9-11
四月十三日、豊臣家首脳部は仮復旧した本丸御殿大広間で作戦会議を開いた。
譜代家臣は部屋の左側に縦二列、牢人衆は右側に縦三列で座った。
牢人席の前列左端に長宗我部盛親が座った。その隣に真田幸村、毛利勝永が座った。
二列目左端に明石全登が座った。その隣に後藤又兵衛、仙石秀範が座った。
家臣席の前列左端に大野治長が座った。ここは序列一位の席だが実権は既になかった。現在の大阪城の主は隣に座る弟の治房だった。
治房が会議の司会進行を務めた。彼は長宗我部に意見を求めた。
長宗我部は謙遜した。
「情けない戦歴のみの男です。まずは真田左衛門佐(幸村)の意見を聞くべきです」
幸村も謙遜した。
「土佐一国の国持ち大名の見識に勝るものはありません。まずは長宗我部様の意見を伺うべきです」
二人は何度か譲り合った。
見かねた周囲が「長宗我部様、ご意見お聞かせください」と勧めた。
長宗我部は「それでは……」と話し始めた。
「上様率いる全軍で京都を攻め落とします。
上様には伏見城にお入りいただき、敵の切り崩し工作を行っていただきます。
その間、軍は瀬田の橋(琵琶湖南部を流れる瀬田川に架かる橋。京都の東の玄関口)を落として唐崎(瀬田川西岸の街)で関東勢を待ち構えます。
戦は何が起こるか分かりません!敵は数は多いですが隙も多い。京都に行けば必ず何かが起こります!
もしも運なく敗退したとしても、上様が上洛して天下の主として号令した事実は日本の歴史に残るでしょう。出撃すべきです!」
周囲は「その通り!」、「全面同意!」と称賛した。
秀頼は大野治長に「修理よ。左衛門佐の意見を聞きたい」と求めた。
大野は幸村の意見を求めた。
幸村は「お望みとあれば」と断ってから話した。
「大阪は四方から攻められる土地です。少ない兵を分散させれば勝ち目はありません。攻め口を減らして兵力を集中させます。
まずは東の筒井と藤堂、西の蜂須賀、南の浅野に内応の使者を送ります。断れば軍事行動開始です。
別動隊の先制攻撃で奈良を落とします。沿岸部の港を焼いて蜂須賀の上陸を阻みます。伊賀、和歌山で一揆を扇動して藤堂、浅野の動きを封じます。
徳川軍は二手に分かれて来るでしょう。
一方は東の奈良街道から(一旦京都から南の奈良に進む。奈良からは西に進み、奈良と大阪を隔てる生駒山地を越えて大阪に至る)。
一方は北の京街道(京都から南西の大阪に向かって直進する)から。または東高野街道(京街道の途中で南下して生駒山地の西側を進む。途中で西に曲がると大阪に着く)から。
敵の主力は前回同様、安定を取って奈良街道から来ます(遠回りだが間合いが取れるので安全)。東高野街道は沼地が多い。兵力差を無視出来る地形が揃っています。ここからは来ません。
こちらも全軍を二つに分けます。
主力は河内国分(奈良街道の要地。攻めにくく守りやすい)で待機。奈良を落とした部隊は敵主力と戦いながら後退し、河内国分まで誘い込みます。
別動隊は城で待機。どちらの街道で来るか見極めた後、切所(守りやすい難所)に進出して迎撃します。
十分な損害を与えたら京都の牢人衆を蜂起させます。両将軍が慌てて引き返した所を背後から強襲して首を取ります」
誰も何も言えなかった。