#時計塔とキスについて
主人公視点ではない&直接的に本編とは関係ない&呼び飛ばしても差し支えないため番外編扱いです
ただ、ストーリーにおいて重要な立ち位置の二人なので読むことを推奨します
*軽微な百合要素があるので苦手な方はブラウザバック推奨です
学園には一つの時計塔がある。煉瓦造りの立派な時計塔で、所々にステンドグラスがはめ込まれており、帝都の中心にある宮殿を除けば帝国で最も背の高い建築物だった。そして一日に一度、黄金の鐘は帝国のために音を鳴らした。
時計塔というのは学園のみならず、この帝都における一つのシンボルになっている。帝国に暮らす人々は、多少の差こそあれ、時間を重んじるのだ。重んじる、というのは時間にうるさいという意味ではない。流れた時間に対して敬意を払うということだ。彼らは歴史書をよく読み、彼らの残した文化を愛し、ときどき進歩的でないと文句を言われた。
北の帝国に暮らす人々がどうして時間に関心を持つのかは誰も知らない。争いが絶えないお国柄だとか、時間にルーズな南の王国に対する当て擦りだとか、色々な説が唱えられているがどれも説得力に欠ける。
兎にも角にも、帝国において時間の重みを最も切実に感じているのはドールだった。シャドウとの戦いを繰り返している彼らにとって、一日一日が尊いものであるというのは誰も否定することができなかった。帝国で一番大きい時計塔が学園に存在しているのにはそんな理由がある。
時計塔に入る二人の姿があった。
ユースティア学園の生徒会長であるマリアと、風紀委員長のクロエだった。屋上へと続く螺旋階段を登る度に、二つの影は静かに揺れた。
「あんなに強く殴らなくたっていいじゃん」とマリアはボヤく。
「あなたこそ、もうちょっと節度というものをわきまえてください。仮にも生徒会長なんですから。新入生の手本となるような立ち振る舞いでないと。上に立つものとしての示しがつきませんよ」
「クロエは相変わらず堅苦しいよね。そういうの今どき流行らないよ?」
「流行るとか流行らないとかそういう話ではなくて」
「はいはい」
夜も更けているということもあって、あたりは真っ暗だった。夜闇に溶け込んだフクロウの声を別にすれば、聞こえてくるのは二人分の足音だけだ。
マリアは静かな夜が嫌いだった。静寂は彼女を孤独にさせ、夜の深さは恐怖を煽った。元来は臆病な性格なのだ。だからそういうときには、あれこれと理由をつけて誰かと外を出歩いたり、あるいは女の子を部屋に連れ込むことがあった。
クロエはこのマリアの性格に辟易しながらも、彼女とよく夜の学園を歩いた。親切心ではない。他の誰かが毒牙にかけられるぐらいなら、という風紀委員長としての責任感からだ。
「今日は満月なのよ。とっても綺麗。今すぐ画家でも呼んで描かせたいぐらい。だから月でも眺めながら一息つかない?」
クロエの部屋までやってきたマリアは、そんなことを言って彼女を夜の散歩に誘った。
クロエは山のように溜まっていた書類をさばき、寝間着に着替え、これからベッドに入ろうとしているところだった。
「嫌ですよ」とクロエは言った。「明日は劇を観に行くんですよ。レイラインの劇なんです。ずっと心待ちにしてたんですから。寝坊したくないんです」
「いいじゃない。少しだけだから。ね?」
「絶対に行きませんから」
「楽しいと思うんだけど」
「嫌です」
しかし、なんだかんだでクロエは着替え直して、カーディガンを肩から羽織り、こうやってマリアに付き合っている。
押しに弱いのが唯一の欠点だ、とクロエは思っていた。それがマリアに対してだと顕著だ。おまけに人目がないとなると、マリオネットのように言いなりになってしまう。
マリアは鍵を空けて時計塔の屋上へと出た。バルコニーのようになっている時計塔の屋上は、マリアのお気に入りの場所だった。学園が一望でき、目を凝らせば遠くの方に街の灯りを見つけることもできた。
よっこいしょ、とマリアは地面に腰を下ろした。一瞬躊躇ったがクロエも隣に座る。ズボンが多少汚れても洗えばいいだけだ。あんまり文句を言っても効果がないことを彼女はよく知っていた。
「さっきから気になってたんですけど、それなんですか?」
マリアの手には革製のアタッシュケースが握られていた。随分と重そうだ。
ニヤニヤとしながらマリアは開ける。中には二つのグラスと、一本のワインボトルが入っていた。
「どうしたんですかこれ?」
「パパのワインセラーからくすねてきたの。グラスは倉庫に置いてあったのを拝借させていただいたわ。お洒落でいいでしょ」
「さすがは公爵家の娘……怖いもの知らずですね」
そう言ってクロエはヴィンテージを確認する。
「42年の南フランダズ産って、これ本気で言ってますか? あたり年ですよ。これ一本で馬車の一つや二つ買えますよ。恐れ多くて飲みたくないんですけど」
「私が飲みたいのよ。さっさと開けて」
そう言ってマリアはナイフを投げてよこす。
クロエはため息をついた。学内での飲酒禁止を決めたのはマリア自身なのだ。それを生徒会長と風紀委員長が率先して破るのは如何なものか。
しかし、結局はコルクを開けることにした。中にカスが入らないように気をつけながらナイフを回す。押しに弱いだけじゃない、というのはクロエも薄々気付いていた。まるでメイドのように、ワガママお嬢さまの言いなりになるのがそれほど嫌いではなかった。
マリアのグラスに慎重にワインを注ぎ、自分の分にも注ぎ、小さく乾杯した。そして口を付ける。
「うわぁ……美味しい」とクロエは思わず言葉を漏らした。
「うわぁ、ってなによ。美味しいならいいじゃない」
「なんか悪いことしてる気分になりますね。身分不相応というかなんと言うか」
「ワインは飲まれるために生まれてきたのよ。それを飲んでなにが悪いって言うの」
マリアは一口で飲み干すと、トクトクと二杯目を注ぐ。
クロエは彼女が貴族の娘であることに強い違和感があった。商人の父から聞かされる貴族とは全く別の生き物だった。貴族とは紳士的でありながら計算高く、表向きは羽振りは良いが内心はとてつもないケチで、誠実そうに見えながらその中身は腐臭で充満している、と言うのが父のお決まりのセリフだった。
それに比べマリアはとても素直だった。ワガママで、だらしなくて、チェスが大好きだった。そこには裏も表も自らに対するプライドもなかった。マリアが貴族連中から不良娘の烙印を押されていて、彼女も貴族連中が大っ嫌いだと知ったとき、思わず納得したものだ。
クロエがグラスの半分を飲んだ頃にはマリアは二杯目を飲み終わっていた。そのまま三杯目四杯目と飲みワインボトルが空になると、フラフラした足取りで立ち上がり、柵に両肘を付いて寄りかかった。
柵から身を乗り出そうとするマリアの肩をクロエは慌てて掴んだ。
「あんまり危ないことしないでくださいよ」
「ありがと」
「ありがとうじゃないですよ。まったく」
マリアはなにかを推し量るようにジッとクロエの顔を見た。顔を逸らすと、柵の縁に腕を組み、そこに顔を乗せた。
「なんかさぁ」とマリアは呟く。「嫌だよね。この時期って」
「嫌ですか?」
クロエにとってこの時期を迎えるのは喜ばしいことだった。新入生が入ってきて、学園は少しだけ賑やかになる。
「また一年経ったんだなって思っちゃうんだよ。それで自分の寿命がまた一年減ったんだなって考えちゃう。去年は大丈夫だった。今年も多分大丈夫。でも来年は? その次は? そんなこと意識しちゃうんだよね」
クロエはなにも言わなかった。黙って、続きの言葉を待つ。
「特別長生きしたいわけじゃないんだ。長生き出来ないかもしれないって、四年前にここを受験したときに覚悟してたからさ。それでも、やっぱり気になるじゃん。私はあと何年生き続けるのかなって」
「何年でも、ですよ」とクロエは言った。
「そうなのかな。周りの友だちがどんどん居なくなる度に、次は自分の番なんじゃないかって、そんなことを思うんだ。特に委員長やツバキを見ているとね、昔のことまで思い出す。あの頃は本当に酷かったね。だって入学式で左右前後に座ってた子が、半年後にはみんな死んじゃってたんだもん。狂ってたよ」とマリアはため息をつく。「あのときに比べれば学園はずっとマシになったよ。別物にしてやったと思ってるよ。でも根幹はなにも変わってない。私たちは結局ドールなんだ」
「悪いことは考えないんじゃなかったんですか?」
「そうなんだけどさ」
「大丈夫ですよ。私たちがいますから。あなたを一日でも長く生徒会長の座に付かせるために、私たちはいるようなものなんですから。ボスがそんなんだと下が困っちゃいますよ」
だから校則を破らないでください、という言葉はなんとか飲み込む。それが余計な一言とだということはいくらなんでも心得ている。
マリアは腕を伸ばすと、クロエのブロンズの髪を指で撫でた。クロエはそのままにさせた。マリアがその髪を好きなことは知っていた。直接言われたのだ。
「とても綺麗な髪だね」と。
あれは入学して半年頃のあたりだった。
あの頃はマリアのことを、綺麗で優秀な同級生としか思っていなかった。彼女が前会長を引きずり下ろし生徒会長の座を手に入れるなんて夢にも思ってはいなかった。女たらしということも知らなかった。
しかし今になって思い返してみると、それはささやかな相思相愛だったのではないだろうかと、そんな風に感じることがある。
クロエはマリアの銀色の髪が好きだったし、大きな瞳が好きだったし、よくため息をつく小さな唇が好きだった。唯一の違いは、それを口に出さないことだ。
マリアの手が止まった。
「会長?」
どうしたのかと顔を覗き込む。マリアはまっすぐな目でこちら側を見ていた。そして、しばらくの間を置いてから、クロエの唇にキスをした。子供同士のおふざけのキスと恋人同士の親密なキスとの中間的なキスだった。微かに舌が触れ合ったところで、マリアは唇を離し、あっけなく夜空に目を向けた。
クロエは自分の唇に手を伸ばした。中途半端なキスはいたずらに心を動揺させた。マリアのキスはいつもそうだ。どっちつかずなせいで、どんな風に応えるべきなのかまるでわからないけど。
「いいんですか? 会長にはアヴァさんがいるじゃないですか。私とこんなことしてバレたら怒られますよ」
「アヴァはそんなことで怒る子じゃないよ」
アヴァ、と言うのはマリアのお気に入りの女の子だ。おっとりと喋る女の子で、頭が良く裁縫が得意だった。クロエにとってはマリアの悪事を咎めてくれる数少ない同士だった。
「あなたが誰彼かまわず唇を奪う人だって知ったらきっと悲しむと思いますけど」
「嫌なこと言わないで。誰でもいいわけじゃないよ。好きな人だけだよ」
呆れてしまう。彼女が本当の意味でのレズビアンじゃないことをクロエは知っていた。街に荷物持ちとして連れ出されることがよくあるのだが、マリアがいつも目で追うのは決まって自分より少し年上の男性だった。一緒にレストランに入った折、料理が来るまでの間ずっと格好いいウェイターを眺めていたこともある。
もちろん、そのキスになんの意味もない訳ではない。マリアは彼女たちのことがちゃんと好きなのだ。穏やかな愛情だってある。それが恋ではないだけだ。それを分かっているからこそ、クロエは彼女のキスに戸惑ってしまう。
「そろそろ戻りましょう」とクロエは言う。「まだこの季節は冷えますから。新学期早々生徒会長が風邪を引いたなんてことになったら格好つかないですよ」
「いやだ。自分の部屋になんか戻りたくない」
「でも」
「部屋に戻るくらいなら朝までここにいる」
クロエはカーディガンを脱いで、それをマリアの肩にかけた。とても小さい肩だった。生徒会長の仕事がキツイものだというのをクロエは知っていた。出来ることなら、変わってあげたいと思った。それが出来ないのは、彼女が少し有能すぎるからだ。
名のある貴族や、あるいは皇帝を相手に臆面なく戦える人間を他には知らない。
「私の部屋に来ますか?」とクロエは訊いた。
「いいの?」
「こんなところに酔っ払いを置き去りになんて出来るわけないじゃないですか。いくらなんでも」
戸惑ったように口の端に浮かべた笑みは、芽吹く蕾のように少しずつ大きくなった。クロエは少し安心した。
「じゃあ部屋に行ったらチェスしようよ」
「えぇ、嫌ですよ。会長朝までずっと打ち続けるじゃないですか」
「じゃあ一緒に寝る?」
「えぇ」
「嫌なの?」
「変なことしませんか? 胸触ったり、お尻触ったり。会長はスケベだって、アヴァさんが言ってましたよ」
「アヴァ……」
実際のところ、マリアはとても可哀想な人だと、クロエは思う。これから彼女に訪れる災難を想像すると、胸が引き裂かれそうにすらなる。出来ることなら慰めてあげたかった。その痛みを心から分かち合いたかった。
そうしないのは、いつか自分も彼女を傷付ける側になることを知っているからだ。