9-7
家康と秀忠は協議を重ねた。親子は軍事行動の必要性に関しては一致した。
家康は限定的な武力使用を想定した。
大軍を大阪周辺に展開して、「言う事を聞かないと攻めるぞ」と圧力をかけて譲歩を引き出す。あるいは野戦で一度叩いて再度講和を強制する。
秀忠は全面的な武力使用を想定した。
大軍で大阪城に攻め込んで豊臣家を滅ぼす。父親が交渉で何とかしたいと言うなら止めないが、条件は以前より厳しくしないといけない。
二十四日、一旦大阪に帰った青木は再び駿府城大広間を訪れた。今度は加増要求ではなく、疑惑釈明が目的だった。
「全て噂」、「何かの陰謀」、「豊臣家は誠実に講和条約を履行する」……
青木は具体的な証拠は出さずに口だけで疑惑を晴らそうとした。話を全て聞き終わった後、家康は提案した。
「とは言えだ。
どんな理由があっても、和議に反して軍備を強化している事実は変わらない。これに関してお咎めなし、という訳には行かないだろう。
転封先は大和か伊勢に変更する。石高は十万石落とす。減封が嫌なら約束通り牢人衆を解雇しろ。
減ったと言っても五十万石は前田、島津、伊達、蒲生、加藤に次ぐ大封だ。
思い出してくれ。百二十万石の丹羽家。百万石の織田家。九十万石の蒲生家。太閤は一方的に無能と断罪して潰してきた。あの時代を諸大名はまだ覚えている。
この問題でグズグズしていると『この程度の問題も解決出来ない奴には五万石でも多い』と、そういう意見も出てくるだろう。
五十万の大封を任せるだけの資質がある事を天下に示してくれ」
豊臣サイドは反発した。
治房グループは再戦を煽って支持者を増やした。
大野グループも幸村グループも「幕府相手でも何とか戦える」という認識では一致していた。
治房グループは「一度勝っているのだから次も勝てる」、「怯える必要はどこにもない」、「幕府は弱い。豊臣は強い」と説いて回った。各グループは切り崩されて開戦支持に回った。
二十八日、織田有楽斎は京都の板倉に書状を送った。
―「もう嫌だ。豊臣家を辞めたい。周りは狂人だらけで話が通じない。一族を連れて城から出るので保護して欲しい」
幕府と大野は慰留した。しかし有楽斎はもう一秒でも城にいたくなかった。
幕府は渋々許可した。
有楽斎は喜んで城を出た。手を出せば幕府が動くので危害を加える者はいなかった。
幕府は京都に防衛部隊を増派した。
板倉は大阪に通じる街道を封鎖し、牢人や避難民の大阪入りを禁じた。大阪から出ようとする者はスパイと見なして追い返した。
また板倉は大阪での米取引を禁止した。更に各地の集落に大阪に移った牢人、避難民のリスト提供を求めた。
大阪市内には五万人程度の避難民が流入していた。牢人も同程度と推定されたが、出入りが激しく正確な実数は分からなかった。
京都市内には既に親豊臣派の牢人が住み着いていた。いわば潜伏工作員である。
大阪城のスパイは往来の少ない脇道や険しい山道を通って京都に入り、工作員と接触した。