1-2
「おぉい、しっかりせぇよぉ、嬢ちゃん」
嗄れた男の声と重なって、ゴゥン、ゴゥン、と重い機械の動くような音がする。
「ん?」
パチリ、と目を開いた雪路は、数秒間停止した。
仰向けに寝ている雪路の視界に広がったのは遥か高いところにある岩の天井で、予期していた鈍色の空はない。辺りはオレンジ色の光で照らされていて、壁に取り付けられたカンテラがその光源らしい。
五人ほどの男達と、一人の少女が、困惑した顔で雪路を見下ろしている。
「あれ?」
ここはどこだ、と、雪路は慌てて上半身を起こした。
「あれ?え?」
そこは天井だけでなく、壁も岩で出来ていた。広い空間の隅の方であるらしく、部屋の奥では、鉄で出来た巨大な車輪のような物が重い音を立てて回っている。
その他、壁にはあちこち穴が空いていて、その一つ一つがどこかに繋がるトンネルの入口らしい。たくさんの男達が重そうなバケツやスコップ、ツルハシなどの工具を持って、この空間へ入って来たり、どこかへ出て行ったりしている。
どう見ても、先程までいたはずの静かな住宅街ではない。
「ここ、どこ?」
「メルヴィン様の鉱山よ」
雪路の無意識の問い掛けに、覗き込んでいた少女が答えた。
「メルヴィン様の鉱山?」
オウム返しに呟いた雪路は、改めて見た少女の姿に軽く驚愕する。
「外人さん?」
赤毛の三つ編みに、ソバカスの散った顔。そして、目は薄いブルー。配色から見ても、そして堀の深い顔立ちから見ても、おそらく日本人ではない。
おまけに、彼女は随分と時代がかった格好をしている。
「何かの撮影中?」
ギンガムチェックの詰襟で、足首まで丈のあるワンピースに、うっすら汚れた白いエプロン。いつか海外ドラマで見たような、昔のイギリスの女中に似ている。
考えて見れば男達も多国籍だ。明らかに西洋人風の外見をした者もいれば、日本人や中国人に見える人々もいる。そして、服装も何となく古臭い。オーバーオールにシャツと言ったような現代でも有り得る格好なのに、そのシルエットや柄は、いやに古めかしい。
「皆さん、役者さん?」
「なんだい、お前さん、頭でも打ったのかい?」
男の一人が眉間に皺を寄せて言った。
「いきなりどこかから落ちて来て、何を寝ぼけた事を言っとるんだ」
「落ちて来た?」
雪路は困惑して上を見上げた。天井は高い位置にあるが、落ちて来れるような穴のような物は無い。
「落ちて来れるような場所、ないですけど……?」
「んだこと言ってもよ、俺はオメェさんの真下にいた。落ちてきたオメェさんに下敷きにされたぞ、確かにな」
困惑する雪路に、前歯の一本欠けた男が同じく困惑した顔で自分の頭を摩った。
「首が折れるかと思ったわ」
「それは……すみません」
いまだに痛そうな様子に、思わずそこは素直に謝ったけれど。はて、と、雪路は困惑したままもう一度上を見上げた。
「あの……」
本当に、ここはどこなのだと再度問いかける前に、ハンチングを被った嗄れ声の男が、さて、と眉間の皺を更に深くしながら声を上げる。
「目が覚めたなら、アントワーヌ様の所へ連れて行かねばなるまいよ」
「どうして?」
赤毛の少女が驚いた様子でハンチングの男を振り向いた。
「十中八九、脱走だろう、これは」
ハンチングの男はそう答える。
「ウェンディ、日中に鉱山に入ってくる女なんぞ、お前みたいに加工所から仕事で来た使い走りか、さもなくば脱走しようとした工女だけだろう」
「でも、私、こんな子見たことないわ」
ウェンディと呼ばれた少女は雪路をチラリと振り向いた。
「この子、工女じゃないわ」
「じゃぁ何者だって言うんだね?」
ハンチングの男は腕組みして首を傾げる。
「花嫁候補とでも言うのか?まさか。あの花嫁候補達が、俺達にこんな口を利かれて大人しくしとるもんか」
それに対して、ウェンディはムッと考え込むような顔をした。
「でも……でも、それならせめて、連れて行くのはメルヴィン様の所でしょ?ここはメルヴィン様の鉱山よ」
「この嬢ちゃんはいきなりどこかから落ちて来たんだ。おおかた、脱走途中で魔法の網にでも掛かったんだろうよ」
食い下がるウェンディに、ハンチングの男は上を指差した。
「それなら、アントワーヌ様かヘイダル様が今頃探していらっしゃるだろう。何かの手違いで網が変な転送の動きをしたんだろうからな」
「それならヘイダル様でも良いでしょ?アントワーヌ様、あの方は厳し過ぎるわ。恐ろしい御方、全ての魔法を支配下に置く、魔女様の長男」
「だからこそだ。ここで下手に匿おうとしたなんて疑われては、あの御方に俺達も罰せられる」
何の話をしているか飲み込めない雪路は、ハラハラと二人の様子を見ていた。
「気の毒だが、アントワーヌ様の所に連れて行く。脱走したなら、そのくらいの覚悟は決めていたはずだろうしな」
「でも……」
ウェンディの戸惑いを見る限り、男の言う『アントワーヌ様』とやらの所に連れて行かれるのは雪路にとって良い事ではないらしい。
「あの……私、脱走とか、した覚えはないんですが……」
恐る恐る、話に割り込んでみようと声を上げた雪路を、パッと二人が振り向いた。
「なんだって?」
「私、脱走とかしていないです。学校からの帰り道に、変な手に掴まれて……」
気付いたらここにいたのだと辺りを見回す雪路に、ハンチングの男や、その他の男達は困惑した顔をする。
「お前さんな、嘘つくならもうちょっとマシな話を……」
呆れたように先ほどの歯が欠けた男が口を開いた。
「俺達も出来るなら見逃してやりたいんだがよ……」
「いえ、本当なんですけど」
ムッと雪路が立ち上がって答え、パンパンと、背中やお尻に付いた土を落としていた時だ。
「竜だ!竜が出て来たぞ!」
トンネルの一つから、真っ青な顔をした男が一人、走り出して来た。
「試練の間の方角で落盤が起きた!そのせいで竜がメルヴィン様の檻から出て来た!」
その声に、ピタリと誰もが動きを止めた。せわしなく出たり入ったりしていた人々も動きを止め、雪路を囲んでいた男達と少女も、見る間に顔色を無くす。
「メルヴィン様は!?」
一瞬の間を置いてハンチングの男が叫び返すと、走って来た男は首を左右に振る。
「今日はニコロ様の所に行かれている!補佐の花嫁候補達は真っ先に逃げた!誰も竜を止められない……!」
その叫びに被さるように、耳を裂くような凄まじい何かの咆哮が轟いた。
続けて足元の地面が揺れ、ハッと振り向く人々の前で、一際大きなトンネルの入口から、巨大な影が姿を現す。
「うそ……」
マンガやゲームで見た通りの『竜』が、そこにいた。
濃い濃い緑色の鱗に全身を覆われて、蝙蝠のような皮膜の翼を持つ。しなやかで強靭な筋肉の隆起を感じさせる四肢の先には、鋭利で巨大な爪。真っ赤に燃える炎のような縦長の瞳孔を持った目と、獰猛そうな牙の間から火花を散らす口。
「ドラゴンだ……」
呆然と雪路が呟いた瞬間、バッ、と、その手が掴まれた。
「逃げるぞ!」
ハンチングの男が、呆然とする雪路とウェンディを両手に引っ張るようにして駆け出した。
直後に、竜はもう一度咆哮を上げて動き出す。
「小さな洞窟へ逃げ込め!」
ハンチングの男の怒鳴り声に従って、その場の人々は次々と手近にあった小さなトンネルに飛び込んで行く。
雪路達も、傍にあった入口へと駆け寄った。
しかし、そこで背後から何やら巨大な生き物が息を吸うような気配。
「ダメダメダメ!ストップ!!」
これはもしや〝アレ〟では、とアニメだかゲームだかで見た場面が脳裏を過ぎり、雪路は咄嗟にハンチングの男とウェンディを道連れに倒れ込んだ。
その刹那後、頭上を熱風が通過して目の前にあったトンネルの中にブワリと炎が広がる。
「やっぱりドラゴンブレスだったぁ……」
思わず情けない声が漏れた。
「ひでぇな。もう少しでオーブンに飛び込むところだった……!」
ハンチングの男は叫んで飛び起き、腰が抜けかけている雪路とウェンディを引っ張り起こす。周りの男達も、先頭を走っていた雪路達が転んだ事で転倒の連鎖に巻き込まれ、事なきを得たようだった。
けれど、背後に竜が迫っている状況には変わりない。
「あっちだ!」
別の入口に向けて走り出した直後、今度は背後でバサリと何かが空気を打つ音。まさかと身構える間も無く、翼を上下させて飛び上がった竜が頭上から急降下を仕掛けて来た。
「飛び込め!」
少しでも前方へと身を投げ出す以外に出来る事などない。押し潰しに来ている巨体を直視する事も出来ず、ギュッと目を閉じた雪路は精一杯地面を蹴って前方に身を投げ出した。
ドスン、っと、体が硬い地面に倒れ込む衝撃。アチコチから上がる悲鳴。そして、轟音。
今度はバッと目を見開いて飛び起きた雪路が振り向くと、同時に竜は再び咆哮した。
複数の人間がそれぞれ別の方向に身を投げ出したせいで、竜も判断に迷ったらしい。単に雪路達が向かっていた洞窟の壁際に着地することになったようだ。よって直接下敷きにされた者こそいないようだけれど、壁際に降りた竜が勢いで激突した岩や機械の一部が崩れて飛び散っている。
運悪く飛散した物の傍にいたウェンディや数人の男達が、飛んできたそれらの直撃を受けて蹲っていた。
「しっかりしろ!」
足から血を流したハンチングの男が、気絶している別の男に声を上げる。その横でフラフラと立ち上がろうとしたウェンディは、頭から血を流していて、すぐに座り込んでしまった。
人間達が大慌ててで呻いている間に、ドスン、と竜が一歩を踏み出す。
「起きろ!逃げるんだ!足の無事な奴は、誰か、ウェンディを背負ってやれ!」
ハンチングの男は叫んで、呆然と立っている雪路に視線を向けた。
「よし、お前さんは無事か。なら、さっさと逃げるんだ!」
「でも」
「お前さんじゃウェンディすら担げんだろう!逃げろ!」
その叫びに思わずコクリと頷いて、雪路は近くの洞窟に向けて数歩走り出した。けれど、チラリと振り向いた瞬間、視界の隅にいまだ蹲る人々と、迫る竜を見て、ハッと足が止まる。
竜と、蹲る人々を交互に見比べた。
「うう、もう!」
呻き声を上げた末、雪路は今来た数歩を駆け戻った。
「おい、どこ行く!?」
自分の横を通り過ぎる雪路に、ハンチングの男が驚愕して声を上げ、ウェンディが咄嗟に手を伸ばした。
「待って、そっちには竜が」
「大丈夫!私、これでも現役陸上部……の、長距離選手よりは、足速かったんだから!」
自分への鼓舞も兼ねて叫んだ雪路は、手近の小さな瓦礫を拾って放り投げた。
「ほら、コッチ来なさい!鬼ごっこなら私が付き合ってあげる!」
カツンと前足にぶつかった瓦礫など、竜にとっては痛くも痒くもないだろう。それでも、気を引くには充分。
縦長の瞳孔が標的を自分に定めたのを確認し、今度こそ、雪路は全力で手近のトンネル目掛けて走り出した。
「待って、ねぇ、貴方!」
「なんて命知らずなことを!」
背後から聞こえた叫びに、まったくその通りですと全面肯定しながら、雪路は今度こそトンネルに走り込んだ。
竜も入れるほどの巨大なトンネルには、等間隔にカンテラが設置されて道を照らしている。
「ほら、コッチだぞー!」
何か叫んでいないと恐怖で立ち止まってしまいそうで、雪路は振り返らないまま背後の竜や自分に対して、意味も無く叫び続けた。
「うっわ、私って馬鹿じゃないの!?もう一回、火吹かれたらどうするの、これ!?」
こんな長細い一本道の通路で炎を吐かれれば、確実に丸焼きだ。どうしよう、どうしようとヒヤヒヤするものの、よく考えれば、こんな道で炎を吐いたなら、竜も自爆だと気付く。
「お馬鹿じゃないなら、ブレスはやめてよ!!」
他の動物ならともかく、何といってもゲームや小説ではラスボスを飾るクラスのモンスターである竜。きっとそれくらいは賢いはずだと、縋るように雪路は祈った。
細い直線一本道だった洞窟はやがて曲がりくねって何度も折れ、最後は三叉路にぶち当たった。雪路は咄嗟に、先が広くなっているらしい左の道へと飛び込む。
そして再び少し走ると、その道は何本も岩の柱が林立する広い空間に辿り着いた。
息が上がっていた雪路は、咄嗟に太い柱の裏に隠れた。
ドシン、ドシン、と、さほど陸上移動が速いわけではないらしい竜が、少し遅れて入ってくる。
上がった息の音が聞こえることさえ怖くて、雪路は必死に息を殺す。
ドシン、ドシン、と、竜が広間の中を歩き回る音がする。
(気付かないで気付かないで、通り過ぎて、ほら、奥に続く道、あっちにあるよ)
祈るように両手を合わせていると、スンスン、と鼻を鳴らす音。
(うそ、もしかして、鼻が利くの?匂いでバレる?)
その可能性に思い至り、雪路はそろそろと合わせていた両手を離す。ゆっくり、再び走り出せる構えを取った。
その間にも、ドシン、ドシン、と、近付いて来る足音。
(だめだ、移動しないと)
キョロキョロと辺りを見回すと、ふと、小さな扉が目に入った。今いる場所からさほど遠くないし、少し開いているので、鍵が掛かっている事もないだろう。
(……よし)
ドキドキと早鐘を打つ心臓の辺りを抑え、ゆっくり、音を立てないように息を吐いた。それから、そぉっと、柱から顔を出して竜の様子を窺う。
思ったより近くにいてビクリとしたが、こちらの方向は向いていない。
(今だ!)
足音を立てないように、しかし最速の動きで、雪路は扉の向こうに飛び込んだ。そして音を立てないようにピタリと扉を閉める。
幸いなことに、外を見る為の覗き穴が付いていたので、そこから竜の様子を見た。
竜は変わらず同じ場所で鼻を鳴らしている。けれどやがて、扉一枚挟んだ事でいくらか匂いが薄くなったのか、困惑したように辺りを見回した。
「これで、少しは時間が稼げる……」
ホッと息を吐き、雪路はチラリと室内を観察する。
部屋の真ん中に事務机が六つ固まっていて、それより豪華そうな大きな机が一つ、奥にある。机上には緑色のゴムで出来たカッターマットや、カチカチ回して日付を変えられるスタンプ、手書きの書類など、文房具が出しっぱなしになっていた。
事務仕事をする部屋のようだけれど、パソコンは見当たらない。岩の壁ではなく、木製の板が貼られてはいるものの、何となくそれも含めて、ドラマで見た木造校舎の職員室のような、そんな一時代前のような雰囲気の部屋だった。
壁にかけられた黒板に、チョークで書かれているのはシフト表のようなものらしい。見たことのない文字のはずなのに、何故か、雪路はそれを読む事が出来た。
「……ここ、どこなんだろう?」
竜がいて、多国籍で古めかしい服装の人々がいて。そして見知らぬ文字が読めるし、更に考えて見れば、雪路はウェンディ達と話す時、はたして何語を使っていたのか。
竜に追われている不安と恐怖で既に一杯一杯なせいか、あまり実感や不安がわかないが、どうやらかなり奇妙な場所に来てしまったらしいとは思う。
「どうしよう……」
外の竜についても、この謎の場所そのものについても。
何かしら情報や解決の糸口が掴めないものかと、雪路は事務机の上に置かれた書類を手に取った。
そういえば、ここは鉱山だとウェンディが言っていたが、書類の内容はまさしく坑道の整備や採掘方法に関するものだった。
特に有益な情報は無さそうだと諦めかけた時、ふと、目に飛び込んで来る一文。
「〝爆破魔法陣による坑道の新設〟?」
書類には、何やら複雑な図形を組み合わせた魔法陣が資料として添えられていた。
「〝発動しないようにサンプルには斜線を引いておくこと〟」
その通り、添付資料の魔法陣には斜線が引かれ、『見本』とダメ押しのように赤文字が上書きされている。
「〝既に添付の地図に記した位置にメルヴィン様が設置済〟」
雪路はドキドキと再び、今度は興奮と緊張で早くなり始めた鼓動を感じる。少し慌てて机の上から地図を見つけ出し、文書の続きを読んだ。
「〝爆破魔法陣の上に発動魔法陣を設置後、約二分で爆破開始〟」
地図を持ち上げると、その下には『発動魔法陣』と書かれた紙が三枚、置かれていた。
「……坑道新設の為の爆破魔法陣……、ダイナマイトの魔法版みたいな物ってことかな……?」
ポツリと呟いた雪路は、再びドアの方を向いた。
ドシン、ドシンと、先程よりも竜は活発に動いて雪路を探しているらしい。
ずっと、ここにはいられない。
(……竜がいるなら、魔法があったって、全然不思議じゃないよね……)
地図と魔法陣を再び見詰め、雪路は、こくりと唾を飲んだ。
「……やるしかない」