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二条城会見の後、加藤清正、浅野幸長、池田輝政が相次いで病死した。
紀伊九度山の善名称院でも一人の男が死を迎えつつあった。
信濃上田城の元城主、真田昌幸。関ヶ原では西軍に付いた。長男が東軍に付いた事で領地は保全されたが、本人は全てを奪われて和歌山に追放された。
城主時代は裏切りと暗殺を繰り返した。味方は少なく敵は多かった。
島津義弘も関ヶ原で西軍に付いたが、全国から赦免願いが届いて家も自分も守る事が出来た。立花宗茂も周囲の後押しで復活した。
昌幸は今、政治的には無縁仏の形で世を去ろうとしている。
一人の男が庭に立って夏の野山を見ていた。
一五六七年という生年さえ不正確という。
確かなのは、朝鮮出兵以降に秀吉に仕えて一万九千石の大名になった事。この時に大野治長の面識を得た事。戦後は和歌山に追放されて苦しい生活を送っていた事である。
穏やかで優しい性格だったと伝えられる。彼の兄は「弟が声を荒げた所を一度も見た事がない」と語る。
屋敷から嘆き悲しむ声が聞こえた。
男は目に浮かんだ涙を拭った。
屋敷から僧侶が出てきた。男は問いかけた。
「終わったのですね?」
「はい。見事な大往生でございました。皆様がお待ちです。どうぞ中へ、真田幸村様」
幸村は僧侶と一緒に屋敷に戻っていった。
家康陰謀論は政治の話であって歴史の話ではない。
あるいは文学の話だ。浪花節の忠臣蔵ストーリーに書き換えるために、秀頼のミスは全て家康、淀、大野に押し付けられた。
家康は無理難題でいじめる吉良上野介に、秀頼は忍耐に忍耐を重ねて遂に立ち上がった浅野内匠頭に、幸村は忠臣大石内蔵助に改変された。
実際の家康は秀頼に甘かった。何度挑発外交を仕掛けられても遺憾の意を表明するだけだった。
そして大阪城の主導権は秀頼こそが握っていた。
(続く)