0章:ダークスーツの天使
天使は最初にこう言ったんだ。
「名前を名乗るつもりはないんだ」
ほっそりとした長身の男だった。黒い眼鏡をかけ、ダークスーツを着込み、さらには黒いネクタイまでしていた。几帳面な顔はあまり友だちになりたいタイプではない。
「どうしてなのか君は分かるかい?」
「さあ」
ここがどこで、彼が何者で、どうしてこんな場所にいるのか、俺にはなに一つとして知らされてないのだ。そんなこと分かるはずがない。
昨日のことを思い出す。明日は高校の入試で、だから俺は早めにベッドに潜って、目覚まし時計をセットし、そして眠った。D判定だった進学校へ通うためこの一年間、俺は漫画とゲームを封印して寝る間も惜しんで勉強してきた。本来なら今頃は試験会場にいるはずだったのだ。
それがこのありさまだ。
「君にとってここは通過点だからだよ。旅行のとき道路に立っている標識一つ一つに関心なんて持たないだろう? 標識にしたって通り過ぎる車に興味なんてないんだ。煩わしいとしか思わない」
この男の喋り方の一つ一つが癪に触った。定規で測ったような喋り方をするくせに、トゲが隠しきれてないからだ。
「強いて君が理解できるきるように言うなら……僕は天使ということになるのかな。まあ天使というの便宜上の呼び方だけど」
「便宜上?」と俺は尋ねた。
そのとき、俺たちは廊下を歩いていた。先の見えない長い長い廊下でワインレッドの絨毯まで敷かれている。まるで高級ホテルの一角みたいだ。
「とりあえず、ということさ。僕の正式な役職を名乗ったところで君には全く理解できないからね。だから僕は天使で、ここは天界。あるいは死後の世界。好きに解釈してくれればいい」
便宜上の天使は『46』のプレートがかかった扉を開けると、俺を中に招き入れた。
そこはどう見ても会社の応接室としか呼べないような場所だった。テーブルを挟んで向かい合うように黒いソファが二つ並び、観葉植物があって、おまけに壁には表彰状まで飾ってある。窓の外にはいくつもの高層ビルが建ち並んでいる。
「ここが天界?」
天使は俺の質問を無視した。
そのソファには一人の少女が座っていた。可愛らしい少女だった。腰あたりまで届きそうな栗毛色の髪と真紅の瞳、そして黒を基調にしたドレス。歳は俺よりもいくつか下だろう。俺はしばらく彼女から目が離せなかった。何もかもが整いすぎていて、現実味に欠けていたからだ。
「その子も君と同じさ。部下の手違いで連れて来たんだ。ルナという名前らしい。仲良くしてくれ」
「仲良く?」
「こんにちは」
少女は抑揚のない声で言う。
天使は足を組むと、まるで商品のセールスポイントを解説するように俺たちに手を向けた。
「それじゃあパッパと説明しちゃおうか。霧雨ミツルくんにルナちゃん。僕にはあまり時間の余裕がないんだ」
天使の言い分をまとめると、つまりはこういうことだった。
ここ天界のある企業で、死期を迎えた魂を回収し、また別の世界へと転生させるのが業務内容である。しかし、彼の部下がとある些細なミスをしてしまった。魂の仕分け作業をしている最中に、発注書を読み間違え本来回収するべきだった魂とは別に、二つの魂を肉体から切り離してしまったのだ。本来ならその程度のミスは現場ですぐに修正するのだが、繁忙期ということもありその部下は手が回らなかった。気が付いた時には肉体はすでに行方知らず。だから、仕方なく魂だけでも天界に連れてきた。
その二つの魂の一つが僕で、もう一つがこのルナと呼ばれる少女だ。
さらに付け足すなら俺たちはもう元の世界には戻れないということだった。
「戻れないの?」
少女は天使に尋ねた。
「申し訳ないけどね」
天使はこれっぽっちも悪びれずに言う。
「なんとかならないのかよ?」
頭によぎったのが入試のことだ。それから家族や友人、読みかけの漫画のこと。積んだままのゲームもある。
戻れないなんて冗談じゃない。
「無理だよ。いいかい? 物事には順序と道理があるんだ。Aの次にはBが来る。Bの次にはCが来る。Cの次にKが来たり、Lの次にVが来たりしたらみんな混乱する。そして道理を曲げることはできない。君はゴゴゴゴッて滝登りする桃を見たことはあるかい? もちろん無いはずだ。桃は川下に向かってどんぶらこどんぶらこって流れるし、そうしないことには物語は始まらない。つまり、天界に運ばれた魂は然るべき場所に送られるけど、それは元の場所じゃない。リンカーネーション。僕の言ってること理解してくれるかな?」
「はっきり言って全く分からない」
横では少女も同意するようにコクコク頷いている。
天使は額を手で覆って大きなため息をつく。ウンザリ、と言いたそうな雰囲気なのだがそれはこっちのセリフだ。
元を辿ればこいつの部下とやらのせいなのに、どうしてこんな態度でいられるのだろう。
「あんたの力でどうにかならないのか? 魂を抜いたんだから、また入れればいいだけだろ?」
「理解していないみたいだから説明するけど、天界と言うのは君が想像してるよりずっと複雑でシステマティックなんだ。まるで巨大な自動車工場みたいなものさ。手違いでしたごめんなさいって頭を下げて、君たちの魂をポンと元には戻せない。本当は元に戻してあげたいし、そうするのが理にかなっていると思うよ。でもね、そうするためには魂魄運送委員会の承認が必要だし、仮にそれが通っても広い世界から元の器を探さなきゃならない。ありとあらゆる場所に電話をかけなきゃいけないし、多くの人員を使わなきゃいけない。君たちのためだけに全体の流れを止めることはできないし、君たちごときに貴重な人的リソースを割くわけにはいかないんだ。こう見えて今だって死ぬほど忙しい」
そのとき、テーブルの上の電話がけたたましく鳴った。天使は「ほれ見ろ」と言わんばかりに肩をすくめて受話器を取る。
一瞬、俺たちのことではと期待したのだが、彼はハイハイとおざなりに返事をすると、ガチャンと通話を切ってしまった。
「部下のミスに振り回されるのは僕も同じなんだよ」
天使は電話機に向かって吐き捨てるように言う。
「忙しいなら俺が電話番をしようか? その間に、元に戻す手続きをしてもらうというのは……」
「悪いけどうちは超一流企業なんだ。アルバイトは雇ってない」
天使は胸ポケットからライターを取り出すと、それを手の中でくるくると回した。
俺がなにを言ったところで取り合ってくれる雰囲気じゃなかった。こいつにとって、俺たちはガムの包装紙ぐらいの価値なのだろう。そう思うと呆れて言葉も出ない。
「何度も言うけど、僕も本当に申し訳ないとは思ってるんだよ。だけどさ、君にしたってもっと理性的になるべきだと思うよ。無理なものは無理なんだよ。一度こぼれてしまったミルクは戻せないんだ。だから現実的な話をしよう。そうしないと何も前に進まない」
「とりあえずはそっちの言い分を呑むよ。とりあえずね。それで、僕はこの後どうなるんだろう。現実的な話として」
隣の少女は、コクンと頷く。
「君には別の世界に行ってもらう」
「別の世界?」
「そう、別の世界。異世界。君にはそこで続きの人生を送ってもらうよ。まあ自由にやってくれ。勇者になって魔王を倒すもよし。ハーレムを築き上げるもよし。あぁ、そっちの彼女も一緒にね」
「どうして?」と少女は首を右に傾げる。
まるで夢を見ているような、ぼんやりとした返答。この少女が話の筋を理解しているのかかなり怪しい。
「二人一緒の方が手間を省けるし、なにかと都合がいいんだ。彼の世界には『袖振り合うのも他生の縁』という言葉もあるらしいしね」
「?」
少女はさらに深く首を傾げる。
「さて、二人の了承も取れたことだし、早速旅に出てもらうよ」
天使がパチンと指を鳴らすと、座っていたはずの俺たちの身体は雲のようにプカプカと浮かび、足元にはマンホールを一回り大きくしたような穴が現れる。全く底が見えない穴だ。
少女は「おぉ」と目を丸くして中に浮く自分の手足を見つめる。さっきから思っていたけど、こいつはどうしてこうも緊張感がないんだろう。
「ちょっと待ってくれ。了承なんてしてないだろ!」
俺は天使に叫ぶ。
「とりあえず、君は承諾してくれたんだろ。なら、とりあえず別世界に行ってくれ。あんまり時間がないんだ。この後は大事な会食でね。お上の機嫌を損なうと企業の損失になる」
天使はいかにも値が張りそうな腕時計に目を落とした。
「こういうのにはお約束があるべきだとは思わないか?」
天使はチラリとこちらを一瞥する。
「聞こうじゃないか」
「異世界に行くなら最強になるべきだろう。100歩譲ってそれが無理だとしても不思議な力を手に入れたり、特別なアイテムを餞別に渡したり。なんならスマホでもいい。どこかのラノベと違って最後までちゃんと活用してみせるから。初期設定は守る主義なんだ」
天使はとても心苦しそうに、けれど刻み込むようにしっかりと首を振る。
「そういうのは僕の管轄外だから」
天使がもう一度指を鳴らすと、重力が俺たちを穴の中へと突き落とした。
浮遊感に吐き気を覚えながら、長い長いトンネルを落下していく。隣には例の少女。上を見上げると天使がヒラヒラと手を振って立ち去るところだった。
ブチッ
頭の中で何かが切れる音を俺は耳にした。
その時に、俺の旅の目標は決まった。
あのクソ天使をぶっ飛ばすことだ。
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