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大坂の陣は江戸幕府と豊臣家が戦って、10対1ぐらいで豊臣家が負けた戦いです。
大坂の陣を書いた小説のほぼ100%が1点取ったことに力点が置かれています。この小説は10点取られたことに力点を置きました。その点で珍しいです。
会話は雰囲気を損なわない範囲で分かりやすく現代語に変えていきます。
脇道は自由にやりますが、本筋は一次資料を重視します。
「知っている話と違う」というシーンが多々あると思いますが、そこは「最近はこんな民明書房もあるんだな」と広い気持ちで見ていただると大変ありがたく思います。
全十一話。毎週日曜夜に更新予定。ジャンプのついでに読んでいただけると幸いです。
一六〇三年、徳川家康は征夷大将軍、右大臣に就任して江戸幕府を開いた。
税金は豊臣時代より減らした。大規模な公共事業でインフラ整備や新田開発を行った。朝鮮や中国とは平和協調路線を取った。法律や官僚機構を整えて行政力を強化した。
豊臣家は官僚を育成して行政機構を整備する、といった統治の基礎工事をやらなかった。
「お前の代わりなんて幾らでもいるぞ」というのが組織である。一人がいなくなっても仕事が回るようにシステムは出来ている。
一カ所に権力を集めた時、その人がいなくなってしまうと何も出来なくなる。色々な所に権力を分散させておけば、不測の事態が起きても対応しやすい。しかしこれは独裁者の権力を削ぐ事にも繋がる。
豊臣家は一人の独裁者と五人の官僚で運営されていた。
独裁者の死をきっかけに五人は権力闘争を始めた。最終的に二人が死に、三人が豊臣家を離れた。
行政は崩壊した。豊臣家は税の徴収にも事欠くようになった。
豊臣家の筆頭家老、片桐且元は家康に助けを求めた。家康は幕府から行政官僚を派遣した。片桐は幕府の力を借りて何とか領地を経営出来るようになった。
生前、豊臣秀吉は全国から莫大な税を徴収して軍事費に当てていた。死後も大量の資金が余っていた。経済は長年の戦争で悪化していた。
片桐は幕府の財政出動に合わせる形で関西各地の寺を再建した。関西経済は回復した。大阪に行けば仕事に困らない、と全国から労働者が流入した。
景気は良くなったが治安は悪化した。大阪全体があいりん地区になった。
一六〇五年二月、家康は十万の兵を率いて上洛した。
家康は朝廷と交渉し、自身の将軍職を息子秀忠に、右大臣の官位を豊臣秀頼に譲る線で同意を得た。
ここに二代将軍秀忠、右大臣秀頼が誕生した。
右大臣就任は貴族界のエリートコースだった。武家では源実朝と織田信長、徳川家康しか就いた事がなかった。
また家康は朝鮮側の講和使節と伏見城で面会した。
秀吉の死後、豊臣政権と朝鮮は講和交渉を開始した。
豊臣政権は戦勝国として「朝鮮の王子を講和の使者として日本に派遣しろ」と主張した。
これだと朝鮮が負けを認めて王子を送ったように見える。朝鮮側は反発して講和交渉は暗礁に乗り上げた。
家康は融和姿勢に転じて交渉を加速させた。実務は小西行長の娘婿、宗義智に担当させた。後がない宗は外交文書の偽造に手を染めた。
朝鮮側は軟化して「探賊使(日本国内が本当に変わったか確かめる使節)」の民間人僧侶を派遣した。宗はこれを講和の使者と偽って家康と会見させた。
後に「柳川一件」として政治問題化するが、ともかくこの面会で講和交渉は実質的に成立した。
家康は秀吉の第一夫人、高台院を通じて秀頼の上洛を要請した。
自分の土地も治められない。自分の始めた戦争の始末も付けられない。しかし権威はある。これが戦後の豊臣家のありのままの姿だった。
家康は豊臣家を武家のトップではなく公家のトップ摂関家、あるいは準天下人として処遇しようとした。
そのためには上下関係を明確にさせないといけない。
かつて家康は上洛して秀吉と会見した。世間はこれで徳川家が臣従したと理解した。秀頼が上洛して家康と面会すれば、豊臣家は臣従した事になる。
戦争終結を機に秀忠を武家のトップに、秀頼を公家のトップに据える。家康はこれで戦後の新しい国の形をスタートさせようとした。
大阪城内の反徳川派は怒った。片桐は反対意見に押し切られた。
豊臣家は要請を拒否した。
全国に緊張が走った。京都、大阪の住民は逃げ出した。親豊臣派の諸大名が大阪城に味方する、との噂も流れた。
家康は会見要求を取り下げた。
大阪城内の反徳川派は勢い付いた。
家康は幕府の権益を拡張させつつ、豊臣家と粘り強く交渉を進めた。
一六〇七年、秀頼は右大臣を辞任した。
翌八年、豊臣家は密かに朝廷に働きかけて、右大臣より更に高い左大臣の官位を得る線で内定を得た。前右大臣家康より上のポジションに就く事で勝とうとした。
前年の一六〇六年に幕府は大名の勝手な官位獲得を禁じていた。
裏工作の動きを掴んだ幕府は朝廷に白紙撤回を求めた。朝廷は要求に従った。
反徳川派は外交的に敗北した。大阪城内で親徳川派が力を盛り返した。
幕府は飴と鞭で大阪城を揺さぶった。
かつて秀吉が建立した方広寺は日本一大きな寺だった。
寺は十年前の地震で崩壊した。豊臣家は数年前に再建工事に取り組んだが、お堂が全焼して工事はストップしていた。
幕府は工事の再開を勧めた。予算も人員も出してやった。資材運搬用に運河も開削した。幕府と豊臣家は共同で再建工事に取り組んだ。
工事責任者の片桐は家康に進捗状況を逐一報告した。家康はほうれんそうを徹底する片桐の仕事ぶりを評価した。この時はまだ例の釣り鐘問題の兆候は見えない。
一六〇九年正月、豊臣家は年賀の使者を幕府に送った。
年賀の挨拶は家臣が主君に対して行う。どちらが挨拶に行くかで上下関係がはっきりする。家康は一六〇三年を最後に秀頼への挨拶を止めていた。
立場は逆転した。
一六一一年春、新天皇が即位する事になった。
家康は五万の兵を率いて再上洛。そして織田信長の弟、織田有楽斎を通じて秀頼に会見を要請した。
事態はここから大きく変化していく。