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京都所司代の屋敷が二条城の北側にあった。
板倉と大阪城の片桐は書面や使者を介して協議を重ねた。
板倉は別日開催を主張した。片桐は八月三日の同日開催を主張した。
二人は妥協点を探り合った。
二人は幕府の望みは天台宗の顔を立たせる事と誤解していた。京都と駿府の間で意思疎通が上手く出来ていなかった。
片桐は「真言宗が仕切る大仏供養式でも天台宗を上席に着ける。その代わり同日開催案を飲んで欲しい」と提案した。
板倉は同意した。
二人は真言宗のゴネ得を許さない形で同日開催に決めた。
板倉は妥協案を駿府に送った。
その間にも所司代屋敷には内偵捜査の武士や、不安を抱えた僧侶や公家が入れ代わり立ち代わりやってきた。
板倉は対応に追われた。
内偵の宮本武蔵は所司代屋敷を訪れて板倉と面会した。
武蔵は報告した。
「鐘の銘文が住民の間で騒ぎになっています」
武蔵は銘文を書き写した紙を渡した。
板倉は一読して「うわ……」と声を漏らした。
「噂は市中に広がっています。もう別の誰かが大御所の耳に入れているかもしれません」
「一応こちらからも報告はしておく。
まあ、わざとだとは思うんだよ。けど悪意はなかったと信じたい」
「悪意のみですよ。長文の中に混ぜればバレないと思ったんでしょ。姑息ですよ。
処分はどうします?秀吉は不敬な落書きした犯人を住んでる街ごと焼き殺したそうですが」
「尾藤道休ね。
不敬犯は家屋を破壊して京都追放が相場だ。さすがに街は焼かない。そこは安心してくれ。
問題はこれが単独犯かどうかだ。裏に大物がいたら非常にまずい」
七月十八日、板倉から駿府に妥協案の書状が届いた。
家康と政権閣僚は大広間に集まった。
正純は書状を読み上げた。
「八月三日に大仏供養式と大仏殿供養式を同日開催する事で片桐と合意しました。
三日の午前中は仁和寺の仕切りで大仏供養式を行います。午後は妙法院の仕切りで大仏殿供養式を行います。
席順は午前も午後も天台宗が上位です」
板倉は出席者リストや座席表も送ってきた。正純はそちらも読み上げた。
関白を筆頭に当時のセレブが勢ぞろいしていた。中止になれば彼ら全員の顔に泥を塗る事になる。
正純の読み上げが終わった。
家康は崇伝に研究結果を尋ねた。
「古例の方は?」
「鎌倉右大将は大仏供養式と大仏殿供養式を別日に分けて行っていました。
文治元年に大仏供養式が開催されました。壇ノ浦の戦いや判官追討の院宣が下された年ですね。天平勝宝の供養式に倣い、後白河院を筆頭に公卿百官が列席しています。
五年後の建久元年に大仏殿の棟上げ式。更に五年後の建久六年に後鳥羽院や右大将列席の元、大仏殿供養式が執り行われています」
家康は確認した。
「右大将は大仏供養式に出なかった訳だ。
俺のいる所に前右府が来ると余計な波風が立つ(両家の上下関係が明確になる)。俺が出ないという選択肢もある」
「天平と文治の供養式には朝廷の主だった官吏は全員出席しています。ただし当時将軍職は空位でした。現役の征夷大将軍が供養式に出席した前例はありません。
当時の右大将は平家追討の功で従二位の位階を授かった高官でした。本人も出席したかったでしょうが、判官のいる京都に入る事は政治的に難しい状況でした。
出席を断念する事情が特にない限り、従一位の大御所には出席していただきたい所です。将軍家が出席なさらないのなら猶更です。
正二位の前右府も同様です。あのお方は出席に前向きと聞いています。そもそも自分を下だと思っていないのでしょう」
こちらから秀頼に出席を求めたら、「幕府は豊臣家に屈辱を強要した」と取られかねない。今向こうを刺激したくなかった。
家康は指示した。
「俺は出席する。前右府の出席は本人の判断に任せる。出てもいいし、出なくてもいい。好きにしてもらって構わない。
板倉にはもう一度別日開催で調整してもらう。大仏供養式は三日。大仏殿供養式は十八日がいい。方広寺は太閤を祀る寺だ。十八日は太閤の十七回目の命日。式典の最後を飾るのにふさわしい日だと思う」
幕府は板倉に八月三日&十八日の別日開催案で調整するように指示した。




