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二十八日午後、家康親子と諸大名は二条城大広間に集まった。
家康親子は座敷の奥に並んで座った。諸大名は二人の対面に座った。
全国のほぼ全ての大名がこの場に揃った。
秀忠は開戦を宣言した。
「公儀は最後の最後まで平和的解決に向けて努力した。しかし豊臣は我らの思いに答える事なく、最悪の形で拒絶してきた。
悪逆の謀反人秀頼を最早許してはおけない。今こそ兵を挙げて大阪を討つ。異議はあるか?」
諸大名は「異議なし!」と口々に同意した。
秀忠は指示を出した。
「兵を二つに分ける。
大和方面軍。大将は松平左近少将(弟の松平忠輝)。先鋒は水野日向守。伊達陸奥守を補佐に付ける。東の奈良街道から豊臣領に侵攻しろ。
河内方面軍。大将は松平三河守(甥の松平忠直)。先鋒は藤堂和泉守と井伊掃部助。前田筑前守を補佐に付ける。北の東高野街道から豊臣領に雪崩れ込め。
両軍は道明寺で合流。天王寺口に展開して我ら親子を待て。
小荷駄は要らない。腰兵糧だけでいい。三日で悪党を滅ぼすぞ!」
諸将は「応!」と声を揃えた。
浅野隊は北上を続けた。
奈良から逃げてきた治房は岸和田城で弟と合流。部隊を引き継いで南下した。本当ならそのまま大阪城に帰ってもいいのだが、治房は汚名返上の勝利を何としても欲しがった。
治胤は一部隊を率いて岸和田城包囲を続けた。
二十九日、大野治房隊二千と浅野隊五千は岸和田城の南の樫井で激突した。
夏の陣の始まりである。
(続く)