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かつて筒井家は大和の東の伊賀十万石を治めていた。しかしお家騒動で改易されて大和郡山一万石に転封された。
大野治房は筒井家に内応の使者を送ったが拒否された。
筒井家は幕府に報告すると共に、傭兵一千を必死にかき集めて守備を整えた。
現在、伊賀は家康の腹心の藤堂高虎が治めていた。
大野治長は伊賀に工作員を送り込んだ。
工作員はリストラされた旧筒井家臣団に接触して一揆を促した。旧家臣団はこれに応じ、藤堂家の城に放火して挙兵する計画を立てた。
大野は和歌山を治める浅野家に内応の書状を送ったが拒否された。
和歌山は山がちで、隠し田が多い地域だった。浅野家は隠し田を厳しく取り締まった。山間部の領民は浅野を恨んだ。
冬の陣に便乗して一揆が起こったが、浅野家に鎮圧された。
内応を断られた大野は和歌山に工作員を送り込んだ。工作員は一揆の残党に接触し、「成功したら和歌山一国をやる」と約束して再度の決起を促した。
浅野家は一揆を気にして出撃出来なくなった。
和歌山と大阪の間に小出吉英が守る岸和田城があった。大野は岸和田にも内応の使者と工作員を送り込んだ。
小出は幕府に援軍を求めて防衛を強化した。また工作員を逮捕して一揆を未然に防いだ。
徳島を治める蜂須賀家は大野の内応要請を拒否して出撃準備を進めた。
堺は冬の陣で豊臣家を裏切って幕府に付いた。その事で豊臣家にひどく憎まれていた。戦争になれば何をされるか分からなかった。
堺の豪商や外国人商人は慌てて疎開した。市内は混乱した。
逃げる金がない一般市民は不安な気持ちを抱えたまま街に留まった。
家康は十五日に名古屋を出て十八日に京都の二条城に入った。
十九日、幕府は正式な出陣命令を下した。各隊は鎧に着替えて京都に集結した。
幕府の要求を断れば十六万の大軍が南下する態勢が出来上がった。
二十一日、秀忠も京都に到着した。家康親子と幕府首脳部は二条城で対応を協議した。