2章:魔法の学校とチェスの哲学
大通りを抜け、小さな石橋を渡り、大きな門の屋敷をいくつか横切った先に、ユースティア学園は存在していた。
街からそれほど離れていないが、郊外と呼ぶほどではない。いい距離だと思う。うるさくないし、不便でもない。
学園と言うものだから俺はてっきり高校のようなものを想像したが、それは間違いだった。なにしろ警備員付きの校門を通ってから校舎に辿り着くまでは馬車でも五分はかかるのだ。道中にはテニスコートや乗馬場、さらにはテラス付きのカフェまであった。学園、と言うよりは近代都市のミニチュアみたいだ。
数ある建物の中でも、ひときわ大きな建物の前で馬車は止まった。
剣と天秤を手にする女神像が俺たちを出迎えてくれた。メニリィ曰く、ここが校舎なのだという。
「基本的にはここで授業を受けるのよ。あっちは研究棟。まあ、私たちはあまり使わないけどね。それからグラウンドの反対側には部室棟もあるわよ」
「ってことは、もしかして部活もあるんですか?」
俺はびっくりして尋ねた。
「当たり前じゃない。ここは学園なのよ」
馬車を降りるとき、ルナは足を滑らせて頭から盛大に転ぶ。
「うびゃっ」
ゴンっ、と耳を塞ぎたくなる音がする。
「大丈夫か?」
俺はルナの前に屈む。
「痛い」
そりゃ、頭から突っ込むような転びかたをしたら痛いだろう。なんとか腕を引っ張って立たせる。幸いにも怪我はないみたいだ。
それを見ていた赤毛はウンザリしたように首を振ると、一人で校舎とは反対方向に歩き出した。
「寮に戻るの?」
「昨日から寝てないからな。夕方まで寝かせてくれ。子守なんて冗談じゃない」
「じゃあ、夕食の時間には起こすわね」
メニリィの言葉に、肩あたりまで手を上げて赤毛は応える。
メニリィは申し訳なさそうに俺たちに言う。
「ツバキちゃんは悪い子じゃないの。あなたたちのことが嫌いとかそういうわけでもないのよ。ただ、そうね、ちょっと不器用なだけなの」
不器用、と心の中で繰り返した。
むしろ、彼女は器用なんじゃないだろうかと俺は内心思った。器用だから、自分の言いたいことをちゃんと言えるのだ。
校舎は俺が通っていた中学とはまったくの別物だった。床にはカーペットが敷かれ、入り口にはソファがいくつも並び、吹き抜けの構造のおかげで太陽の光で満ち満ちている。まるでホテルのラウンジだ。
「委員長お疲れさまあ」
見上げると、上の階の方から女子生徒二人が手を振っていた。
メニリィはにっこり笑って手を振り返した。
「委員長?」と俺は尋ねる。
「私、学級委員長やってるのよ。入学した当時から何年も連続でね。だから、みんな私のこと委員長って呼ぶの。ちゃんと名前で呼んでくれる子なんてほとんどいないのよ。ひどいと思わない?」と苦笑まじりに言う。
メニリィには申し訳ないけど、そのあだ名はピッタリだと思った。肩から垂らしてる黒い三つ編みは、なるほど学級委員に見える。
「どうした?」
俺は天井ジッと眺めているルナに声をかけた。
ルナは馬車に乗って以来、ずっとキョロキョロとしている。きっと珍しいのだろう。修学旅行で初めて都会に来た田舎の中学生みたいだ。俺は手を引っ張っる。
「迷子にならないでくれよ」
「ならない」とルナは不機嫌そうに言う。
もしここに入学したとして、こいつはやっていけるのだろうか。気が付いたら人並みに呑まれてどこにもいなかった、なんてことになりそうで怖い。
しかし、その日は生徒という生徒とはほとんどいなかった。授業をしている気配もない。ときどき、パイプやら椅子やらを運ぶ生徒とすれ違うだけだ。
「一般生徒は休暇中なの」とメニリィは言った。
「休暇?」
「そろそろ入学試験があるの。だから、会場設備とか名簿の整理のために生徒会とその手伝いの子は残ってるけど、他の子たちはお休みなの。もちろん、郊外の見回りとかは継続してるし、任務なんかが来たら誰かしらは駆り出されることになるけど」
春休みのようなものだろう。そうなるといよいよ学園らしい。
メニリィが生徒会室のドアをノックすると「あ〜い」と気の抜けた返事がする。
生徒会室には二人の女の子がいた。
一人は白髪の女の子で、ソファに座りながら上でチェス盤と睨めっこしている。もう一人の女の子はピンク色の髪をした背の低い女の子で、ハンマーみたいなハンコで書類に印を押している。
生徒会室はラウンジのような玄関と違ってかなり常識的だった。黒板があって、本棚があって、簡素なテーブルがある。それだけだ。
俺はついホッとした。あまりに常識離れしすぎたものばかり見せられると、それはそれで頭が痛くなってくる。
メニリィは白髪の女の子の向かいに立つと、しばらくチェス盤を眺めてから、白い駒を動かした。
「猫を牛の後ろに。猫をイルカに取らせて、馬を皇帝の前に進める。そうすれば5手で詰みませんか?」とメニリィは言う。
猫?
牛?
俺のよく知っているチェスと少し違うらしい。よく見てみれば、駒の形も違う。
「それだと猫が取られるわ。もっといい方法があると思うんだけど。出来たら一つも取られたくないの」
「そんなの無理ですよ。誰かが犠牲にならなきゃ、勝負には勝てないんですから。誰かを任務に送らなきゃ、自分の休暇を守れないのと同じです。どう思いますか?」
白髪の子はようやくチェス盤から顔を上げた。
「委員長お疲れさま。とても助かったわ。せっかくの休暇中に任務押し付けちゃってごめんね」
「気にしてませんよ。元から大した予定なんて入っていませんでしたから。ショッピングの予定が潰れただけです。……ところで他人に任務を押し付けて一人で優雅に打つチェス楽しいですか?」
そう言って、メニリィは手に持っていた書類を渡す。
「そんな嫌味言わないでよ。だってしょうがないじゃない。生徒会長の私が抜けるわけにもいかないしさぁ。他の生徒会の子にしても準備があるわけだし。それに委員長とツバキちゃんなら安心できるから」
どうやら白髪の女の子が生徒会長らしい。まだかすかに幼さが残る容姿は、あんまり生徒会長らしくは見えない。声質や喋り方もハキハキ、というよりはどこかまったりしてる。それとも、そう見えないだけで実は凄いカリスマの持ち主だったりするのだろうか。
「でも、今回ばかりはマリアちゃんの判断は正しかったですよ。下手に一年生とか送ったら大変なことになってたかもしれません」
「ヒトガタでも出た?」
「二体」
はぁ〜、と生徒会長はため息を付き、自分の前髪を搔き上げると、それから書類に目を通した。
読み終わった後に、書類を背の低い女の子に手渡し、彼女はもう一度ため息を付いた。さっきよりも階段一つぶん深いため息だった。
「ここのところヒトガタが増えてるのよね。つい先月も北の街が襲われたわ。危なっかしくて下級生を送れない」
話から察するに、ヒトガタというのはおそらくあの人間の影のことだろう。俺が勝てなかった相手だ。
「ねえねえ委員長」
トントンとハンコを押していた背の低い女の子は二人の会話に割り込むと、俺たちの方を見る。
「そっちの二人はなんなの?」
「どうせ委員長のことだから、また掻っ攫ってきたんでしょう」と生徒会長は言う。
また、という言葉に俺は引っかかる。きっと、あちこちに出かけては俺みたいなのをスカウトしているんだろう。
「正解」
メニリィは笑って俺たちの肩に手を乗っけた。
「こっちがミツルくんで、こっちの可愛い子がルナちゃん。こっちの男の子は凄いですよ。一人でコロニーを潰したんです。ちょっと世間知らずなところがあるみたいだけど、それを差し引いてもとても優秀だと思いませんか?」
「一人で?」と生徒会長は驚いた顔を俺に向ける。
「ま、まあ。一人というか、ルナと二人でですけど」
俺はつい口ごもる。
あれこれ詮索されたくはなかった。いくら、あまり常識が通用しない世界だとしても「俺たちは別世界から来た人間で、おまけに彼女は魔王の娘なんだ」なんて説明したらどうなるかは想像できる。
頭のおかしい人だと思われるのはごめんだった。
「へえ凄いじゃん」
へらぁ、と背の低い女の子は笑うと、急になにを思ったのか、手元に転がっていたナイフを掴んで俺に投げつける。耳を風が切った。
振り向くと後ろの壁にはナイフが刺さっていた。
あまりの速さに全く軌道が読めなかった。
「やめなさいよ。スー」
生徒会長は呆れたように言う。
「へぇ。まったく動じないんだ。凄いじゃん」
動じない、というかあまりの速さになにが起こったのかだけなんだけど。
俺は背の低い女の子を見つめる。もしかしたら、結構ヤバイ子なのかもしれない。
「自己紹介した方がいいのかな。私はマリア。この学校の生徒会長をしてるの。こっちのちっこいのは副会長のアリス。こんなんだけどうちの主力の一人よ」
「よろしく〜」
背の低い女の子は手を振る。
白髪の生徒会長がマリアで。
背の低い女の子がアリス。要注意人物、と頭の中で付け加える。
メニリィは言う。
「もしもアリスちゃんが信用できないなら力試しでもしてみます? なんなら入試ってことにして。今ならいくつも空いてるグラウンドありますよ」
俺は思わずメニリィを見る。俺はのほほんとした気持ちで付いてきたけれど、なにもせずに推薦してもらえるわけじゃないのだろう。
俺は影と戦ったときのことを思い出す。また、しっかりあのときとみたいな力を出せるだろうか。
「いや、いいよ。話を聞く限り相当な手練れみたいだし。それに委員長のお眼鏡かなったってことは、心配いらないんでしょう」
「もちろん」とメニリィは笑う。
なんとなくだけど、メニリィと生徒会長の間には、ちょっとした信頼関係のようなものが見て取れる。委員長と生徒会長という立場、一緒になる機会が多いのだろうか。
「でも男の子だからドールの適正があるかはわからないよ?」とアリスは言う。
「適正?」と俺は尋ねる。
「ドールになるには適正があるの」と生徒会長が答える。「魔力の循環機能によってはドールに支給されてる武器が使えないなんてあるのよ。まあ簡単に言ってしまえば才能みたいなものね。男の子より女の子の方が適正が高いのよ。って委員長から聞いてないのね」
なるほど、だから男子生徒とほとんどすれ違わなかったのか。この生徒会室のメンツだって俺以外は全員女の子だ。
ふと、俺は思う。
もし適正がなかったらどうなるんだろう。一応影と戦えるのだから、残してはくれそうなものだけど。まさか追い出されたりするのだろうか。
「明後日ちょうどうちの学園の入学試験があるの。二人にはそれを受けてもらう。そこで適正があるかどうかのちょっとした検査もやる。もしも適正がなかったらサポーターとして入学手続きを進める。ってことで異論ないかな委員長」
サポーター?と俺は首をひねる。
「マリアちゃんは話が早くて助かります」
俺たちが街に来たばかりで金も暮らす場所もないと言うことを伝えると、試験の日までは空いている寮の部屋を使っていいとのことだった。
「その他に関しては、委員長が面倒見てあげてよ。あんたが攫ってきたんだから」
「もちろん」とメニリィは言う。
俺にしてもそれで文句はなかった。たった数日接しただけだけど、彼女からは真面目な印象を受ける。この人に任せておけば悪い方向には転ばないだろう。
「マリアちゃんってとても有能なのよ。基本的に」
俺たちを寮に連れて行く途中、メニリィはそんなことを言った。
廊下の窓からは、グラウンドの一角でせっせとテントらしきものを設置しているのが見えた。試験会場の準備というのはあれのことだろう。
「基本的に?」
俺はメニリィの言葉に含みがあることに気づく。
「普段は真面目なんだけど、チェスが大好きでね。つい没頭しちゃう癖があるの。そこら辺を歩いてる生徒を取っ捕まえて、朝から次の日の朝までチェスをしたこともあったわ。そういうときは逃げた方がいいわよ。面倒だから」
「お腹すいた」
ルナはメニリィを見上げる。
「寮の場所を案内したら、学食に連れていってあげるわ。美味しいのようちの学食。気に入ってくれると思うわ」
特にないです