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「こんばんわー……、おじゃましまーす……」
怖々と門を押し開き、庭に入る。豊かな芝の庭には、玄関ポーチに続く煉瓦敷の短い道があった。
玄関の両開き扉は木製で、真ん中に十五センチ四方の硝子窓が付いている。内側からカーテンが掛けられていて中の様子は伺えないが、ほんのり、灯が付いていることは確認できた。
そして、そのほのかな灯に照らされて、扉の前に立っている人影が見える。
「あの、こんばんわ。私、魔女様からここに行けって……」
「ああ!良かった!本当に無事だったのね!」
話し掛けながら近寄った雪路の方へ、人影はハッと肩を震わせると駆け寄って来た。
月明かりに照らされて、赤毛の三つ編みと、ソバカスの顔が目に入る。
「あ、貴方は」
「良かった!本当に良かった!メルヴィン様が新しい花嫁候補のお付きが必要になったって言うから、きっと貴方は無事で、貴方の事だと思っていたんだけれど……!」
勢い余って雪路の両手を取ったのは、最初に出会った人々の中にいた少女だった。
「ウェンディちゃん?」
「覚えててくれたのね!」
呼び掛けるとニコッと笑う彼女の額を、思わず雪路は見詰めてしまった。
「あの、怪我してなかった?大丈夫なの?」
頭から血を流してフラフラしていた姿を思い出し、アワアワと問い掛ける。
「病院とか行った?他の人達も、大丈夫だった?」
「ええ、貴方のおかげで。本当にありがとう……!」
ウェンディは頷いて、ギュッと、改めて雪路の手を握った。
「あの後、メルヴィン様が来て下さったの。普段は私達工女や鉱夫には回復魔法なんて使って下さらないんだけれど……今回は、特別に治して頂けたから」
皆元気よ、と、言われてホッと息を吐く。
「それならドラゴンと鬼ごっこした甲斐があるぅ……」
「本当に無茶をしたわねぇ」
クスクスと笑ったウェンディは、さぁ、と、屋敷の扉を示した。
「外ではなんでしょ?私、お礼がしたくて……。貴方付きの工女に立候補したの。色々説明するわ」
中へ入ろうと誘導され、雪路はウェンディと並んで屋敷の扉を潜った。
そうして入ってすぐのところは、広い吹き抜けの玄関ホール。ホールの左右にそれぞれ扉があり、正面には木製の大きな階段が二階まで続いている。キラキラとシャンデリアが輝いていて、豪勢なヨーロッパのお屋敷という風情。
「右の扉を進むと、食堂とお風呂、それからキッチンに、食事担当の使用人の部屋」
ウェンディは立ち止まってそう説明した。
「そして左の扉を進むと、花嫁候補達の談話室と、日光浴の為の温室よ」
左の扉の向こうからは、微かにざわめきが聞こえて来る。わいわいと、女性達の声がしていた。
「二階が、それぞれの花嫁候補達の部屋よ。貴方……ええと……」
「雪路。花都 雪路」
雪路が名乗ると、ウェンディはニッコリ笑った。
「ウェンディ・ブラウンよ。ウェンディでいいわ」
手を差し出され、そこでようやく自己紹介をして握手した。
「いやね、私ったら、一番大事な説明をしてなかったんだから」
クスクスと笑うウェンディに、私も忘れてた、と雪路も釣られて笑った。
「雪路、貴方の部屋は、左手の一番奥。鍵は私がメルヴィン様から預かってるわ」
ウェンディはポケットから鈍色の鍵を取り出して、雪路に差し出す。
「部屋は既に綺麗に整えられているし、着替えや化粧品、石鹸やタオル、初月の給金、当面必要な物は全部、貴方がこの世界に現れた瞬間、魔女様の魔法で用意されたはずよ」
それでも何か足りなければ手配する女中のような役割として、一月はウェンディが付いてくれるのだという。
「すぐにお部屋に行って、一休みする?それとも、ひとまずシャワーを浴びたいなら、私が着替えとタオルを持って来るけれど……?」
ウェンディの提案は、疲れた体にはどちらも魅力的ではあった。
(シャワー浴びたい……)
走り回った後だから、とにかくシャワーを浴びてスッキリしたいし、その後には落ち着ける場所で座って、ウェンディに色々と聞きながらジックリ今後の事を思案したい気待ちは強い。
しかし。
「……あの、でも、私、挨拶とかした方が良いよね?」
ここが今後しばらく自分の生活拠点になると言うなら、同居人である他の花嫁候補達に一言くらい挨拶しておくのが筋だろう。
ワイワイと声が聞こえて来る左の方向を見て言うと、ほんの少し、ウェンディは顔を曇らせた。
「……ウェンディ?」
何か含みのある間に首を傾げると、ハッと、慌ててウェンディは微笑んだ。
「いえ、大丈夫。何でもないわ。そうね、挨拶はしないとまずいわ」
そして、雪路の着ているモスグリーンのコートを指差す。
「でも、それは脱いだ方がいいと思う。私が持っててあげるから」
「え?あ、ああ、うん。室内だし、汚れてるもんね」
洞窟の中を走り回ったせいでコートは少し埃っぽかった。マフラーはいつの間にか落としてしまっていて、改めてちょっと勿体ないな、と思う。
コートを脱げば、制服の紺色ブレザーに黒いベスト、白いシャツ。赤と黄色のチェックのスカートをちょっと叩いて整え、首元の赤いネクタイの位置も正す。黒タイツだったので、靴下のずり落ちを気にする必要はなし。
「……変じゃない?」
全体的に古い時代の服装と街並みを持つ世界だ。二十一世紀仕様の制服はおかしくないかと心配すると、大丈夫よ、とウェンディは請け負ってくれた。
「皆、外の世界では色々変わってるって分かっているから。今って、そんなにスカートが短くても許されるのね」
感心した様子で雪路の手からコートを取り上げたウェンディ。
「自分で持つよ」
慌てて手を伸ばすと、いいえ、とウェンディは首を左右に振った。
「花嫁候補に外套を持たせるなんて出来ないわ」
「え?」
「……花嫁候補達に挨拶をする間は、決して、私に優しくしちゃダメよ」
ウェンディは声を低くして真剣な顔でそう言った。
「それでね、栗色の巻き髪の女の子、イザベラには逆らっちゃダメ」
その忠告に、何となく察しが付く。
「……クラスのリーダー女子的な?」
「リーダー……そうね、それに近いわ。イザベラは花嫁候補の中で一番の有力後継者候補。誰も彼女には逆らえない。絶対に、嫌われちゃだめ」
途端に挨拶に行くのが面倒くさくなる。けれど、そんな人物がいるのなら、余計に挨拶に行かねばまずい事になるのも想像出来るから。雪路は、仕方なしに腹を括った。
「わかった。うまくやる」
そうして、ウェンディにコートを持って貰ったまま、賑やかな声の方へと向き直った。
「よし」
まるで転校した先で初めての自己紹介でもするような気分で、雪路は小さく深呼吸し、歩き出した。