4-4
六月、二人の豊臣家重臣が駿府を訪れた。
一人は大野治長。もう一人は片桐且元の弟、片桐貞隆である。
大野は片桐兄弟と水面下で権力闘争を繰り広げていた。
側近グループは反片桐派で反徳川派だった。大野は反片桐派ではあるが反徳川派ではなかった。片桐を引きずり下ろすのに都合がいいから側近グループと組んでいるだけで、トップに立った後は現実路線に転換して親徳川派に鞍替えするぐらいは平気でやれる男だった。
信用出来ないタイプだったが、大野まで敵に回すと片桐は城内で孤立してしまう。
家康は片桐を通じて、大野と片桐貞隆に五千石づつ加増させた。
片桐且元本人は去年の段階で一万石の加増を受けている。現在は方広寺の鐘の撞き始め式で京都にいた。
二人は駿府城大広間で家康や政権閣僚と面会した。
大野は頭を下げて感謝した。
「加増の御礼申し上げるべく、主膳正(貞隆)と共に参上いたしました。このたびの加増、まことに、まことにありがとうございました」
家康は顔を上げるように言った。
「顔を上げてくれ。
再建工事で何年も苦労しただろう。この加増で報いたい。よくやってくれた」
「ありがとうございます」
本多正純は大野治長に要請した。
「寺作りに熱中して領内の統治が乱れているようですが。
各地から追放されたキリシタンが大阪に流入しています。厳重な取り締まりを要求します」
「分かりました」
「禁教計画を提出していただきたい。今領内に信者が何人いて、毎年何人減らして最後はゼロにするか。具体的な道筋を速やかに示していただきたい」
「今手元に具体的な数字がないので、明確な道筋を提示する事は出来ません。しかし再建事業が終わったら禁教政策に本格的に着手する事をお約束いたします」
崇伝は説明を求めた。
「大阪城内の一部勢力は牢人を雇って武器弾薬を買い込んでいます。今にも隣国に攻めかかろうという勢いです。
何故このような事が起きたのか。詳しく説明していただけると幸いです」
大野は一瞬答えに詰まった。貞隆が全て正直に答えた。
「大阪城内は神がかりの狂人集団とそれ以外に分かれてしまいました。前右府は狂人どもに取り込まれて意のままに操られています。
彼らは御公儀と豊臣家に仇なす存在です。力を持って取り除く事は簡単ですが、それでは前右府に害が及ぶやもしれません。御公儀の外交の力で連中を追い散らす事が肝要かと存じます」
家康は二人に要求した。
「俺も将軍家もこの事態を大変心配している。今回の加増でお前達の力も強まった。前右府が悪い相手と関わらないように手を尽くしてくれ。
大阪は勘違いしている。俺に豊臣家を潰す気はないんだ。どうか敵と思わず家族として接して欲しい。
この大法要が両家のわだかまりを氷解させるきっかけになると信じている」
会見が終わった。二人は退室した。
家康一同は広間に残って対応策を話し合った。
正純は疑った。
「責任を全て狂人集団に押し付けているようにも見えます。主導しているのは前右府本人では?」
崇伝は反論した。
「前右府は白い糸。取り巻き次第で何色にも染まります。市殿(片桐且元)の力を強めて取り巻きを排除させるのが正攻法です」
家康は注意喚起した。
「朝廷の一部も大分こちらに苛ついている。
争いが起きないように柔軟に対応しよう。相手の意見を十分聞いて、向こうも満足出来るように取り計ろう。一番は法要が無事に成功する事だ」
七月、朝廷は話し合いを持ち、大仏供養式の責任者として真言宗の仁和寺の覚深法親王を推薦する事にした。また日時としては八月三日を要望した。
朝廷と幕府の関係は緊張していた。家康は朝廷案を丸飲みする事で融和を図った。
方広寺鐘名事件の始まりである。




