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一六一四年五月、片桐且元は駿府城を訪れた。片桐は以心崇伝と面会して方広寺再建工事の完成記念式典のスケジュールを詰めた。
崇伝は家康政権の外務大臣と法務大臣ポジションを兼任していた。
僧侶出身の優秀な政治家だった。伴天連追放之文、武家諸法度、公家諸法度、寺院諸法度は崇伝が起草した。欧州、アジア諸国との交渉も担当した。周囲からは「黒衣宰相(僧侶の大臣)」と呼ばれていた。
家康政権には譜代家臣だけでなく、外様家臣や僧侶、学者、商人、外人と多彩なメンバーが集まっていた。その中でも、外交と内政を取り仕切る崇伝、経産大臣ポジションの大久保長安、官房長官ポジションの本多正純の三人が政権の要になっていた。
なお松平正綱という旗本が財務大臣ポジションを務めていた。彼の息子が有名な知恵伊豆、松平信綱である。
方広寺は秀吉が建立した日本最大の寺である。当時、奈良の大仏は焼き討ちで破壊されて存在しなかった。方広寺の大仏は奈良の大仏より大きかった。
しかし地震でその大仏が崩壊してしまった(大仏を安置する大仏殿は無事)。豊臣家は再建に取り組んだが、今度は工事中の火事で大仏殿が燃えてしまった。
幕府は再建に必要な金、米、人、物を提供した。物資を運ぶ運河も掘った。幕府と豊臣家の共同作業で方広寺は元通りになった。
式典はいつやるか。責任者は誰にするか。誰を呼ぶか。ゲストの席順はどうするか。そういった細かい事が二人の間で決められていった。
豊臣家で安心して実務を任せられるのは片桐だけだった。領地経営や外交交渉の他に、式典の準備や城内の権力闘争も重なって、彼は非常に疲れていた。
あらかた決まった後、崇伝は側近を呼んで指示した。
「林殿に見てもらいたいから呼んできてください」
側近は頭を下げて退室した。
崇伝は片桐に説明した。
「林羅山。徳川の麒麟児です」
この時、城内では法律の制定作業を進められていた。
現代だと、優秀な若手官僚十人余りがタコ部屋に集められて、リポビタンDとペヤングを食べながら朝八時から夜十二時まで一年近く働いてようやく完成する。
この当時も実態は変わらない。
優秀な若手を一カ所に集めて、関係者と面談して意見を取りまとめながら作っていく。全員タコツボ労働で体は疲れ切っていた。服はヨレヨレでヒゲが生えていた。
タスクチームのリーダーには将来を期待された若手エースが就任する。この時のリーダーは林羅山という学者だった。
家康政権には黒衣宰相と呼ばれた僧侶がもう一人いた。
南光坊天海。
正体不明の怪僧である。正体は明智光秀とも、足利将軍の隠し子とも言われている。本人からしてしょうもないデマを撒いて喜ぶ陽気な老人だった。
崇伝が働いている間、天海は座敷で家康と饅頭を食べながら無駄話をしていた。
「川中島の戦いで信玄が謙信の刀を軍配で防いだのは嘘。本当はお互い刀で切り合っていた」
「謙信が本陣に突撃したら全員僧侶の姿で誰が誰だか分からない。とりあえず切り付けたらそれが信玄本人だった」
「実際に見たから間違いない。五十五年前だから四十五才の頃だ」
家康は笑って話を聞いた。
天海は関東の天台宗寺院のトップを務める川越大師の住職だった。しかし崇伝のように政治には関与していない。偉大な宗教家だが、政治的な権力はなかった。
数日後、式典の原案が完成した。
家康、政権閣僚、片桐は駿府城大広間に集まって会議を開いた。
家康は八月一日に上洛する。
大仏殿の完成を祝う棟上げ式は豊臣家の判断で上洛前に行う。いつでもいいが、八月一日だけは止めて欲しい。この日は三厄日(台風がよく来るので米作りには悪い日だった)なので。
大仏供養式は八月二日に行う。
「仏作って魂入れず」ということわざがあるように、大仏にお経を唱えて魂を吹き込む事で、初めて金属の塊は仏像になる。このお経を唱える儀式を大仏供養式という。
大仏の供養式と並行して大仏「殿」の供養式も行う。建物の方も魂を入れる事で完成する。
その後武家諸法度、公家諸法度を公布する。
式典全体の最高責任者は妙法院門跡の常胤法親王。天台宗の大寺院の住職である。
大仏供養式、大仏殿供養式の責任者は朝廷の意見も聴取した上で後日決定する。
方広寺は朝廷の認可を受けていない豊臣家の私的な寺だった。今回、式典に合わせて国家の正式な寺に昇格させる予定になっていた。途中で認可取り消しになっては困るので、朝廷や宗教界の意見も取り入れる必要があった。
秀吉は生前、各宗派の僧侶千人を方広寺に集めて亡母の法要を毎月行った。千僧供養という。五奉行の一人で真言宗の僧侶だった前田玄以が法要を取り仕切った。前田との関係から法要では真言宗が上席に座った。
家康は今回は天台宗に任せる事にした。席順も当然天台宗が上になる。
真言宗は日本仏教の老舗という意識が強く、「毎日呪文を唱えるだけで神になれます」という教えを説く鎌倉新仏教を嫌悪していた。千僧供養では新興宗教と同席する事になるので、内心では参加をひどく嫌がっていた。
誇り高い真言宗は家康の天台宗上位という判断にも大きな不満を持った。
片桐の駿府滞在は二週間に及んだ。
別れの日、鷹狩愛好家の家康は秀頼に鷹の雛を一羽贈った。片桐には馬一頭、また別の鷹の雛を一羽贈った。




