拠として鐘を永久に残す処置を取った。
取り調べの初期段階では、鐘の表面をやすりで削り取る案も出た。しかし且元の不誠実な対応が幕府の態度を硬化させた。
こうして方広寺問題は一応の決着を見た。
後付けの結果論になってしまうが、軍拡に対して兵糧、弾薬を禁輸する、といった毅然とした対応を取るべきだったろう。
幕府の融和外交は誤ったメッセージを敵国に送ってしまった。「こちらが何をしても向こうは何もしてこない」、「戦争を怖がっている」、「今戦えば勝てる」。
幕府に潰す気があるなら豊臣家が軍拡を始めた段階で動いている。銘文をやすりで削って全てなかった事にしよう、なんて話もしない。
むしろその気がなさ過ぎたのが問題ではなかったか。
(続く)




