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 大阪の人口は二十万人。京都に次ぐ日本第二の都市だった。

 碁盤目に区画された方格設計の街である。当時としては珍しい瓦葺の二階建て家屋が建ち並んでいた。


 治安は日本最低だった。

 沖縄の成人式のような集団が街を練り歩いていた。

 肩が当たった、当たってないで切り合いになった。喧嘩は弓や槍を持ち出して小規模な合戦に発展した。

 住民は外でも平気で立小便した。至る所に死体が転がっていた。血と酒と小便の臭いが街に充満していた。


 十年に及ぶアフガニスタン介入に失敗した後、ロシア社会の治安は極端に悪化した。

 復員兵は最早どんな凶悪犯罪も平気で行えるようになっていた。警察までが白昼リンチを受けた。

 アフガニスタンの十年でロシア社会は暗黒化した。百五十年間戦い続けた戦国時代の戦後がどれほど荒々しいものだったのか。平和な時代の人間には想像も難しい。


 街の中心部に大阪城があった。城は二重の水掘と巨大な天守閣を持っていた。

 城の一番外側に外堀があった。外堀に守られる形で家臣の住む二の丸があった。二の丸の内側に本丸を守る内堀があった。

 本丸は城の中枢エリアである。大きく北と南に分かれていた。

 北に天守閣と奥御殿。ここは総理大臣公邸で、秀頼と家族が住んでいた。

 南に表御殿。こちらは首相官邸で、政務や会議はここで行われた。


 秀吉の生前から城内の風紀は乱れていた。

 盗難事件や不倫が多発した。秀頼の家臣が街で殺されたり、恨みから城内で殺人事件が起きた事もある。街も城も殺伐としていた。


 首脳部は本丸表御殿の大広間に集まって対策会議を開いた。

 秀頼は広間の一番奥の一段高い席に座った。色白で太った少年だった。


 当代随一の学者が家庭教師に付いたが、講義をニ回受けただけでギブアップした。

 城内の神社で祈祷や祭祀を毎日執り行った。

 スピリチュアルな性格で、勉強は嫌い。食べるのは好き。これが資料から浮かび上がる秀頼の姿である。


 実際に秀頼に会った人間は「とてつもなく太っている」と証言しているが、「とてつもなく太っていて背も高い」とは言っていない。背も高かったという話は後世の資料に初めて出てくる。


 所領は六十五万石。これは江戸時代後期に「多分これくらいだったのでは」と推測された数字で、実際の所はよく分かっていない。豊臣領とされる土地でも別の人間が治めていたり、また別の人間の所有地なのに豊臣家に税を収めたりしていた。

 所領はおそらく五十万石~六十万石程度に収束すると考えられる。


 当主が死んで後継者が幼い場合、親族が未亡人を期間限定の代理当主に立てて家中を運営するケースはよくある。いわゆる「女大名」だ。


 代理当主の淀と側近数名は襖一枚隔てた隣の座敷に座った。


 淀は強いストレスから身体症状症を発症し、原因不明の体の痛みや摂食障害に悩まされていた。精神の安定を求めて神にすがり、息子を束縛した。


 淀は基本的に男性家臣に顔を見せない。人を使ってやり取りするか、屏風越しに話すのが普通だった。今回も襖越しに話を聞いていた。


 秀頼と向かい合う形で家臣団が縦四列で座った。前であるほど、左であるほど格が高かった。


 前列左端に織田信雄が座った。

 信長の次男である。以前は百万石の大大名で、官位は右大臣に次ぐ内大臣だった。秀吉の転封命令に逆らった罪で改易された。家康の取り成しで大名として復帰したが、関ヶ原で西軍に付いて再び改易された。

 信雄は最も格の高い家臣だった。ただ実際の政治権力はそれほど高くなかった。


 信雄の後ろに織田親族グループが偉い順に座った。


 信雄の右隣の前列席に大野治長が座った。

 淀との仲は公然の秘密だった。

 関ヶ原直前、京都で情報収集に当たっていた毛利家臣は「大阪城に乗り込んだ家康は不倫の罪で淀と大野に死罪を命じたが、宇喜多秀家が二人を匿ったとも、二人で高野山に逃げたとも聞く」と真偽不明の噂を本国に報告している。

 家康暗殺事件に関与して大阪城から追放されるが、後に許されて復帰した。許された事を以って「暗殺計画はなかった」と解説される事もあるが、家康は基本一度は許す。


 大野の後ろに旧浅井家臣グループが一列に座った。


 秀頼の正面には基本誰も座らせない。右の二列と左の二列の間にはスペースが出来ていた。

 今は秀頼の正面に織田有楽斎が座っていた。


 秀吉は浅井一族と見られていた淀の家格を上げるために、織田一族の有楽斎に淀の親代わりを任せた。

 家康とは小牧長久手以来の付き合いだった。関ヶ原では東軍に付いて三万石の大名になった。

 表面上は信雄が織田家筆頭だが、政治権力は淀や家康との関係から有楽斎の方が強くなっていた。


 左の二列が親族席なら、右の二列は家臣席である。

 有楽斎の右隣の前列席に片桐且元が座った。


 淀は片桐を「秀頼の父代わり」と呼んだ。片桐は領土経営に外交交渉、寺社復興政策と豊臣家の全ての事業を取り仕切っていた。名実共に豊臣家のトップだった。


 片桐の右隣の前列席に片桐貞隆が座った。


 且元の弟である。兄の右腕として活動していた。大阪城の門は一つが有楽斎、一つが貞隆、残り全部を且元が管理していたという。


 片桐兄弟の後ろにベテランの譜代重臣や若手の秀頼側近が混じって座った。

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