3章:プロローグ
ユースティア学園での生活は順調にスタートした。
異世界の学園ということで不安な気持ちはあったが、いざ始まってみればなんてことはないただの学園生活だった。
朝日が昇る前に起床して、寮の学食で朝食をとり、参考書を手にして教室へ向かう。昼食を挟んで午後まで授業を受けた後は自由時間。その繰り返しだ。
中身が違うだけで、大まかな流れは元の世界の学校と変わらない。そんなものは三日もすれば慣れることができた。
慣れない点を挙げるならクラスの女子の多さだった。
俺のクラスには五十人の生徒がいたが、その中で男子生徒は三人だけだった。俺と、ソーマと、それからアンギラという名の無口な男だけだった。教室のどこを向いても制服に身を包んだ女の子しかいなかった。
「変な気分になるな」とソーマは初めて教室に入ったとき俺に小声で囁いた。「間違った世界に放り込まれた気分だよ。そのうち彼女たちに追い出されたりするんじゃないのかな。お前たちはここにいちゃいけないって」
もちろん、誰もソーマのことを追い出したりなんてしなかった。むしろ、ほとんどの女子がソーマの背中を追いかけ回すぐらいだった。
授業が終わる度に女子たちはソーマの席を中心に円陣を組み、あれこれと質問責めにした。ソーマもソーマで嫌な顔一つ見せずに、彼女たちと楽しく喋り、求められれば丁寧に勉強を教えた。
ソーマは顔も良かったが、それと同じぐらい頭も良く、人当たりも良かった。学年に一人はいる万能タイプだ。それに加えて彼女もいないとなれば、ブランド品がタダで転がっているようなものなのだろう。
「分からないことがあるなら私に聞けばいいじゃないの。ミツルくんもそう思うでしょ?」
その日の歴史の授業を受け持っていたメニリィは、不満気な表情を顔に引っ掛けたまま俺の席までやってきてそんなことを言った。
「それとも私の教え方ってそんなに下手なのかしら。これでも分かりやすく教えてるつもりなんだけどな。昨日なんて夜中まで授業の段取り考えていたのよ」
この学園には教師というものは存在しない。ドールには先輩のドールが、サポーターには先輩のサポーターが教鞭を取った。彼らは三年間の学園生活後も卒業せずに残り続けた者たちで、学内では『在籍組』と呼ばれていた。
メニリィやアリス、それからツバキなんかも在籍組ということだった。
ユースティア学園は、外面だけ見るとただの豪華な学園だったが、実際はかなり独特な学園だった。
国語や数学、それから理科や外国語の授業は一切ないのだ。そのほとんどは体育という名の基礎体力作りや剣術指南で、その間に差し込むように薬学の授業(とは言っても薬草の知識や怪我の治療方法を習うぐらいだ)やシャドウの生態を学ぶ授業があった。唯一の授業らしい授業と言えば歴史学ぐらいだろう。
「外国語や数学をやってもなんの役にも立たないからね。僕たちは行商人になろうってわけじゃない。シャドウを倒すのが本業なんだ」
なぜ国語や数学を習わないのかと尋ねたとき、ソーマはそんな風に答えた。
「じゃあどうして歴史の授業があるんだ?」
「それはここが帝国だからだよ。帝国臣民は歴史を尊ぶのさ」
「なんの役にも立たないのに?」
「そんなことはないよ」とソーマは真面目な顔で言った。「歴史を学ぶのはとても大事なことなんだ。明日どんなことが起こるのかはわからない。でも、歴史は教訓を与えてくれる。人々は必ず争うこと。弱みを見せたら付け込まれること。絶対王制は不幸な末路を辿ること。そういう教訓は僕たちの杖になって身を守ってくれる」
授業を担当する在籍組の中には厳しい課題を与える者も何人かいた。その一人がツバキだった。
一番最初の体育の授業で俺たちを外に集めると、グラウンドを三十周走れと言った。一周おおよそ五百メートルほどある。俺たちにとってはなかなかキツイ距離だ。
「お前たちはドールだが、中身は所詮人間だ。基礎がなってなければ話にならない。安心しろ。少し走るだけだ。別に死んだりはしない」
確かに誰も死んだりはしなかった。死んだような顔で走っただけだ。
剣術の授業でもツバキは容赦はなかった。いくら木造りの剣とはいえ防具なしに殴り合わせるおかげで、痣だらけになる生徒が後を絶たなかった。少しでもサボろうものなら、直々にツバキが稽古を取った。
いつからかツバキの授業の前になると、教室はまるで墜落寸前の旅客機のようになった。みんなが顔に不幸の手紙をぶら下げてそれを見せあっていた。
例外は俺ぐらいだった。あのソーマでさえ乾いた笑みを俺に向けてくるのだ。
そんなこんなもありながら、けれど夕方以降の時間は比較的に穏やかだった。
寮のロビーでは、生徒たちがチェスや双六のようなゲームでよく遊んでいた。離れの部室棟からはトロンボーンやクラリネットの音が響き、グラウンドではサッカーのような球技をする集団がいて、校舎の側の植木の影では女の子たちがマットを敷いてビスケットを食べていた。
そんな光景を寮の部屋から眺めていると、なんの前触れもなく涙が流れることがあった。悲しいわけではなかった。悔しいわけでもない。グラスから水が溢れるように、俺の心に溜まった数々に感情が、たまたま涙という形を取って外に出るのだ。
夕方にはソーマがよく俺の部屋に遊びに来た。俺たちは椅子に座りながらその日の出来事を語り合ったりない、つまらない冗談で笑ったりした。
ソーマと何気ない会話をするのは楽しかった。この世界で友人が出来たのだと実感することができた。
「妹から手紙が届いたんだ。去年の暮れ頃からずっと寝たきりだったから心配してたんだけど、最近になって具合が良くなったらしい。そのうち休暇を取って会いに行きたいんだけどな」
ソーマはよく妹の話をした。ソーマ曰く、可愛くて、聡明で、よく気が利く妹なのだそうだ。将来はとびっきりの美人になるというのがお決まりの科白だった。
ソーマが妹を溺愛しているのはすぐに分かった。自慢話を抜きにしても、言葉の節々からささやかな愛情が垣間見えた。
「僕が幼い頃からドールに入ることを決めてたって話は覚えてる?」
「そんなこと言ってた気がするな」
「白状するとね、本当は村に残りたい気持ちもあったんだ。民兵団に入って、妹と二人のんびり暮らすのも楽しいんじゃないかなって。でも妹の治療にかかる費用のことを考えたらさ、二人で爪に火を灯すような生活をするよりも、妹だけでも贅沢させてやるのが兄としての務めなんじゃないかって、そういう結論に至ってね。だからこの学園にいるんだ。当の妹からはドールになることを大反対されてたんだけどね」
「二人で暮らすつもりだったって、両親は?」
「僕が中等部に入ってしばらくして母さんが流行病で倒れてね。父さんはずっと前にシャドウにやられたよ。それ以来、親戚の叔父さんに世話になってたんだけど、それでも他人だからね。必要以上の迷惑かけたくない。それに妹は叔父さんのことが好きじゃないんだ。僕と二人で暮らせるのが理想だったんだけど、世の中はどうもうまくいかない」
「ごめん。なんか嫌なこと思い出させたかな」
「なにも嫌なことじゃないよ。ずっと昔のことだから」
本当になんともないという風に笑ってみせた。あまりに完璧な笑顔のせいで俺はそれに騙されそうになる。親が死んで、なんとも思わない人間なんていない。
「じゃあ、三年経ったらここを卒業して村で妹と暮らすのか?」
あっ、と目を見開いたソーマは、それから感心したように頷いた。
「そうだな。それもいいな。三年経ったら卒業して二人暮らし。気付かなかったよ」
「それぐらい気付けよ」
「僕としてはドールとして学園に骨を埋めるつもりだったから。でも、うん、その考えはなかなか素敵だね。村の外れに小さな家でも建てて、笛でも吹きながら気ままに暮らそうかな。たまに友人を呼んでちょっとしたパーティを開こう。パンで果実酒を飲みながら、昔話でもするんだ。ミツルも来てくれるだろう?」
ソーマと話していると、不意に胸が苦しくなることがあった。
ソーマは妹のために田舎から学園にやって来た。そこにはたくさんの葛藤と決断があったのだろう。
それに比べて俺にはなにもなかった。なにも持たないまま、まるでレールに乗せられたようにここに運ばれてきて、目標もないまま学園で暮らしている。
根無し草のような生き方だ。
「お前はどうしてこんなところにいるんだ?」
あるとき、俺はルナにそう尋ねてみた。
ルナもこの部屋にやって来ることがあった。俺の膝の上に乗って一緒に外の景色を眺め、それに飽きると俺の中指をガジガジと齧った。
どうしてそんなことをするのかはさておき、甘噛みと呼ぶには少し強い噛み方だった。おかげで俺の指には赤い歯型が付き、よだれでベトベトになった。
「痛いんだけど」と俺は抗議した。
「んー」
「んー、じゃなくてさ」
「ミツルの指いいよね。齧りやすい太さで。それから、なんか美味しい。理想的」
「人の話聞いてた?」
リスのように俺の指を両手で抱えたまま、ルナはこちらを見上げた。
「なんだっけ」
「どうしてこんな場所にいるのかって話。お前だってもっと別の選択肢があったんじゃないのか。お父様の言いつけなんて全部破って、自由に生きても良かったんだ。なのにどうして俺についてきてこんな場所にいるんだよ」
意味が分からない、とでも言いたげにルナは首を傾げる。それについて説明するのもややこしくて、俺は好き勝手に喋ることにした。
「ラノベの主人公ってさ、すごく前向きなんだよな。目標が明確で、精神的に頑丈で、誰にも負けないぐらい強いんだ。世界中にはひどい悪党で溢れていて、クールにそれを解決して、王様に気に入られて、女の子にはモテモテで。素敵なラスプーチンさ」
「ミツルもそうなりたいの?」
「そこまでならなくたっていいけどさ。わざわざ異世界までやって来て、それで学生の真似事をして、虚しくなるんだよ。言ったってどうにかなることじゃないのは分かってるけどさ」
ルナを前にすると、自分でも驚くぐらいに饒舌になることができた。秘密の共有者だからというのもある。
でも、それだけじゃない。俺自身ルナをある意味で軽んじているのだ。こいつなら俺がどんなことを言っても、幻滅しないし、嫌ったりしない。だから、俺はルナを前にすると自分勝手に喋ることができた。落書き帳のような存在だ。
「世界は舞台装置じゃない。人間は役者じゃない。思い通りにならないことはたくさんある」
「お父様の言葉か?」
「うん。だから私たちは出来ることをするしかない。なれる人間になるしかない。そう言ってた」
「でも、説得力ないよな。そんなことを魔王が言ってもさ。魔王ならある程度のこと自分勝手にできるんだろう?」
「嫌なことでもあった?」とルナは尋ねた。
「そりゃあねえ。友だちは女の子にモテるのに俺はモテないこととか、学食に米が一切出ないこととか、棚の本が死ぬほどつまらないこととか、体育の授業で十五キロ近く走らなきゃいけないこととか、ちっこい奴に指を噛まれることとか」
「なにかしてほしいことある?」とルナは無表情で訊いた。「なんでもするよ。私に出来ることなら」
「なにもないよ」と首を振る。「他の男にそんなこと言うなよ」
「どうして?」
「どうしてもだよ。親切なのは結構だけどさ、それを利用しようとする男はたくさんいるんだ。この世界にだってロリコンはいるんだろう。自分の身は自分で守ってくれ」
「よく分からないけど、分かった。他の人には言わない」
ルナはしばらく膝の上で指を齧ったあと、テクテクと部屋を出ていった。
ここの生活が始まってそろそろ一週間が経とうとしている。
ルナはしっかり勉強に付いていけてるのだろうか。サポーターとはクラスが別だから分からないけど、ドールに比べて筆記の授業が多いという話だった。あいつの頭が良いようには見えない。馬鹿にされてないといいのだけど。
ふと、そんなことを考えてる自分がおかしくなかった。俺はルナの保護者ではないのだ。どうなろうが知ったこっちゃない。
それに文句の一つも溢さないということは、なんだかんだでうまくやっているのだろう。冒険の伴侶としては頼りないけれど、ただそこに置いておくだけなら愛らしい女の子だ。案外、クラスの女子から可愛がられたりしているのかもしれない。
ルナが部屋にやって来たのは、翌日のことだった。時計の針は十時に差しかかろうとしていて、そのときの俺はランプの灯りを頼りに本を読んでいる最中だった。
この世界に来て何冊か本を読んでみたが、カビたパンのようにお粗末な代物だった。ファンタジーは何冊かあったが、話の筋はどれもコピペしたんじゃないかと疑うぐらい平凡で退屈だった。さらには御都合主義のオンパレードで、酷いものになると急に登場した神様が悪の王を倒すなんて展開まであった。これなら俺が書いた方がまだマシだ。
本から顔を上げた俺はルナの姿に思わず怒鳴った。
「なんだよその格好」
ルナが着ていたのはピンクのネグリジェだった。しかも不自然なほどに薄い生地のせいで下着が透けて見えていた。どっからどう見ても夜のアイテムだし、当然そんなものがルナに似合うはずもない。
「借りてきたの」
「借りてきた!?」
ルナは俺の膝の上に乗ると、抱きつくような格好でくっ付いたまま、俺の顔をペタペタと触った。漂う甘ったるい匂いに思わず顔をしかめた。
(これ香水の匂いか?)
ルナはそれから茫漠と俺の顔を眺めると、なんの脈絡もなく自分の唇を俺の唇に押し付けた。
ぶちゅう、という効果音が似合いそうなキスだった。全然ロマンチックでもなかったし、色気もなかった。付けすぎの香水の匂いのせいで胃のあたりがムカムカした。
しばらくして口を離したルナは満足したように「ほぅ」と熱い息を吐いた。
「あのルナさん。分かるように説明してくれますか。その格好と今の行為について」
「嫌だった?」
「嫌とかじゃなくて」
「男の人は夜に女の子にキスされるのが好きなんでしょう? そう聞いたけど」
「誰だよ。そんなこと吹き込んだのは」
「マリア」
俺は思わず頭を掻いた。本当に生徒会長なのだろうか。頭のネジが二、三本吹っ飛んでいるとしか思えない。
「ミツルが元気ないみたいだったから。廊下でマリアとすれ違ったときに相談したの。どうしたら男の人を元気に出来るかなって。そしたらキスするのが一番手取り早いって言ってた。スケスケの服を着て、香水をかけて、センジョウテキな言葉を使うといいんだって。センジョウテキってどういう意味?」
「あのなあ」
いったいこいつの貞操観念どうなっているのだろう。前々から隙だらけだなとは思っていたが、さすがに見過ごせないレベルだ。もし俺が幼女趣味な人間だったら、間違いの一つや二つ起こるどころの話ではない。
「ミツルはこの服好きじゃないの? ヒラヒラしてて可愛いよ。涼しすぎるけど」
そう言ってルナは見せびらかすようにスソを捲った。下着が露わになる前に俺は視線を逸らした。
「服をめくるな。人前でそんな格好をするな。香水も付けなくていい。そもそもとして夜に男の部屋に入るな。狼の群れに裸で突っ込むような暴挙だぞ」
「元気になった?」
あっけらかんとした声でルナは尋ねる。
「あぁ、もう……元気になったよ。すごく元気になった。もう大丈夫だから」
「それなら良かった」
ルナは微かに唇の端っこを上げた。そのほっぺたを思いっきりつねり上げたい衝動をギリギリのところで抑え込む。
「それから誰にでもキスするなよ。その気がなくたって勘違いする奴が絶対いるから。ってかみんな勘違いするから」
「誰とでもしない。キスをしていい相手は生涯で一人だけなの。だからミツルだけ」
「それもお父様の言い付けか?」
こくこく、とルナは頷く。
もっと正しく娘を教育することは出来なかったのだろうか。お父様の言いたいことは分かるのだけど、それが本来の意味で伝わっているようには到底思えない。
出来ることなら俺が一からちゃんと教え込んでやりたかったが、そうするにはあまりに眠すぎた。俺はあくびを漏らす。
「あと、俺のことはそんなに気にしなくたっていいから。五月病みたいなもんだよ。そのうち元通りになる」
「本当に?」
「本当に」
よかった、とルナは呟く。
方向性次第ではこいつの健気さは魅力的なんだろうなと思う。こんなにちんちくりんじゃなかったら、俺だって少しは好きになれたかもしれない。
「でも、キスって良いいね」
「そうでもないだろ」
読んでいた本を棚にしまいながら適当に返事をする。好きでもない相手とキスしたって、俺は全く嬉しくない。
「唇ってふにふにして柔らかい。ホッとするし、なんか、少し気持ちいい。また、しよ」
「わかったからさっさと部屋に戻れよ。もう夜遅いんだから。ああ、それからその格好誰にも見られないようにしろよ。娼婦みたいだぞ」
幼い子どもが父親にチュウを強請るようなものだろう。そこからどこかに発展するわけじゃない。自分のやってることのヤバさに気付いてくれるのを願うしかない。
ルナが部屋に戻った後、俺はベッドの中で誰とキスしたら幸せなんだろうとそんな取り留めのないことを考えた。
真っ先に頭に浮かんだのはミアだった。でも、彼女はソーマが好きなのだろう。そんな三角関係は御免だ。除外。
だったらメニリィはどうだろう。悪くはない。悪くはないけど、親切なお姉さんというイメージが強すぎる。恋人にするにはよそよそしい。除外。
じゃあマリア? ……論外だ。
俺はそこまで考えてから少し嫌な気持ちになった。
こんな風に打算的に女の子を見るラノベ主人公は、きっと、どこにもいない。