5-9
そもそも銭湯は、この世界において最下層、労働力として魔女に攫われて来た鉱夫や工女といった人々が使う場所である。
元々、彼等から親近感を持たれている雪路はともかく、間違っても普通の花嫁候補は来ないし、まして魔女の息子達なんて、やって来るはずがない。
ない、と、誰もが思っていたのに。
「ははは、あー、面白かった」
ケラケラと笑うニコロの横で、雪路はグッタリ項垂れる。キラキラと好奇心を隠さないニコロを連れて銭湯に行ったはいいものの、突然の有り得ない来訪者に、その場は軽いパニック状態と化したわけで。
『いや無理ですよ、無理ですって!雪路さん、止めて!ニコロ様を止めて!』
お通し出来る浴場じゃないと悲鳴を上げる番台の工女と、平気平気、と気楽に構えるニコロに板挟みされつつ、何とか工女を説得して話を付けたものの。
今度は女湯で、どうしてニコロ様がいたのだ、仲が良いのか、彼が雪路の〝お目当て〟なのか、と居合わせた工女に興味津々で根掘り葉掘り問い詰められるまでがセットだった。
湯から上がった時には、ある意味で入る前より疲れていた雪路に反し、ニコロの方は平然としたもの。運悪く居合わせて度肝を抜かれている鉱夫達と正反対に、楽しそうに雪路に手など振ってきたものである。
そうして二人揃って、座っているのは銭湯の屋根の上だった。湯上りで程よく火照っている頬に、夜と夕方の間の風がそおっと触れて去って行く。
西の方角は濃い朱色の空だった。そこから徐々に東に向けて朱色はピンクを帯び、ついに天頂で紫になる。そして以降は、東の地平線に向け、紫から濃青へと変じるグラデーション。
ポツポツと瓦斯燈の灯り出した地上より、ともすれば鮮やかな空の方が近く思える屋根の上も、飛べる事が当たり前になってしまった今は、さほど高くて怖いと思わないことに、雪路はふと気付いて目を瞬いた。
「俺は新鮮で楽しかったけど、うーん、皆には悪いことしたかなぁ」
横のニコロは、ケラケラと笑いながらも、ちょっとだけ困ったように地上を見下ろす。
「皆びっくりしてたし」
「それはしていたでしょうね……」
思わず心底声が出た。
「私も、ニコロさんが来たいとか言うから凄い焦りましたもん」
「ごめん、ごめん。って言っても、それじゃ足りないかな?」
ニコロが視線で指したのは、雪路の手の中のホットドリンク。
さすがに自分の行動で回りが驚いて疲弊したのはニコロも感じ取ったらしく、その場にいた全員に、今日の夕食代と酒代は全部魔女の七男の名義でツケて良い、と宣言した。
途端に元気を取り戻して、近くの酒場や食堂にウキウキ入って行く鉱夫や工女達は、さすがにタフであるが。
ちょっと疲弊し切った雪路は、今日は帰りに軽食でも買って帰って部屋で一人で食べたいと、近くに出ていた夜店で飲み物だけ買って貰うに留めていたわけである。
「……ニコロさんが楽しかったんなら、まぁ私は良いですよ。これ、美味しいですし、ごちそうさまです」
苦笑いして、雪路はホコホコ暖かい紙コップを両手で包み込む。
「これ何なんですかね?ブドウジュースっぽい色と味ですけど、ほんのりスパイシーっていうか……」
「葡萄ベースの果物何種類かを煮た汁に、カルダモンとかシナモンとか、スパイス入れたんじゃないかな。見た目でホットワインかと思ったけど、それよりもうんと甘い」
ボンヤリ呟くと、同じ物を飲んでいるニコロはテキパキ答えた。
「え、ニコロさんスパイスとか詳しいんですか?」
意外に思って振り向くと、ああ、と少し得意そうに頷く。
「俺、これでも料理出来るんだよ。しかも兄弟の中では二番目に良いシェフな自信あるぜ」
「二番目?」
「一番はアントワーヌだから。あの人には勝てない。あれは狡いくらい美味しい」
パチリと、雪路は目を瞬いた。
(そういえば、確かに美味しかったな)
以前に一度、食べさせて貰った料理を思い出す。
「……兄弟にも作ったりするんだ」
「意外だろ?あの人あれで料理できるし、それどころか、かなり腕が良いんだ」
雪路の呟きを、アントワーヌが料理をする事自体への驚きも含んでいると解釈したらしく、ニコロは楽しげに笑って言った。
「俺もパスタとかピッツアなら負ける気しないけど。でもアントワーヌが本気出すと、なんかもう、見た目からして素人のそれじゃないフレンチのフルコースが出て来るから」
「ちょっとそれ、凄く見てみたいんですけど……」
一体どんな物が出て来るのだと、非常に気になる雪路に対し、ニコロはクスクス笑って目を細める。
「逆の意味で凄いのが出て来るのは、メルヴィン、フロールだけどね」
壊滅的でいっそ芸術的な料理下手、とニコロは二人を評した。
「エリックはそこまでじゃないけど、サンドイッチとかカレーとかしか作れない感じ。誠は、味はともかく不器用だから見た目がね。ヘイダルも……、うん、ヘイダルは味は良いんだけど見た目が凄いの作る」
「私、フロールさんとヘイダルさんにはお会いしたことがないんですが……」
雪路は小首を傾げた。
「聞く限り、個性強そうなお二人ですね」
「そうだねぇ」
ニコロは大きく肯いて、街の景色に視線を移す。
「フロールもヘイダルも濃い。……二人だけじゃなくさ、みんな、びっくりするくらい方向違ってて、似てないんだよな、兄弟とか言われてる割に」
笑う横顔に、雪路は少し虚を突かれた。それはハッと一瞬、目を奪われるくらいには、本当に穏やかな、満足そうな笑い方だったから。
「ま、血は繋がってないから当然なんだけど」
ふふ、と首を左右に振って笑う横顔。
「……ニコロさんは、御兄弟が好きなんですね」
思わず呟くと、え、と振り向いて、それから少し恥ずかしげに頬を掻いた。
「そう見える?……まぁ、ファミリーを大切にするのは、シチリアの伝統だしなぁ」
「そのファミリーは怪しい意味に聞こえますよ」
雪路が思わず突っ込むと、ニンマリ、ニコロは更に口角を上げる。
「ストレガ・ファミリー、か。いいね」
「ストレガ?」
「イタリア語で、魔女、だよ」
ニコロは再度街に視線を落とす。
「てことは、この街が俺達の、シマ、なのかな」
片手を宙に伸ばして、何かを掴むような仕草を見せて。
「……果てしなく続いてるはずなのに、こう見ると、そんなに広くない気がしちゃうなぁ」
ぼんやり呟かれた一言に、雪路は目を瞬く。
「……ニコロさんは、外へ……地球へ戻りたいんですか?」
無意識に、以前、結局答えを聞けなかった問が出た。ハッと同じ問を誠に向けた時の事を思い出して口を抑えるも、すでに時は遅い。
「あ、いえ、すみません、答えたくなければ……」
誠よりも古くからこの世界にいるニコロだ。その年月は当然に重過ぎるだろうと慌てた雪路に対して。
「地球かぁ」
意外にも、ニコロは軽い調子で小首を傾げる。
「前にも言ったけど、ほら、俺、帰る方法とか知らないし。それにこの通りの性格だからさ、帰る方法を考えつくのとかも、無理だと思うんだよな」
「そんなことは……」
「そんなことあるっていうか、それで良いと思うんだ、俺」
反射で否定しようとした雪路に、卑屈になるでもなく、ごく自然な無邪気さでもって、ニコロは言った。
「だってアントワーヌがいるし。俺より頭が良くて頼りになる上の兄貴がいるなら、それでいいだろ?」
だから自分は考える必要がないのだ、と。心底、落ち着いた様子でニコロは語る。
「あの人は、俺よりずっと昔……この鉱山が、一番、酷い状態だった頃から、ここを治めてきた。それがどれだけ大変なことだったか……うん、よくわかるよ、俺が来たばかりの頃ですら、あんなに大変だったんだから。だからさ、あの人を信じている。あの人が帰るべきだって思ってるならそれが俺達にとって最良の判断なんだろうし、帰る気がないなら、きっと、それが俺達にとって最良なんだって。俺の答えは、それで良い
」
自分が出す答えより、あの人の出す答えの方が正しいに決まっているのだ、と。
「だから、あの人が動き出さない限り、帰りたいとか帰りたくないとか俺は考えないし、考える必要がないと思ってる」
本当に堂々と無邪気に、真っ直ぐに言ってのける物だから、雪路は面食らって声を失う。
けれどもすぐに強烈な違和感がジワジワと押寄せて来て、ムグムグと口元を歪めて。
(……最良とか、最良じゃないとかではなくて……考えるとか、考えないとかではなくて……)
少しの後、そう、雪路は違和感の正体に気付いた。
(……ニコロさんは、どう〝思って〟いるんですか?)
正しくなくても、論理的な考えではなくても。ただ純粋な感情の部分での望郷すら、貴方にはないのかと。
何となくモヤモヤとして浮かんだ問は、しかし邪気のない顔で笑うニコロを前に、音にはならない。
(……いや、これは私が問い詰めていいところじゃない)
誰かに追随するのではなく、自分で判断しろと、非難がましく思ってしまっている事に気付いたから、雪路は口を噤んだ。
(……自分で判断することから逃げてる私が、人にどうこう言えるわけがない)
カレンとイザベラの件が頭を過ぎり、罰悪く視線を伏せる。
カレンの為に自分の平穏を捨てる、あるいはカレンを犠牲にしたまま自分の保身を優先する。その判断を迫られる度に苦しいからと、銭湯に逃げて来ているのが今の雪路なのだから。
それに比べれば、信頼する兄に全判断を委ねているニコロの方が、ある意味では潔い気さえするではないか。
「……冷えて来ましたね」
少し暗い方へ流れ掛けている自分の思考に苦く笑って、雪路は、そう呟いた。
「そうだな」
肯いて、ニコロは立ち上がる。
「そろそろ帰るか」
「はい」
いつの間にか全天を濃紺に変えた空の下。エメラルドの目の青年は、変わらず無邪気に微笑んでいた。




