2-8
土井利勝は江戸城本丸御殿の大広間で将軍とその腹心と面会した。
二代将軍徳川秀忠。政治家として非常に高く評価されている。巨大な官僚機構を整備して、プラスもマイナスも大きいトップダウン方式から、プラマイが少ない集団指導体制に移行させた。幕政の安定は彼の手腕に拠る所が大きい。
ソクラテスは「自分一人で仕切れる課題は限られる」、「それを自覚出来るのが賢者の第一歩」と最優秀の弟子のプラトンに説いた。
しかし自分の学習スキルに絶対の自信を持っていたプラトンは、どんな分野のプロと知恵比べしても負けない全能の個人がいると信じ続けて、専制政治の信奉者になってしまう。
徳川吉宗のブレーン、荻生徂徠は「知者とは誰に問題を任せたらよいか分かる者」と説いた。
トップはゴミの分別から外交安保まで全てを知り尽くしたオールラウンドの専門家である必要はない。必要なのは最適の能力を有していそうな部下を抜擢する力だ、と。
秀忠は父と同じく勉強熱心で、あらゆる知識の習得に励んでいた。しかし彼は信長、秀吉、家康とは別の新しい政治体制を作り上げた。
後年の墓の発掘調査で、身体の詳細なデータが明らかになった。
身長は当時の平均よりやや高い百六十センチ。体は日々のトレーニングで強烈に鍛え上げられていた。
遺骨には銃弾による傷があった。前線で負傷したと考えられる。ノンフィクション暴れん坊将軍だった。
なお銃傷ではなく、埋葬後の経年変化という説もある。
一六〇〇年九月六日、秀忠は家康の命令で真田昌幸が守る上田城を包囲した。
徳川方の牧野康成隊が田畑を荒らす挑発行動を取った所、城から敵部隊が出撃してきた。秀忠は自衛戦闘は許したが、深追いや勝手な城攻めは禁じていた。
牧野隊は敵を撃破して城の正門まで迫った。秀忠は命令違反を責めて牧野隊をすぐ撤退させた。
一五八五年の上田城の戦いでは、譜代の徳川家指揮官は新参の信州連合軍の手柄目当ての無理攻めをコントロール出来ず、大損害を出した。昔の反省が生きた。後に牧野は城前まで追撃した罪で謹慎処分を受けている。
八日、家康から「関ヶ原に急ぎ向かえ」と命令が届いた。秀忠は抑えの部隊を残して急遽撤退。関ヶ原に急行したが、悪天候が重なって十五日の本戦に間に合わなかった。
行軍は遅いかもしれないが、判断は速い。秀忠は優秀な軍事アドバイザーを求めて、当時浪人中だった西国最強を一本釣りした。
陸奥棚倉藩主の立花宗茂。軍事面の評価が高い大名である。
身長は百七十センチ後半。人格円満で武芸に秀で、笛や蹴鞠まで上手かった。
西軍に付いて改易されるが、秀忠の招きに応じて表舞台に復帰。現在は秀忠政権の安保担当補佐官のようなポジションに就いていた。
秀忠は信頼する二人に岡本事件の対策を尋ねた。
「普通なら両成敗だが、有馬の息子は大御所の側近だ。しかも俺の妹を娶っている。どうすべきだろう?」
立花は穏健策を提案した。
「大御所に配慮した上での両成敗ですね。岡本は極刑。有馬は隠居。跡を息子に継がせれば波風は最小限に抑えられます」
土井は同意した。
「岡本は大御所の手形を偽造して詐欺を働きました。死罪以外あり得ません。
有馬は隠居。出来ればその上で別の土地に飛ばしたい。ワイロでご政道を歪めようとした男から貿易利権を取り上げるべきです。また何か不満があったら大金をばら撒くに決まっています」
秀忠は頷いた。
「その辺りが妥当だな。
有馬が強気なのはポルトガルに顔が利くからだ。俺はそれだけで僧侶の目玉を抉る男の息子を弟と呼ばねばならない。こんな仕組みはいびつだ。
幕府が貿易を一元管理する体制が望ましい。国内の生糸生産も奨励しよう」
土井は尋ねた。
「本多上野殿(正純)はどうなさいます?」
「俺に処分する権利はないよ。大御所が上手くやってくれるだろう」