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二十一日、崇伝と家康側近の板倉重昌(京都所司代板倉勝重の次男。首相秘書官ポジションを務めていた)は家康の茶室に呼ばれた。
家康は銘文の写しの一部を二人に見せた。既に板倉以外の人物が報告を上げていた。
二人は一読して青ざめた。
当時の天皇は後水尾天皇。名前は「政仁」という。使用を避けるべきだが「外施仁政」という形で使っている。
家康の名前も「国家安康」という形で使っている。
銘文を書いた文英清韓は後の幕府の取り調べに対して、「わざとやった。ジョークのつもりだった」と供述している。瀬戸際外交を繰り返す独裁国家でさえ、天皇の名前を使ったジョークはまだ言っていない。
方広寺再建は多額の税金を投入した国家事業だった。しかも幕府と大阪は軍拡問題を巡って緊張していた。
例えば、日本と外国が共同で国際海底トンネルを作ったとする。そのトンネルの壁面に天皇と日本政府首相に対するセンシティブな文言が刻まれていたらどうだろう。
常識的な判断として「外施仁政」、「国家安康」は避けるべきだった。
家康は怒った。
「こっちは奈良の東大寺のような簡素な銘文にしろと指示したんだが。何でこんなに長ったらしく書いた?勝手にこんな不吉な言葉を刻んだ?棟札にも問題があるというぞ。誰が書いたんだ?」
崇伝は答えた。
「私には分かりません。内容も初めて知りました。
これは両家の間を引き裂くために部分的に抜き出したものかもしれません。全文を読めば印象も変わるはずです。草稿を取り寄せて精査すべきでしょう」
「分かった、そうしよう。
それと棟上げ式だが。片桐は板倉に相談しないで勝手に八月一日にやる気のようだ。こっちは『いつでもいいが八月一日だけは凶日だから止めろ』と指示したのにな」
「市殿は立派な方です。仕事疲れで今は一時的に頭が回らないだけですよ」
「あいつがこんなに粗忽な奴だとは思わなかった……」
銘文の写しを見た家康は「片桐が銘文の内容を勝手に決めた事」にまず怒った。ほうれんそうをしっかりやれよ、と。内容も喜ばしいものではなかった。
当然他にも問題はあるはずだった。
二十三日、駿府に板倉からの書面が二通送られてきた。
一通は片桐との話し合いの結果報告。もう一通は別の問題の発生を知らせる内容だった。
家康以下政権閣僚は話し合った。




