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剣豪の新免無二斎は日出藩木下家に武芸指南役として仕えていた。
六月のある日、無二斎は江戸藩邸の道場で藩士を指導した。
出自ははっきりしない。資料上の初出は黒田藩の文書で、一五八六年の九州征伐から一六〇〇年の関ヶ原の間に黒田家に仕えた事が確認出来る。この時期に水野勝成も黒田家に仕えており、二人は同僚だった。
勝成はつまらない仕事を与えられた事に怒って辞めた。無二斎は朝鮮出兵に参加した。
朝鮮軍は弓矢が主武器で刀剣戦術がなかった。その弓は日本の鎧を打ち抜けなかった。逆に日本の鉄砲は遠くからでも鎧を打ち抜けた。
日本軍は鉄砲で打ち崩した後、槍突撃で突っ込んだ。乱戦になると抜刀して一方的に切り伏せた。
朝鮮出兵で刀の価値が増大した。戦後は剣術がブームになった。
帰国した無二斎は半島での経験を元に、二刀流剣術と総合格闘技をミックスさせた当理流を編み出した。
無二斎は大名や他家の家臣と交際して己の腕を売り込んだ。
無二斎の息子が宮本武蔵である。
武蔵の目には世渡り上手で口が上手く、人脈を築いてのし上がろうとする父はヨゴレに見えた。みっともない事はして欲しくなかった。
親子はたびたび衝突した。無二斎は最終的に武蔵を勘当した。
関ヶ原の戦いが始まると、武蔵は追放された身では合戦に参加出来ないと焦った。彼は石垣原に展開中の黒田軍の元に赴き、無二斎に謝罪した。父は許した。
親子は黒田如水の部隊に参加して九州全土を荒らし回った。
関ヶ原の功績で黒田家は豊前中津から筑前福岡に加増転封した。しかし親子は何らかの理由で黒田家を離れた。
その後の武蔵の活躍はよく知られている。
無二斎は豊後日出藩主の木下延俊に仕官した。
木下の義兄は豊前小倉藩主の細川忠興である。二人は親密な関係だった。木下は忠興の息子、細川忠利とも親しく付き合った。
木下の友人は上総大喜多藩主の本多忠朝だった。二人は互いの江戸藩邸を行き来するほど仲が良かった。
無二斎は木下を通じて細川家、本多家、更に両家と縁戚関係を結ぶ小笠原家とも交流した。
武蔵が出世していく過程で、父が築いた人脈が非常に大きく作用している。ただの牢人が細川家や本多家、小笠原家、水野家、尾張徳川家まで食い込んでいけたのは、周囲の人間の口利きがあったからだろう。
無二斎は日出藩では十手術や捕手術を藩士に教授した。
十手術は現在の警視庁逮捕術である。打撃や投げ、関節技を使って犯人を生け捕りにする。十手は警棒として用いる。警察の訓練では柔らかいソフト警棒を使うが、この時は木の十手を使っていた。
当時の道場には反体制分子が集まっていた。先の読める道場主は当局に目を付けられないように自ら進んでスポーツ化した。
無二斎は道場ビジネスの才能も持っていた。十手術なら治安安定に貢献出来た。