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大坂の陣で豊臣軍と戦う宮本武蔵  作者: カイザーソゼ
3話 大久保長安事件
33/145

3-12

 家康は十二月十四日に江戸城に入った。


 本丸御殿の一室でごく少数の関係者による話し合いが持たれた。

 謀反の件は表に出せない。別の処分理由を考えなくてはいけない。そもそも忠隣は処分するべきなのか。


 秀忠は無断婚姻の罪での忠隣改易を主張した。権力者だからお咎めなし。そんな事をしていれば組織ガバナンスは崩壊してしまう。

 家康は忠隣を擁護した。

 他の出席者がどちらに付いたかは分からないが、最終的には秀忠案が通った。徳川家で一番金を持っている家臣を葬った事で、秀忠の発言力は増大していた。


 幕府は小田原城に籠城される最悪の事態を回避するため、忠隣を城の外に出す事にした。


 十九日、幕府は強力なキリスト教徒弾圧令、「伴天連追放之文」を公布した。

 これに伴い、幕府は忠隣に京都のキリスト教対策の総責任者を命じた。京都所司代のキリシタン対策は緩く、市内に隠れ信者が多く残っていた。


 明けて一六一四年正月、忠隣は小田原城を出発。数日後に所司代屋敷に入った。


 所司代の官僚が準備を全て整えていた。後は責任者が命令書にサインするだけだった。

 忠隣は弾圧の総責任者として言われるままにサインした。


 京都市内の林の中に祠があった。小さな建物の中に地蔵像が安置されていた。

 表からは見えないが、地蔵像の背中には十字架が彫られていた。背面十字架地蔵という。

 信者は祠の前に集まって拝んだ。彼らは両手を合わせる代わりに、左右の人差し指を胸の前で交差させて十字架を作った。

 京都所司代の捕縛部隊が集会に乱入してきた。


 捕縛部隊は市内各地の隠れキリシタン集落を強制捜査した。


 家の屋根裏に宣教師が潜んでいた。

 囲碁の碁石入れの中にマリア像のメダルが隠されていた。

 床板を外すと地下に続く階段が現れた。下りていくと隠し教会があった。


 押収した十字架や聖書は広場に集めて燃やされた。

 教会は破壊された。

 宣教師は長崎に移送された後、強制送還された。

 信者は改宗を迫られた。拒否した者は八丈島に追放されたり、逮捕されて奉行所の牢屋に入れられたりした。


 忠隣は所司代屋敷の座敷で政務を取っていた。

 京都所司代の板倉勝重と部下数名がやってきた。

 忠隣は命令書にサインを書きながら言った。


「これで最後だ。他には?」


「いえ、これで終わりです。ご苦労様でした」


 板倉一行は忠隣の前に座った。忠隣は机の横の盆に書き終わった命令書を置いた。

 板倉はため息を付いた。忠隣は笑った。


「お前がやりたくないって言うから正月早々来たんだぞ?」


「心が痛みませんか?」


「将軍家のために生き、将軍家のために死す。それが俺だよ!」


 忠隣は大笑いした。そう状態で機嫌がよかった。

 板倉は袱紗に包まれた上意書をそっと自分の前に置いた。こちらは申し訳なさそうな顔だった。


 忠隣は山口家との無断婚姻の罪で改易された。馬場の存在は特定機密指定を受けて封印された。

 忠隣の同僚だった江戸の政権閣僚は動揺した。忠隣は閣内で孤立気味だったし、無断婚姻の罪は改易が妥当だった。しかし一旦出した無罪判決を破棄して改めて有罪判決を下すのは不適切だと思われた。破棄するなら有罪と判断した証拠を見せて欲しかった。


 秀忠が処分に至った経緯を閣僚に詳しく説明したかは定かではない。

 後年の話だが、秀忠はとある政権閣僚を改易した際、外様大名まで一人一人座敷に呼んで自ら改易理由を説明している。

 忠隣改易から一か月後、家康親子と本多正信は閣僚に対し、幕府に忠誠を誓わせる誓紙を提出させた。


 外様大名では福岡藩の黒田長政が関連を疑われた。忠隣は黒田を通じて豊臣家の支援を得ようとしたともいう。

 黒田は忠誠を誓う誓紙を提出した。幕府は黒田の人脈関係を洗い出すため、身辺調査の協力を要請した。黒田は同意した。

 これで一旦は収まったが、秋になると黒田家の元重臣が豊臣家に仕官する事件があり、結局黒田は冬の陣への参戦を許されなかった。


 戦後、黒田家は「豊臣恩顧の大名だったから警戒された」と自己弁護したが、最大の豊臣恩顧の大名だった前田家は参戦を許されている。黒田家よりも秀吉と縁が深い蜂須賀家や、熊本の加藤家も参戦を許された。

 後に豊臣家は前田家に軍事支援を求める密書を送るが、前田家は封も切らずに即座に幕府に回送した。

 黒田は疑われる行動に対して即座に強く釈明しなかったので信用を損ねたと考えられる。参戦を許されなかった福島正則、加藤嘉明も同じ理由だろう。


 事件から三十年後、家康の孫の松平忠明は馬場の存在を初めて公表した。しかし松平は馬場が忠隣の謀反を幕府に密告した事実はあったものの、その内容自体は虚偽だとしている。


 今回、秀忠は徳川家で一番力を持っている家臣も葬った。秀忠の発言力は更に上昇した。

 親子仲は大変良かった。互いを尊敬し合い、いたわり合っていた。

 しかし忠隣改易以降、家康が秀忠に対して譲る部分が多くなった。幕府の主導権は身内には特に厳しい秀忠に移り始めた。


(続く)

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