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一六一四年十一月、幕府軍二十万は豊臣軍八万が籠る大阪城を攻めた。豊臣家首脳部は敗北を認めて講和交渉に入った。
最大のポイントは牢人六万の処遇だった。
総大将の大野治長は幕府を数で圧倒するためにひたすら人を集めた。
牢人衆は大野を数で圧倒した。押し切られた豊臣家首脳部は現実を無視した判断を下すようになった。
幕府は豊臣家の地位保全を約束する代わりに牢人衆の追放を求めた。大野は牢人衆を正式採用するために幕府に加増を要求したが、当然拒否された。
一六一四年十二月、両軍の間で講和条約が締結された。
豊臣家は大阪城を破壊した上で別の土地に移る。新しい所領は六十万石前後。今の所領と遜色ない土地になる。
豊臣秀頼の母親、淀を江戸に人質として送る。将来的には秀頼も江戸に住む。
豊臣家の責任で牢人衆を城から退去させる。
翌十五年一月から幕府、豊臣家共同で大阪城の工事が行われた。工事は二週間で終了した。大阪城は本丸を残して消滅した。
幕府軍は撤退を開始。二月には全員国元に戻った。
駿府城の徳川家康は大阪の情勢を逐一モニターすると共に、不足の事態に備えて武器弾薬を買い増した。
大野は牢人衆の退去に取り組んだ。
豊臣正規軍は二万。牢人衆は六万。力では追い出せない。
平和的に追い出したいなら納得出来る額の退職金を積むしかない。金がないなら家臣の給料を下げるなり、君主の生活レベルを下げるなりしてねん出しないといけない。
大野は城の金を切り崩そうとせず、かといって身を切る改革もせず、牢人衆が自発的に出て行く事を期待した。
牢人衆六万の内、指揮官クラスの武士(一万人程度いたという)は全員残った。兵士は少なくとも三万人が残り、二万人が出て行った。
退去した牢人の一部は複数の武装強盗団を結成した。
強盗団は夜は商家に押し入って金品を強奪した。昼は街道を通る旅人を殺して服まで奪った。強盗団は街で仲間を募り関西一帯で暴れ回った。大きいグループは五百人を越えた。
幕府の関西における代理人、京都所司代の板倉勝重は関西の諸大名に強盗団の厳しい取り締まりを命じた。今の警察と同様に、江戸時代でも犯人は生け捕りが絶対だった。しかし板倉は見つけ次第射殺を許可した。
諸大名はアメリカ警察のように犯人を射殺して回った。
板倉は豊臣側にも取り締まりを要請した。大野は要求を拒否した。
―「辞めた人間の事は知らない。連中が勝手にやっている事だ。しかし豊臣家が裏で手を引いて治安かく乱を狙っているという事はない。今後そんな噂が流れるかもしれないが、嘘なので絶対に信じないで欲しい。豊臣家は誠実に講和条約を履行する」
関西市民は集団ヒステリーに陥った。
二月、関西で神踊りが流行った。
白い着物を着た集団が路上で太鼓を叩き、歌い踊って神に祈った。