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樫井川が大阪府南部を流れている。
一六一五年四月二十九日昼、三百人の首なし死体が樫井川の川原を埋め尽くしていた。流れ出る血で川は赤く染まった。
首を取られた指揮官の死体がゆっくりと赤い川を流れていった。
北から遅い援軍千がやってきた。
指揮官の大野治房は荒い息使いで川を見つめた。
敵は既に撤退していた。
先鋒隊が死闘を繰り広げていた間、治房は寺で泉州水ナスの天ぷら定食を食べていた。口の周りがまだテカテカしていた。
周囲は冷たい目で治房を見つめた。
治房は部隊に命じた。
「今度の事は不運が重なった仕方のない事故だった。楠木正成にも防ぐ事は出来なかっただろう。
浅野は我らに恐れをなして逃げた!勝ち鬨を挙げるぞ!」
治房隊は「えい、えい、おう」と声を合わせた。
治房の目的は和歌山藩浅野家の北上阻止だった。
その和歌山では一揆が起きていた。勝利した浅野隊は急いで引き返した。
治房は目的を達成した。
樫井川の北に岸和田城があった。
五十人の首なし死体が城北部の街道に横たわっていた。
岸和田の城兵五百人は「えい、えい、おう」と勝ち鬨を挙げた。
治房の弟、大野治胤隊千は岸和田城を包囲していたが、樫井戦の敗北を知って退却を開始した。城兵は追撃して勝利した。
治胤の目的は徳島藩蜂須賀家の東進阻止だった。
治胤は沿岸部の港を焼いた。蜂須賀隊は大阪に上陸出来なくなった。
治胤の方も目的は果たした。
兄弟は敗残兵を率いて大阪城まで後退した。岸和田城の部隊は深追いせず守りを固めた。
大阪は東西南北から攻め込まれる地形だった。大野兄弟の働きで南と西の攻め口は封鎖出来た。
豊臣家は幕府軍主力は東の奈良から、別動隊は北の京都から来ると想定していた。当初は打って出る積極策も話し合われたが、最終的には守りやすい要所で受ける防衛策が採択された。
五月一日、真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、明石全登率いる豊臣軍主力部隊二万が大阪城を出発。大阪城の南の天王寺に移動した。
部隊は防衛作戦が失敗した場合に備えて、天王寺一帯に野戦築城を施した。その後部隊は奈良~大阪間の要衝、河内国分へ向かった。
大阪城に残った部隊は幕府軍の南進を警戒した。
豊臣軍は八万。この内牢人衆は六万で、正規軍は二万。牢人は数は多いが戦力としては大分怪しかった。
幕府軍は十六万。三部隊に分かれていた。
東の奈良から攻める大和方面軍三万五千。奈良と大阪の県境近くにある法隆寺まで進出していた。
北の京都から攻める河内方面軍五万五千。京都と大阪の中間地点にある枚方まで進出していた。
徳川家康、秀忠親子の本隊七万はまだ京都に留まっていた。
枚方から大阪に至るルートは二つある。
南西に進む京街道ルート。南に進んだ後、西に転じる東高野街道ルート。
豊臣家首脳部は別動隊がどちらから来るのか測りかねていた。