吸血鬼の王族_1
「どういうつもりかしら?」
フェリトナは目の前の男に対し、殺気混じりの質問をぶつける。
「ですから、署名の件で少々お聞きしたいことが……」
「そんなこと聞いていないわ……あの子が逃げたそうよ?」
「……」
「あなたがわたしを呼び出したタイミングとバッチリね」
「……ふふ、たまたまですよ」
相変わらずの笑みを浮かべたホルンに対し、フェリトナの怒りがふつふつと上がっていく。
少年が逃走したことを聞いたのはほんの数分前だ。既に、少年の確保はジェスに命令済みで、連れ戻されるのも時間の問題だろう。
しかし、フェリトナは少年が逃げたという事実にひどく動揺していた。怒りというよりも悲しみの方がずっと強い。顔には出さないが、今すぐにでも自分の足で少年のもとに行きたい衝動に駆られる。
だが、目の前の男がそれを許さかった。
「そこをどいてくれる?」
幼さを感じさせる無邪気な声とは裏腹に、フェリトナの表情に温度はない。
しかし、ホルンはそんなこと気にもかけずゆうゆうと質問を返してくる。
「彼にはどこまで話したのですか?」
フェリトナは何となく理解する。
署名の件を建前に呼び出したのだろうが、邪魔をするつもりがあるのを隠す気がないらしい。
「……関係ないでしょ」
「ふふ、話した上で逃げられたのなら滑稽ですねぇ。吸血鬼の王族ともあろうお方が……」
「……殺す」
言うと同時に、ホルンの首目掛けて手刀を突き出した。距離としては、十数メートルはあったが、フェリトナにとっては一秒とかからず移動できる距離だ。
にもかかわらず、フェリトナの右手は空を切る。頭と胴体を切り離すつもりで行った攻撃。目で追えるはずがない。
それをかわされた。
初めてホルンと会ったときから、フェリトナの勘は警告を鳴らしていたが、この事実で確信に変わる。
(……ジェスに任せなくてよかったわ)
ホルンをジェスに任せて、自分が少年のもとに向かうという選択肢もあったが、何となく嫌な予感がしたのだ。
「危ないじゃないですか、冷や汗をかきましたよ」
やや後方から、掛けられる声にフェリトナは苛つきを隠さず言葉を投げる。
「あなた一体何者?」
「はい?知っての通り、しがない奴隷商人ですが?」
「ふざけないで。そこらの商人風情が今のをかわせるはずないでしょ」
「やれやれ、固定観念とは、可能性を狭めるものですよ。世の中広いのですから。吸血鬼の王族よりも強い奴隷商人がいたって可笑しくありませんよ」
「面白い冗談ね……」
案に自分の方が強者だと宣うホルンに対し、フェリトナは冷静さを取り戻そうとする。
相手の安い挑発に乗る必要もない。
「もう一度聞くけど、どういうつもり?」
フェリトナは仕切り直すかのように、同じ質問を投げ掛けた。
そもそも、この男の正体もそうだか、目的も分からない。自分をここに留まらせたい理由が。少年を逃がすためなら、この街につく前にいつでも逃がせたはず。それになにより、あの少年の情報をフェリトナに渡したのは、この男だ。
他に考えられる理由……
(……姉さん達の誰かとつながっている?いや、あり得ない)
ならば、自分を殺すためか。
なら、なぜ攻撃をしてこない。先ほどから敢えて隙を見せてはいるものの、一向に仕掛けてくる様子もない。それどころか、殺気すら感じられない。
「おや、どうやら頭が冷えたようですね。……ふむ、どういうつもりか……ですか……」
わざとらしく溜めをつくるホルン。時間稼ぎのつもりのようだが、既にフェリトナはとことん目の前の男の相手をする覚悟を決めているため、どうということはない。
「……やはり、署名の件でしょうか。先ほどジェス様からサインをいただきましたが、もう一ヶ所署名していただきたい場所があったものですから」
「……」
「まぁ、返品についてのことが書かれたそれほど重要な書類でもないので、わたくしの方で融通を効かしておきましょう」
「……」
「では、わたくしはこれで失礼いたします」
そう言うなり、ホルンは深いお辞儀をしてその場を立ち去ろうと歩きだす。
フェリトナはこのくだらない茶番に内心うんざりしながらも、これで立ち去ってくれるならと特に引きとめようとはしない。この男相手に殺し合いで負ける気はしないが、簡単に勝てるとも思えなかった。戦闘になれば、長期戦になることを覚悟しなければならない。
「あ、そうでした。一つ固定観念のことで言い忘れていたことが……」
「……なに?」
「世の中は広いですから、数多の吸血鬼相手に逃げ切ってしまう少年も……いるかもしれませんね」
そう言い残し、今度こそホルンはその場を後にする。