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天王寺の戦いは一時間で終わった。幕府本隊が出る前に豊臣軍は総崩れを起こして敗走した。
前日までの戦いで豊臣軍は既に崩壊していた。士気は低く、まともに戦えるコンディションではなかった。毛利は守備に穴を開けて全軍崩壊を早めた。
井伊直孝の作戦参謀で現地にいた岡本半介は、決戦翌日に関係者に出した書状にこのように書いている。
「松平忠直隊と真田幸村隊が天王寺で戦った」
「両隊は一時間ほど揉み合いになった」
「井伊隊が駆け付けて幸村隊は総崩れになった」
「幸村隊は城際まで退却した所で最後の反撃を行ったが、井伊隊、藤堂隊が押し返した」
前田隊の後ろにいた細川忠興は「幕府の一勝一敗」、「味方の一部は大崩れ」、「逃亡者もいる」と証言している。
当時九州で現地にいなかった島津忠恒は「家康と秀忠の旗本が二キロ逃げた」、「幸村隊の突撃で家康本陣が大崩れした」、「真田は日本一の兵と皆が言っている」と書状に書いている。
しかしこれらは「下々が噂している所を特に書き記すと」と確認の取れていない現地の噂をまとめたものだ。
現実問題として、秀忠の旗本には死傷者が出ているが、家康の旗本からは出ていない。
家康本陣を守備する近衛部隊は三河物語の作者、大久保忠教が率いていた。書いている事の九割がフェイクニュースの三河物語でさえ、前線が崩れた際の本陣移動の混乱で旗奉行と近衛部隊が家康と一時はぐれたとは書いているが、本陣に突撃されたとは書いていない。
忠直隊はこの日三千七百人の首を取った。これは幕府軍の中で最も多い。
死者の背後には二倍の重軽傷者がいる。忠直隊は約一万二千の敵にダメージを与えた。本多隊は中央突破を食らって壊滅したが、忠直隊は軽微な損害しか受けなかった。
前田隊も三千二百の首を取った。
決戦前日、幸村隊と伊達政宗隊は両者ダブルノックダウンとなる激しい打ち合いを演じた。力を使い果たした伊達隊は決戦では目立った動きを見せていない。
本多忠朝と小笠原親子の戦死(秀政は後方に搬送された後に死亡した)はあった。秀忠の指示で前線参加した別動隊の戦死や逃亡はあった。
家康本陣の後方移動はあった。急な移動に伴う混乱があり、スタッフの一部が家康を見失う事はあった。
この戦果を台湾沖航空戦ぐらい目いっぱい盛ると、
「前日の死闘の疲れから一日で完全回復した幸村隊三千は忠直本隊一万五千に中央突破を仕掛ける。しかし忠直本隊は棒立ちで何故か攻撃してこない。その間に幸村隊は敵陣をすり抜けて裏に抜け出す。このため忠直本隊は戦闘能力を損なう事なく後に三千七百人殺す事が出来た。
その後幸村隊は手柄が欲しくて何度も勝手に攻撃してきたのに今日に限っては何もしてこない家康本隊一万五千と忠直本隊後方の三万五千人の間を透明人間のように通過し、集結中の義直、頼宣隊三万と鉢合わせする事なく、秀忠も救援部隊を一切送らないので誰にも邪魔されず家康の本陣に三度突撃する。本陣を守備する近衛部隊は全員逃げたので死傷者はいなかったが幸村は後一歩で家康を倒せなかった」
になる。