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1)徳行品第一

 徳行本第一の主な内容は、菩薩やブッダの定義と言うかイメージの確認でしょうか。

 仏教徒は「将来に悟りを開いてブッダになる」ことが目標……なにごとでも成功したときのイメージの明確化は重要ですね;

 

無量義經徳行品第一


 如是我聞一時佛在王舍城耆闍崛山中……



 無量(はかり切れないほどたくさん)に内容のある教え第一、徳行とくぎょうについての章。


 こんなよーに私ってば聞いたんだぜ。(……なぜ「ゆっくり魔■沙」風?)


 あるときはブッダは王舎城おうしゃじょう(ラージャガハ、マガダ国の首都)の郊外、耆闍崛山ぎじゃくつせん(ギッジャークータ、霊鷲山りょうじゅせん、現在のチャタ山?)という山中にいたんだぜ。


チャタ山

挿絵(By みてみん)

(出典:Wikimedia Commons)


 一緒にいたのは、高位の比丘びく(ビクシュ、出家修行者)たち2千人、菩薩ぼさつ摩訶薩まかさつ(ボーディサトバ=マハーサトバ、大乗仏教の修行者)たち8万人。

 てん(デーヴァ)/りゅう(ナーガ)/夜叉やしゃ(ヤクシャ)/乾闥婆けんだっぱ(ガンダルヴァ)/阿修羅あしゅら(アスラ)/迦樓羅かるら(ガルーダ)/緊那羅きんなら摩喉羅伽まごらが(マホーラガ)/比丘びく(ビクシュ、男の出家)/比丘尼びくに(ビクシュニ、女性の出家)/優婆塞うばそく(ウパサカ、男の在家信者)/優婆夷うばい(ウパーイ、女の在家信者)。

 大転輪王/小転輪王/金輪王/銀輪王などのいろいろな転輪王(=世界統一の王)たち(?)。

 国王/王子/国臣/国民/国士/国女/国大長者。

 そしてそれぞれの眷属が百人、千人、数万人が取り囲んでいたんだぜ。


 おのおの、ブッダの前に進み、自分の頭をブッダの足に触れさせて礼拝し、周囲を百回、千回と廻って(敬意を示す当時の作法……つっても普通は1回、多くても3回とか7回とかですが;)、香を焚き花を散らすなど様々な供養をしたんだぜ。



 すでにこの時点でもスケールがとんでもないことになってます。しかし、さらに……(汗)



 さて一同がブッダの供養を終えてそれぞれの席に付いて座ります。

 そこにいた主な菩薩の名は……ぜんぶ書くととさすがに飽きるので、現代日本でも聞いたことあるような人だけ挙げますと。


 智慧者で有名な文殊師利もんじゅしりー法王子(マンジュシリークマーラプータ)。

 お釈迦さんの次にブッダとなる予定の弥勒みろく菩薩(マイトレーヤ)。

 法華経の重要な登場人物の一人である薬王やくおう菩薩(バイシャジャラージャ)。

 さまざまに姿を変えて人々を救うという観世音かんぜおん菩薩|(アヴァロキティスワラ、観自在菩薩)。

 その相方コンビで人々に知性をもたらす大勢至だいせいし菩薩|(マハー=スターマブラーヤ)。



 観音さんと勢至さんは阿弥陀三尊の左右にいて双子のように似てますが、額で見分けがつくそうですね。額に仏像があれば観音さん、ヒョウタン型があれば勢至さん、らしい。

 ……これ実は、昔あるお寺で和尚さんに見分け方を尋ねてみたら、先代様に確認してもらってさえも曖昧な答えしかもらえなかったことでして。後日に自分で調べてようやく判明したのがこの判別方法ですから、もしかすると重要な秘伝なのかもしれません。(…えっ?;)



 それから、いい匂いのするゾウさん、大香象だいこうぞう菩薩(ガンダハスティン、乾陀訶提けんだーかーだい菩薩)もいたんだぜ。



 お釈迦さんが説法をしようとするとどこからともなく好い香りを振り撒くインドゾウがやって来て、人々と一緒に座って聴いていた、という伝説があるそうで。畜生ドーブツさんなので人間じゃないけども、菩薩の仲間に入っています。

 人間もふだんの飲食物によって汗のにおいが変わりますけど、このゾウさんは香りのいい葉っぱを毎日食べてたんでしょうか?


 法事や御回向などでお寺のお堂に入った時、ゾウの形の香炉があったりふすまにゾウの絵が描かれてたり欄間にゾウの浮き彫りがあったりしたら、それはたぶん大香象菩薩さんです。

 さわやかな香りを振り撒くゾウさんが皆様と一緒にお経、つまり「お釈迦さんの説法を弟子たちが回想した記録」を聞きに来てるというイメージを、同席の方々と共有してほっこりするのも悪くないのではないかと思います。

 ただ、第一結集(=お経の初の編纂会議)に参加した「五百羅漢」の中に「香象尊者」という高僧がおられたようでして……あるいはこの名前から伝言ゲーム的に誤解や脚色が重ねられた結果、いつしか大香象菩薩の伝説ができちゃったのでは……という可能性も、ついつい想像してしまう筆者であります;



 ……閑話休題、以下略とさせていただくが、こういった偉大マハーな菩薩たちが8万人だったぜ。


 この菩薩たちはみんな、法身(宇宙と一体)の大士であって、そうでない者はなく、


 1)かい(修行のルール)

 2)じょう(瞑想)

 3)(智慧)

 4)解脱げだつ(悟りを開いてすべての苦しみを消すこと)

 5)解脱知見げだつちけん (解脱したかどうか判断できる知性の獲得)


 といったことをやり遂げて、その心は禅定中のように寂然としていて、ふだん生活してても三昧(=瞑想に集中していること)の状態で、感情の動きが無く無為無欲の境地に安住してて、心を乱したり変な考えを起こしたりすることが無くて落ち着きはらい清澄せいちょう、心の中は虚空のように広く、百千億劫(1劫=約48兆2千万年以上)も過ぎてもその気持ちが揺れることがなく、数えることも不可能なほどたくさんの法門(=教え)にすでに詳しく、大いなる智慧を得る修行をすべて終えて、「真実(=宇宙の真理)」の姿を、有無も長短もあきらかに理解し終わっていたんだぜ。

 またいろいろな欲の性質やその原因を知っていて、陀羅尼(=長い呪文)と、何の障害も関係なく実行する能力を以て、さまざまなブッダ(普通名詞)の説いたところを人々に教えていたんだぜ。


 一滴の水が土に落ちればそこだけは埃が舞わないように少しずつでも、欲に堕ちないような教えをひろめ、涅槃への入り口を開いて解脱という風を人々に扇ぎ、苦しみという熱悩を除いて清涼な教えを与える。そして十二因縁という深く冷たい水を、無明(=智慧のない状態)/老/病/死 などという猛烈に熱い日光に苦しめられてる人々に注いで苦しみを和らげる。

 そうしてこれ以上は無い大乗という教えをぶっかけて、衆生(=すべての命と心のあるもの)の持つ善の根に水を潤して、善の種を撒いてすべて功徳の田んぼにし、すべての生命に悟りを求める芽を出させるんだぜ。



 救いを水に、苦悩を熱に……善の性質を「稲」に喩えた定型の説明ですね。古典にはこういう、当時の人たちならイメージしやすかったろうけど現代人には説明が必要になってしまう喩えが散見されます。

 あと十二因縁については、苦しみが生まれる理屈と苦しみを消すための理論で、これについての思索をしながら座禅をしてて完全に理解出来たら、そのときには悟りを開ける、という修行法らしいのですが、「てきとー訳 縁起経」で詳細が語られてましたのでご関心ある方はそちらをご参照ください。

 さて、続きを。



 智慧は日月のように明るく、方便は絶妙のタイミングと内容、大乗の行いが成長することをたすけて、人々にあっという間にスパッと阿耨多羅あーのくたーら三藐三菩提さんみゃくさんぼだい(アーヌッタラ=サムャク=サムボーディ、究極の最終的な悟り)を達成できるようにして、常に快く細かく真実の中にいるようにさせ、無限の大悲(=他者の不幸をみると自分のことのように悲しくなってしまう魂からの同情心)を以て苦しむ衆生を救う。

 つまりは衆生たちにとって最高の情報源であり、衆生たちにとって(善の種が育つ)大良田であり、衆生たちにとって要求しなくても教えてくれる教師であり、衆生たちにとって安穏できるパラダイス、救いの地、護られてる場所、最後に行きつく場所であるのだぜ。

 行く先々で衆生にとって、導師のなかの大導師となり、もう(=見えない)の人には目をし、ろう(=聞こえない)/(=嗅げない)/(=喋れない)の者には耳/鼻/舌を作し、諸根(=体の一部)を失ってる者にはそれらを身に付けさせ、荒れ狂ったり狂乱したりしてる者は大いに正気に戻させる。

 人々を運んで生死の河を渡って涅槃の岸へとつれていく航海士のなかの大航海士なんだぜ。

 病気を的確に診断して薬の使い方もよく知っていて、病状に最適の薬を与えていく、医王のなかの大医王なんだぜ。

 いろいろと放逸なことをせずさせず、ゾウやウマをしつけるように調えるに調わないことない、調教師のなかの大調教師だんだぜ。

 獅子の勇猛な威厳に、動物たちが従ってけっして逆らわないようなものなんだぜ。


 菩薩たちはそれぞれの波羅蜜はらみつに遊戯して……



 波羅蜜はらみつ(パーラミタ)とは大乗仏教の修行法で、ぶっちゃけると「完成させるために努力し続けること」。

 一般には 


 1)布施ふせ波羅蜜  (与える)

 2)持戒じかい波羅蜜  (ルール守る)

 3)忍辱にんにく波羅蜜  (ガマンする)

 4)精進しょうじん波羅蜜  (努力を続ける)

 5)禅定ぜんじょう波羅蜜  (落ち着いて思索する)

 6)智慧ちえ波羅蜜  (正しい判断をする)


 という六つを完遂するべく生涯努力し続ける「六波羅蜜」という修行法(というより心がけ?)が有名ですが、「十波羅蜜」とかもあります。

 波羅蜜の修行を続けながら何度も生まれ変わって、最後には悟りを開いて成仏する……となってるようで。


 智慧波羅蜜は「般若はんにゃ波羅蜜多はーらーみった(プラジュニャ=パーラミタ)」とも言われ、これが完成すると他の項目も自動的に完成しちゃうという理屈から、有名な般若心経などでは「般若波羅蜜多こそがもっとも重要な修行」と語られています。

 ただし、どんな分野でも、宗教であれ学問であれ技術であれスポーツであれ、初心者がいきなり高度なことから始めるとたいていズッコケて大怪我し挫折しますから、波羅蜜の修行をしてみたいなら、とっつきやすい布施波羅蜜か持戒波羅蜜あたりから始め、慣れてきてからだんだん項目をふやしていくというような、合気道創始者の植芝盛平先生が提唱した「(負担の軽いことから始めて)逐次、強度を増す。然るときは如何なる老人といえども愉快に稽古を続け鍛錬の目的を達する」というやり方がより確実と思われ……あ、これは個人的意見です。



 で、えーと……この菩薩たちは遊ぶように楽しく波羅蜜りまくりやがっておられて、如来のいる土地で固く不動な安住の願力で広く仏国を浄め、遠くない未来に阿耨多羅あーのくたーら三藐さんみゃく三菩提さんぼーだい(アーヌッターラサムャクサムボーディ、究極の最高の悟り)を成す。これらの菩薩摩訶薩たちにはこのように不可思議な(とにかくスッゲエ)功徳があったんだぜ。

 

 そして、菩薩たちの他には比丘たちも。

 大智の舎利弗しゃりほつ(サーリプッタ)。

 神通の目健連もっけんれん(モッガラーナ)。

 慧命けいめい須菩提しゅぼだい(スブーティ)。

 摩訶まか迦旃延かっせんねん(マハー=カッチャーナ)。

 彌多羅尼子みたらにし富楼那ふるな(プルナ=ミタラヤーニプッタ)。

 阿若あにゃ憍陳如きょうれんにょ(アーニャ=コンダンニャ)。

 天眼てんげん阿那律あなりつ(アヌルッダ)。

 持律じりつ憂波離うはり(ウパーリ)。

 侍者じしゃ阿難あなん(アナンダ)。

 仏子ぶっし羅云らうん(ラーフラ)。

 憂波難陀うぱなんだ

 離婆多りばた(レーヴァタ)。

 劫賓那こうひんな(カッピナ)。

 薄拘羅はくら(ヴァックラ)。

 阿周陀あしゅだ

 莎伽陀さかだ(サーガタ)。

 頭陀ずだ大迦葉だいかしょう(マハー=カッサパ)。

 憂樓うる頻螺びんら迦葉かしょう(ウルビーラ=カッサパ)。

 伽耶がや迦葉かしょう(ガヤー=カッサパ)。

 那提なだい迦葉かしょう(ナディー=カッサパ)。


 といったような比丘が一万二千人。全員が阿羅漢あらかん(アルハッ、小乗仏教での最高の悟りを開いたお坊さん)で、結漏を尽きさせて(=欲望の流出を終わらせて)、縛着(=この世に縛り付けられる執着)がなく、真正しんしょうに解脱していたんだぜ。


 さてその時。大荘厳たいしょうごん菩薩・摩訶薩が、他のみんなそれぞれ定位置に座って8万人の菩薩・摩訶薩もちゃんと並んでるのを見回して、それから立ち上がりブッダのところへやってきたんだぜ。

 自分の頭をブッダの足に触れさせ、周りを10万回(!!?)ほど廻り、天華(=天界の花)を振り撒き天の香を燻べると、天の衣・天の瓔珞ようらく(=宝石のアクセサリ)・値段もつけられないような天の宝が、空中にあらわれてくるくると回りながら降ってきて、ブッダの周りに雲のように集まったんだぜ。


 天の厨(=弁当箱?)や天の鉢(=木製のどんぶり)には天の百種類もの食べ物が満ち溢れ、その姿を見るだけでも香りをかぐだけでも自然にお腹いっぱいになってしまうほどだったんだぜ。

 天の吹き流し、天の幡、天の日除け傘、天の素晴らしい楽器をところどころに安置して、天の音楽を奏でてブッダに楽しんでもらった上で、前に進んで膝をついて合掌したんだぜ。

 そしてみんな心を合わせ声を合わせ、ブッダを賛える偈を唱えた(=歌を歌った?)んだぜ。



 長い前置きだった……でもやっと話が始まるようです。さてその賛える歌とは。



一同「♪

 なんと偉大なんだ大悟した大聖主はyo

 汚れなく何にも染まらず何にもこだわらないze

 天・人・ゾウ・ウマの調御師でyo

 道風、徳香、一切を薫らせてyo

 智はエネルギッシュだが情はサイレントで心は動かず静かでyo

 意(=思考)を滅し識(=認識)を亡くし心が静寂でsa

 夢のような妄想を永く断ち隠された大いなる世界へ入って帰ることなくsa

 その体は有るのでなく無いのでもなく原因もなく結果もなく自他の違いもないyo

 四角くなく丸くなく長短もなく現れず消えず生まれも死にもしなくてsa

 造られず起こらず為さず作らず座らず寝ず移動も止まりもしなくてsa

 動かず変わらず閑静でもなく進まず退がらず安全でも危険でもなくてsa

 その通りでなく違ってもなく得も失いもせずあれじゃなくこれでもなく去りも来たりもしなくてsa

 蒼くなく黄色くなく赤でも白でもなく紅でもなく紫とかそういった色がなくsa

 戒・定・慧を解り、知見から生まれ、三明・六神通・三十六道品から発してsa

 慈悲・十力・無畏から起きて、衆生の善い業の因縁をから出てsa

 身長は丈六じょうろく(=一丈六尺、約5m?)、肌は紫金色の輝き、姿は整いすみずみまで明るく照らしつくしてわかりやすくsa

 毫(=額の中心)は月が巡り日が動くように光を放ち、髪は螺旋状で紺青、てっぺんは肉髻にくげい(=頭頂が膨らんでいる)、眉・目は紺色で正しい形、口頬も線対称できっちりしていてsa

 唇と舌は丹花(=ある種の紅い花)のように赤く、四十ある白い歯は積もった雪のようでsa

 額は広く鼻は長く顔は門が開き(?)、胸に「まんじ」(=回転するエネルギーの象徴)をあらわして獅子のように堂々としている

 手足は柔軟で千輻(=車輪の矢)を具え、腋と掌はゆるやかで内外に握ってsa

 腕も整い肘は長く指は細く、皮膚は細かく柔らかく毛は右に旋ってsa

 くるぶしと膝は現れず男のピーも陰れ、筋は細く鎖骨はひろく腸はゆるやかでsa

 表も裏も徹底して清潔で垢なんか皆無、浄水に触れても水は汚れずホコリそとつ堕ちなくてsa

 これぞまさに三十二相と八十種好を見るようなものだze

 しかも本当は形もなく色もなく、形はすべて眼に写った像に過ぎないんだyo

 形無き形にして形ありとは、衆生の体も実はまたそうなんだけどne

 よく衆生を歓喜させ礼をさせ心を投げ出させ敬いと誠を表して丁寧にさせるyo

 これは自己過信や高慢を除くことでこのような美しい体となるんだze 

 私ら8万の衆はみんな共に稽首して(=頭を地に着けて)ことごとくsa

 よく思・想・心・意・識なんか滅してゾウ・ウマの調教師たる無着の聖人に帰命しmas

 法(=教え)と実在する体、戒・定・慧・解・知見の人々に稽首して帰依しmas

 妙なる鐘の音に稽首して帰依しmas、理解の難しい考えに稽首して帰依しmas

 梵音ぼんのん雷震らいしんのような声の響きに八種類あって微妙みみょう(細かいとこまで素晴らしい)・甚深じんじん(とても奥深い)でメッチャ深遠しんえんでsa

 四諦したい六度りくど(=六波羅蜜?)・十二縁じゅうにえん(=十二縁起?)を衆生の心業に順じて転じて(=説明して)くださってsa

 これを聞ければ、心の開かない者はなく数え切れない生死をめぐってる衆に

しがらみから解放されない者はないんだze

 これを聞けば、須陀洹しゅだおん(=初級聖者)/斯陀含しだごん(=中級聖者)/阿那含あなごん(=二軍の聖者)/阿羅漢あらかん(=小乗の最高聖者)といった声聞道の人たちもsa

 無漏むろ(=煩悩がない)で無為むい(=他者に何も影響を与えない)な縁覚えんがく(=独学で悟った人)の境地も、生まれも滅びもしない菩薩の境地もne

 それに数え切れない陀羅尼だらに(=長い呪文)と、何物にも邪魔されず説明を楽しめる大弁才も得てsa

 甚深じんじん微妙みみょうな偈を説きうたうこと、法のプールで泳いで遊ぶような感じだze

 或いは高く飛び上がり宙を舞い、どこにでもテレポートし、火の中・水の中にも現れるように自由だze

 如来の法輪(真理の教え)のすがたはこんな感じ、無限に清浄しょうじょう思議しぎ(=認識や想像)さえも難しいほどだze

 俺たちはみんな頭を地に着けて、法輪の転じられる(=真理が教えられる)時に帰依しちゃうze

梵音ぼんのん(=聖なる声)に頭を地に着けて帰依し、えん(=関係)/たい(=悟り)/(=救い)に頭をつけて帰依するze

 世尊が無量の劫のはるか昔からさまざな得業を努力し苦しみ行い習ってsa

 俺たち人/天/龍/神/王/一般人など一切の諸の衆生のためにsa

 一切の捨てがいたもの、財宝に妻子に国や城まで捨ててsa

 法(=教え)の内外に於いて惜しむことなく、頭/目/髄/脳、何でもみんな人に施したze  

 多くのブッダたちの清浄な戒を奉持して、命を失おうと他者を傷つけないでsa

 もし刀や棒を持った人が来て害を加え、悪口で罵り辱めてもついにいかることはなくてsa

 劫(1劫=約48兆2千万年)をて体が崩壊しても飽きたり怠けたりせず、昼も夜も心を鍛錬して常に禅定してるような状態にあってsa

 あまねく一切のもろもろな道法を学んで、智慧は深く衆生の根源まで入り込んでsa だからこそ今、自在力を得て真理に於いて自在となり真理の王となってsa

 僕たち私たちみんな頭を地に着けて、その行い難きを行ってきたスゲーとこに帰依しちゃうのだze」


 - つづく - 

 

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