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昇降口から外へ出た時、雨の匂いがした。
咄嗟に空を見上げると、ひゅおぅ、と風が吹いて頬に突き刺さる。地面に落ちた鮮やかな金の銀杏の葉を巻き上げる風の向こう、空は重たい鈍色をしていた。
「雨、降るかな……」
何となく呟いた時、キィと、甲高い音が背後から聞こえる。
「雪ちゃん、バイバーイ!また来週ー!」
同じクラスの友人の声。振り向くまでもなく、自転車に乗った彼女の姿は瞬く間にこちらを追い越し、片手をヒラヒラ振る後姿は正門を出て行った。
「またねー!」
完全に一拍以上出遅れてから声を返して、花都 雪路は無意味に手を振った。
それから、思い出したように早足に歩き出す。
受験も差し迫ったこの時期、明日からは連休だというのに楽しい予定はない。せめて可愛い雑貨屋にでも寄り道して帰ろうかと思っていたけれど、この天気では真っ直ぐに帰る方が賢明だろう。
(折り畳み傘持ってくれば良かったな)
マフラーを巻き直しながら後悔し、正門を出て駅の方を目指す。
周りにはまばらに同級生の姿がある他、通行人はなかった。冬の、しかも雨が振りそうな夕方に、わざわざ外出する人は多くないのだろう。
(土日、何しようかな)
受験勉強しろと教師達は言うが、休みは休む為にあるのだ。何時間かは机に向かうにしても、それ以外の時間は好きな事をして休むに限る。
(せめてコンビニくらいは寄ってもいいかな)
思考の末、とりあず今夜はスマホ片手にコンビニデザートでも食べてゴロゴロしようと決め、雪路は足を向ける方向を変えた。駅の方にもコンビニはあるが、頭に浮かんだデザートのあるコンビニは、この先の角を曲がったところにしかない。
そうして駅への最短ルートから一本道を外れてしまえば、そこは今度こそ閑散としていた。帰路を急ぐ学生の姿もなく、地方都市らしい背の低いアパートやコーポ、建売住宅が並んだ住宅街は、ひたすらシンと静寂に包まれている。
薄暗くなってきた辺りの景色の中、先の方に見える角の手前でボンヤリ光っているコンビニの看板。
鞄を肩に掛け直して、灯を目指して歩き出す。
みゃぁ、と、その時、声が聞こえた。
「猫?」
振り向くと、家と家の間、細い隙間に猫がいた。真っ黒くて、毛足の長い、黄色の目をした猫だった。
「おー、かわいい。おいで、おいで」
思わず足を止めてしゃがみ込み、ちょいちょいと手招きしてみる。写真を撮れないかな、あわよくば触れないかな、と、鞄からスマホを片手で取り出しながら様子を伺っていると、猫はジッと雪路を見詰めた。
逃げる様子はないけれど、寄ってくる様子もない。
見詰め返す雪路の顔が、真ん丸な猫の目に映り込んでいる。ストンと肩下まで伸びた黒髪と、焦茶のマフラー、モスグリーンのダッフルコート姿の、見慣れた自分。
「ねぇ、ちょっと撫でても良い?」
逃げそうでは無かったので、雪路は慎重に猫に近付いた。
「君、フワフワしてそうだねぇ。毛並みも良いし、飼い猫?」
手の届く距離まで来て、戸建て住宅の壁と壁の細い隙間にいる猫に手を伸ばす。
日光が当たらないそこはジメジメとしていて、コケや、濃い色の雑草が生えていた。
けれど、そこに座り込んでいる猫の長い毛足には一片の汚れも付いていない。
ぴくり、と、猫に触れる寸前で雪路は無意識に手を止めた。綺麗過ぎるほどに綺麗な猫に、何故か不吉な気配を感じる。
「あの……」
鼻先数センチで手を止めた雪路を、猫は変わらずジッと見上げている。
「……いや、うん、いいや、やっぱり。ごめん」
瞬きすらしない金の目が不意に不気味に思えて、雪路は手を引こうとした。
「君も早く帰った方が良いよ、雨降るから」
言い訳のように猫にそう言って、腰を上げかけた時。
『おいで、お前は選ばれた』
頭上から聞こえた声にハッと顔を上げるより早く、引こうとしていた手が、掴まれる。
真っ白な指、真っ赤に染められた爪。細い女の手が、猫の頭越しに、雪路の手首を掴んでいた。
「え……?」
こんな細い隙間に人間が入れるはずはない。動揺と恐怖でひゅっと息を飲んだ瞬間、猫が大きな鳴き声を上げ、世界がグルリと、文字通り、反転した。
「待って、放してよ!」
百八十度ひっくり返る世界。足元に曇天、頭上にアスファルト。では、果たして自分はどんな体勢で何処に立っているのか、何が起きたか分からない、自分の体の感覚さえ溶けた一瞬。咄嗟に自由な手を振り回すと、それが何か丸くて冷たいものに当たった気がした。
『おや、鏡が』
「え?」
驚いた女の声を最後に、急激に落下する感覚。
そして、雪路の視界はプツンと真っ暗になった。