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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

悲運の堀越公方足利茶々丸 その人生

作者: 水源

 時は戦国の始まりたる、明応2年(1493年)秋。


 ここは伊豆国の堀越御所(ほりこしごしょ)


 堀越公方の住まいであるここは、長禄元年(1457年)、室町幕府8代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)が、幕府中央との対立を深め武力で抗う古河公方(こがくぼう)足利成氏(あしかがしげうじ)への対抗策として、天龍寺で僧籍にいた異母兄の清久(せいきゅう)を還俗させ、足利政知(あしかがまさとも)と名乗らせ、翌年の長禄2年(1458年)に京都から関東へ正式な鎌倉公方として送った事により始まった。


 しかし、古河公方足利成氏の勢力が強大であることを名目に、足利政知に同行した渋川義鏡(しぶかわよしかね)が関東探題を名乗ったため、関東での軍権を失うことを危惧した関東管領(かんとうかんりょう)である山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)が彼を支援しなかったり、家臣の中に関東管領の継承上での山内上杉氏のライバルである、犬懸上杉氏(いぬがかりうえすぎし)の出身の、上杉教朝(うえすぎのりとも)がいたり、渋川義鏡が補給のために伊豆・相模の在地領主の所領を勝手におさえたため、相模を支配していた扇谷上杉家おうぎがやつうえすぎけとも対立しため、彼は箱根を越えて鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆に留まる事になった。


「なぜこのようなことになったのだ……」


 足利義政は、足利政知の関東への派遣を行いつつ、奥羽・甲斐・信濃など関東周辺の大名・国人衆に出陣を命じ、足利政知を中心とした大規模な足利成氏討伐計画を進めていたが、関東出兵を命じられていた越前・尾張・遠江守護の斯波義敏(しばよしとし)が、足利義政の命令に従わず、内紛鎮圧のため越前に向かってしまい、翌年の長禄3年(1459年)に足利義政の怒りを買い、斯波義廉(しばよしかど)に斯波家当主の座を奪われて更迭されたため、斯波軍の出陣は中止となり、渋川義鏡の子である、斯波義廉が更迭されたことで、渋川義鏡も失脚してしまった。


 更には、10月の太田庄の戦いで、関東の幕府軍が古河公方足利成氏軍に敗北したため、足利成氏討伐計画が失敗し、それによって足利政知は関東の諸大名の信用を失い、自前の軍事力がない中途半端な状態のまま伊豆に留め置かれることになった。


 更に更に、翌年の寛正元年(1460年)1月1日には、鎌倉に派遣されていた、駿河守護今川範忠が駿河に帰国してしまい、4月には足利政知の陣所である堀越の国清寺が成氏方に焼き討ちされる事態にまでなり、足利政知は堀越御所に場所を移したが、古河公方の足利成氏討伐どころか、自らの命さえ危うい状況であり、足利政知は使者を京都へ向かわせ幕府と対応を協議し、8月に斯波氏の家臣である朝倉孝景・甲斐敏光が関東に派遣されることとなるが、足利義政はそれを中止。


 そして応仁元年(1467年)に、応仁の乱が起きたことで、足利政知は堀越であいかわらず中途半端な立場のまま放置されることになった。


 そして時が流れた今現在、弓矢や薙刀、長巻などで武装した屈強な男たちにより包囲されていた。


 そして包囲した者の中から、一人の男が進み出て御所の中へと声を上げた。


「我が名は伊勢新九郎(いせしんくろう)

 大樹様の命により堀越公方足利茶々丸様あしかがちゃちゃまるさま御首頂戴(みしるしちょうだい)せん!」


 彼は伊勢新九郎盛時いせしんくろうもりとき、のちに出家して伊勢宗瑞(いせそうずい)と名乗り、後北条氏の始祖である北条早雲(ほうじょうそううん)となる男だ。


 それを聞いて、力ずくで堀越公方の座を奪い取ったと思われている男は悲しげにつぶやいた。


「私はただ生きていたいだけだというのに、なぜこのようなことに……」


 彼の名は足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)


 こうなった経緯は、色々と複雑な事情があった。


 これに先立つ延徳3年(1491年)4月、先代堀越公方である足利左馬頭政知あしかがさまのかみまさともが齢57で病死した。


 この時、彼の次男である清晃(せいこう)は文明12年(1481年)に生まれていたが、この当時はまだ長男である茶々丸が堀越公方の後継者とされていたために、叔父にあたり将軍であった足利義政(あしかがよしまさ)の意向で、天龍寺香厳院てんりゅうじこうげんいんの後継者に定められ、文明19年(1487年)に彼は上洛して香厳院を継承、出家して法名を清晃と名乗ることになっていた。


 足利一族は嫡男以外は家督争いを避けるため出家する事が慣例とされていたのもあったが、天龍寺は臨済宗(りんざいしゅう)天龍寺派大本山の寺院で、開基は足利尊氏でもあり、足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位でもあるから、この寺の院を継承することは大きな権力を手に入れるということでもあった。


 そもそもが、足利幕府の将軍家とはいえ、足利家には分家に分け与える直轄領もなかったという身も蓋もない事情というのもあるが。


 それ故に出家し、寺領を抑えてしまったほうが経済的なメリットもあったのだ。


 しかし、長男の茶々丸は文明18年(1486年)頃に、素行不良により廃嫡され、土牢に軟禁されており、三男の潤童子(じゅんどうじ)がその後を引き継ぐはずであった。


 だが本当は潤童子の実母で茶々丸にとっては継母の、円満院(えんまんいん)が茶々丸は素行不良だと有りもしないことを足利政知に讒言したためであって、素行不良は事実でない。


「公方様! 

 茶茶丸様の廃嫡はなにとぞ思いとどまってくだされ!」


 足利政知が嫡男である茶々丸を廃嫡しようとした際には、家宰である犬懸上杉家(いぬがかりうえすぎけ)上杉政憲(うえすぎまさのり)がこれを強く諌めた事に激怒し、遂に上杉政憲は自害を命じられ、切腹して果てた。


「元はと言えばこの様になった原因はお前のせいではないか!

 もう我慢ならぬ! 潔く腹をきれい!」


 これには、享徳3年(1454年)から延々と続いていた、関東管領上杉氏と古河公方足利成氏の間で和解の機運が盛り上がると、上杉政憲はこれを受けて足利政知に戦闘継続の困難を唱えて和議の受け入れを迫り、幕府との取り纏めの交渉にもあたり、文明10年(1478年)の正月に和睦が成立したが、これによって堀越公方の支配権が伊豆一国に限定される事になったことにより、足利政知は上杉政憲を深く恨んだし、、鎌倉公方として鎌倉に入り関東を支配する予定であった足利政知の妻となった円満院にとっても困った事態であった。


 茶々丸の実母は羽林家(うりんけ)の公家であり、この時代には最大の権勢を誇った藤原北家日野流ふじわらほっけひのりゅう武者小路家(むしゃのこうじけ)武者小路隆光むしゃのこうじたかみつの娘である円満院よりもずっと身分が低い伊豆の国人である狩野氏(かのうし)の娘だったが、狩野氏は伊東氏や宇佐美氏とともに古くは鎌倉時代から伊豆を収めてきた豪族であって、彼らの伊豆での発言力には多大なものがあった。


 この時代では嫁いだ母親の身分が低かったことで、あとに嫁いだ身分の高い母親から生まれた弟が家督を次ぐことになるということは珍しいことではないが、それならば同母兄の清晃が嫡男とならずに出家させられたことはおかしい。


 そこで関わってきたのが細川政元である。


 応仁の乱の東軍の総大将であった 細川勝元の跡を継いだ、細川政元は、幕府の管領を代々務める現在の細川家の当主である。


 そして細川政元は、九条政基の末子聡明丸を猶子に迎えと細川澄之と名乗らせたが、澄之は清晃の母方の従兄弟に当たるため、足利政知との連携を深める狙いがあった。


 すなわち清晃を還俗させて将軍とし、潤童子を堀越公方として、畿内と関東を抑えようとしたのである。


 さまざまな理由により、まともな軍権を持てずに伊豆に押し込められる形になった足利政知にとっても、10代将軍足利義材を廃立し、清晃を次の将軍にし、潤童子を堀越公方として足利成氏討伐を再開させる狙いがあった。


 そうなると、二人の異母兄である茶々丸が邪魔となるのは必然だった。


 そこで政元は円満院様に接触し、円満院は当然自身の子を公方の後継者にしたいと考えていたことで、茶々丸様は廃嫡され元服が可能な年令になっても元服をさせてもらえずにいた。


 しかも足利政知の死後に足利茶々丸は継母の円満院に虐待されたという。


 これは足利茶々丸が堀越公方の後継者となれば、自分達の立場がなくなり自身の危険があることを円満院がよくわかっていたからであろう。


 結果としては足利茶々丸は7月に牢番を殺して脱獄し、堀越公方に決まっていた潤童子と円満院をも殺して、自分が二代目堀越公方になることを宣言した。


 これには未成年である潤童子の後見人として、堀越公方の実権を握ろうとし、上杉政憲を自害させることにもなった原因の円満院の行いをよく思わない重臣達や母方の親族である狩野氏による支援もあった。


 このとき潤童子はまだ10歳にもなっておらず、逆に茶々丸は元服が可能な年令になっていたのだから、実質的な権力を円満院に握られて好き放題されてはたまらないと彼らは判断したのだ。


 しかし、足利茶々丸は狩野氏の讒言を信じて、筆頭家老で韮山城主の外山豊前守を粛清した。


 韮山城から狩野川沿いの堀越御所までの距離は1km程とごく近い距離にあり、関東管領山内上杉憲実の命により伊豆へ下向した白井長尾一族の外山豊前守は、足利政知に特に信頼されていた武将だった。


 であればこそ、狩野氏にとっては目障りな存在でもあったのだろう。


 また足利政知や円満院の意向を理解していた外山豊前守にとっても、茶々丸に素直に従うことは難しかった。


 そのように足利茶々丸が強引に家督を継いだのは、自分が生き残るためであった。


 殺さなければ殺されたのは彼のほうであったから。


 この時には延徳元年(1489年)に将軍足利義尚が六角討伐の最中に近江国で病死し、細川政元(ほそかわまさもと)は次期将軍として義尚の従兄で堀越公方足利政知の子で禅僧となっていた、天竜寺香厳院の清晃を推挙するが、足利義尚の生母である日野富子(ひのとみこ)畠山政長(はたけやままさなが)の後押しの結果、足利義政の弟の足利義視(あしかがよしみ)の息子である義材(よしき)が新将軍に就任した。


 この結果に不満であった細川政元が日野富子に対して距離を置き始めたことなどもあって、中央の影響力は伊豆に届かず茶々丸の行為は黙認された……というよりも伊豆のごたごたよりも中央の政争が優先されたとみるべきであろう。


 しかし、明応2年(1493年)の明応の政変によって10代将軍の足利義材が追放され、清晃が11代将軍義澄として擁立されると、伊豆にもその影響が及んでくる。


 潤童子の母は義澄の母でもあり、茶々丸は将軍の生母殺害を問われることとなったのだ。


 これとは別に伊勢盛時が動いた理由には長享元年(1487年)から始まった、山内上杉家の上杉顕定と、扇谷上杉家の上杉定正の間で行われた長享の乱において、上杉定正の領国である相模を西から脅かす山内上杉の守護領国である、伊豆国の山内上杉陣営勢力とこれに支えられた堀越公方の存在をつぶしたかった扇谷上杉方の要請もあった。


 さらに、伊勢新九郎盛時は今川氏親の家臣ではあったのだが、伊豆の国境に近い場所での立場を固めるために、足利政知にも仕え、伊豆に所領を与えられていた。


 すなわち伊勢新九郎盛時は単に将軍の命令だけに従っただけでは無く、上杉定正により伊豆の混乱を招くことも期待されていたし、足利茶々丸が堀越公方の地位を簒奪したことで、伊豆の所領を失ったため、その奪還の必要性もあった。


 こうして伊勢新九郎盛時の伊豆堀越御所への討ち入りが行われたのだ。


「公方様、ここは我らに任せお逃げになってくだされ」


「う、うむ、頼むぞ」


 狩野氏と同族の宇佐美貞興が堀越御所での戦いで奮戦したが討ち死にし、堀越御所は焼き討ちを受けて全焼。


 足利茶々丸は御所を落去し、伊豆の中部へ逃げ延びていった。


 その後、足利茶々丸は、堀越御所奪還を目指して、狩野城の狩野道一(かのうどういつ)や伊豆深根城の関戸吉信(せきどよしのぶ)などとともに、伊勢新九郎盛時と争うが、明応7年(1498年)6月11日の明応大地震による下田の津波の被害が収まらぬうちの8月、伊豆深根城を襲撃した伊勢新九郎盛時との戦いに敗れ、関戸吉信とともに足利茶々丸は自害した。


「私が……私がなぜこのような目に合わねばならぬのだ……。

 もし生まれ変わることがあるのならば今度は……」


 足利茶々丸の墓は早雲の堀越御所襲撃により死亡したとされたことにより、隣接する願成就院と下田との二箇所にあるが、まさかパソコン用エロゲーでのヒロインにされ、そちらのイラストばかり書かれるようになるとは心にも思わなかったであろう。


 これが前より幸せな来世と見るか、不幸な来世と見るか……それは誰にもわからない。

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