2章:魔法の学校とチェスの哲学
終わってみれば、目に見えるものはなにも残らなかった。男から受け取った小銭袋はなく、嘘を付いてまで手に入れた剣も使い物にならなくなった。
唯一残ったのは、影と戦うことができる力だけだった。それはずっと求めていた力だけれど、実際に手にしてみるとそれが自分に相応しいのか分からなくなる。俺は別に努力したわけでも、自ら望んで手に入れたわけでもないのだ。全ては成り行きで、だからこそ他に適任者がいるのではないのだろうかと、そんな意味のない思考にふけってしまう。
宿の裏でぼんやりと空を眺めていた俺に声をかけてきたのは、黒い髪の三つ編みの女の子だった。確かメニリィという名前だったか。
「あの子の具合は大丈夫?」
ルナのことだろう。
「医者に診てもらったらもうなんともないって言われました。あいつ、すごい丈夫なんです」
魔王の娘、とは言わない。
彼らの素性がわからない以上、余計なことは言うべきではないのだろう。
それは良かったわ、とメニリィは笑うと、俺の横に腰を下ろした。
この人は赤毛と違ってとても親切なようだった。話し方は丁寧で、表情は柔らかい。こんな姉がいたら幸せだろうな、と思うようなタイプだ。俺は少しだけど彼女に好感を抱いていた。
「ここ、とてもいい村よね」とメニリィは言う。
「そうですか?」
俺にとっては何もない貧相な村に見えるのだけど。
「空気が綺麗で、水が美味しくて、それから野菜は新鮮で。私、こういう場所がとても好きなの」
メニリィは生えている花を指でなぞる。
「私の故郷もこういう村なの。だから、そのときのことを思い出すんだ。ユースティアに入ってからは、一度も帰ってないんだけどね」
「ユースティア?」
「ユースティア学園。知らない?」
「ずっと田舎の山の中で暮らしていたんです」と即席で嘘をつく。まさか本当のことは言えない。
「だから、あんまり詳しくなくて。詳しくないっていうのはつまり、常識があんまりないんです。自分で言うのもなんだけど」
ふむふむ、とメニリィは頷く。
「ユースティア学園はドールを育成してるの。ドールっていうのは、シャドウと戦う人のこと。シャドウっていうのは……言わなくても分かるわよね?」
はい、と頷く。
「メニリィさんもドールなんですか?」
「そうよ。私とツバキちゃんはよくコンビで派遣されるの。私たちこれでもベテランなのよ」
へへっ、と腕をまくる。
ベテランと呼ぶにはとても若いように見える。せいぜい俺より二つか三つ歳が上なだけだろう。だとしたら幼い頃から戦っていたのだろうか。
若い女性が戦わなければならない世界。
あまりいい気分はしない。
「辛くならないんですか?」
俺はためしに聞いてみた。
「たまにね」とメニリィは笑う。「でも普段はとても楽しいわよ。あくまで学園の生徒って立場だから。寮の友だちと朝ごはんを食べて、昼休みには屋上でうとうとして、放課後にはチェスをしたり、楽器を弾いたりして遊ぶの。シャドウのこととか、将来のこととか考えないようにしてるの。考えると辛くなるからね」
将来のこと、と尋ねたがそれには答えなかった。
「さてさて。そろそろ本題に入ろうかな。実のところね、私たちはあなたたちに話があるの」
「話、ですか?」
「そう。とても大事な話」
スカウトしたいの、とメニリィは言った。
シャドウの数が世界的に増加し始めたのは十数年前からだという。その傾向は現在も続き、最近では非常に凶暴な個体も確認されるようになった。解決の糸口はまだ掴めていないらしい。
学園にはシャドウと戦える多くの生徒がいるけど、このペースで数が増え続けたらいずれ人手が足りなくなるのは目に見えている。だから少しでも才能のありそうな人間は確保しておきたい、と言うことだった。
「学園の生活は楽しいけど、本質的にはシャドウ討伐のために結成された組織なの。もちろん新人を一人で危ない場所に送るなんてことはしないわ。戦い方は一から叩き込むし、実戦でも二人以上のペアを組むことがほとんどよ。でもね、いくら万全を期したとして怪我人は後を絶たないし、取り返しの付かないことになった例を何度も見てきたわ。だから、ちゃんと考えて、それから返事を頂戴」
でも、俺たちはそれほど考えはしなかった。路銀もいよいよ底をついた現状、選べる道なんてほとんどないのだ。渡り船、という奴だろう。乗り込まない手はない。
メニリィによれば寮費や授業料は一切かからず、それどころか毎月国から給料としてかなりの額が手渡されるらしい。功績が認められれば昇給もあると言う。それだけ聞くとまるで軍隊のようだ。
「だから、メニリィさんの言うその学園に入ってみようと思うんだ。いくら推薦してもらうと言っても、試験は受けなきゃいけないらしいから、本当に入学できるかどうかはまだ分からないけど」
それを聞いたルナは、「ん」と頷く
ルナは宿屋の窓辺に腰掛けながら、モソモソと食べていたパンを飲み込んだ。
「ミツルがそこに行きたいなら付いていくよ」
ルナはズタズタになったドレスの代わりに、村人から譲ってもらった白いワンピースを着ていた。その姿からは牧歌的な印象を受けた。それはそれで似合っている。
片方だけになった耳飾りが、時折風を捕まえては小さく揺れた。
「いいのか?」と俺は尋ねる。
ルナにだって思うところはなにかしらあるはずだ。わざわざ俺に従う義理なんてなに一つないと思うのだが。
「別に俺に付いてくる必要なんてないだろ? 」
ううん、とルナは首を横に振る。
「そういう決まり事なの」
「決まり事?」
「お父様の言い付けなの。『生涯をソイトゲルと決めた相手にしか口付けをしてはいけない』って。ソイトゲルって言うのは、一緒に暮らしたりご飯を食べたりすることだって。だから私はミツルと生涯をソイトゲル必要があるの。どこまでも付いていくよ」
それは言い換えれば「結婚する相手以外とキスすんな」ってことなんだろう。王族らしい考えだ。
でも、ルナはその言葉を正しく理解しているわけではなさそうだった。彼女にとって俺は旅連れから相棒に変わった、という程度の認識なのだろう。幸いなことだ。
「でも、お父様の言葉なんてもう律儀に守らなくていいんじゃないのか? だって、ここは全く別の世界なんだ。誰かに監視されてるわけじゃないんだから」
ルナは不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、私は一体誰の言うことを聞いて生きていけばいいの?」
俺はなにも言い返せなかった。
彼女の言う通りだ。
翌日、俺たちはメニリィたちの馬車に乗り込み都へ向かった。『エリュシオン』というのが都の名前なのだそうだ。
「でもね、誰もそんな風には呼ばないのよ」とメニリィは言った。
「そこに住む人は『ここ』って言うし、近くに暮らす人は『帝都』って呼んで、田舎の人は『都』っ呼ぶの。帝国に暮らしてる人のほとんどは、帝都に名前がついていることさえ知らないのよ」
馬車の乗り心地はかなり悪かった。舗装されてない道は俺たちの身体を大きく揺らした。俺は快適な自動車を思い出して、もう二度と出会えないであろう文明の利器に頭を下げた。
「眠そうね」
メニリィは赤毛の耳元で囁いた。
そう言えば、今日になってから赤毛は一言も喋っていない。俺たちが学園に向かっているのは知っているだろうけど、それにしたって嫌味や小言の一つや二つは飛んできそうなものだが。
「村の奴らがゴネるからな」
忌々しげに赤毛は舌打ちをする。
「思い出しただけでも腹が立つ。シャドウに畑が荒らされただの、誰それが死んだだの、村人が減って葬儀を執り行えないだの、そんなこと延々と聞かせてくるんだ。しまいには依頼料が高すぎるからいくらか返せなんて言い出してな。冗談じゃない。こっちは命を賭けてるんだ」
「また怒鳴り散らしたの?」
赤毛は首を振る。
「子どもが近くにいたんだ。まだ3歳かそこらの子どもだよ。何日か前に両親が殺されて村長の家に預けられてるって話だった。泣かれても不愉快だからな。穏便に説得したよ」
「お疲れさま」とメニリィは労う。「悪いわね。色んなこと任せちゃって」
「お互い様だ」
二時間ばかり揺られたあと、長く大きな橋を渡り、帝都の入口へと差し掛かった。
さっきの村とはまるで別世界だった。煉瓦造りの家々が立ち並び、通りは多くの人々がせわしなく行き交い、その脇ではいくつもの露店が肉やら果物やら香辛料やらを売っている。
昔読んだ雑誌に載っていた、ヨーロッパの観光地の写真を思い起こさせた。
ルナは馬車のガラスにおでこをくっ付けながら、通り過ぎる風景の一つ一つを目で追っている。電車から外を眺める子どもみたいだ。
「すごいでしょ。毎日がお祭りみたいなものよ」
コクコクとルナは頷く。
確かに、それはちょっとした祝い事のようにも見えた。
これから俺は、この街で暮らすことになるのか。
そう考えると、なんとも言えない奇妙な気分になる。色取り取りの果物を売る屋台。門を守る衛兵。芸術的な噴水。そういうものが自分の生活に組み込まれるというのはなかなか実感がわかない。
果たしてうまくやっていけるのだろうか。
「呑気なもんだ」と赤毛は言う。
「とても素敵でしょ」とメニリィさんは言う。
「すごい」とルナは呟いた。
考えすぎるのはやめよう、と俺は思った。
どうせ後戻りはできないのだ。
感想を書いてくれる男の人って素敵だな^^