君の特別
バレンタインの日は、男子は皆どこかそわそわしている。
下駄箱を開けるとき、机に教科書を入れるとき、鞄の中を覗くとき。
ありえない、ありえないと思いながら、しかし心のどこかで期待しているのだ。そこに可愛らしい赤やピンクの小包が入っていないかと。そして休み時間のたびに、気になる女子の動きを目で追っている。
皆平常心を装っているが、俺にはわかる。彼らの期待、そして、期待が砕かれる瞬間が。
だが、俺には毎年チョコをくれる女の子がいる。大切で、大好きな女の子。幼い頃はお母さんと一緒に作っていたチョコレート菓子を。ここ数年は一人で手作りしたお菓子をくれる。毎年、欠かすことなく俺に届けてくれる。
バレンタインは毎年、俺にとって密かな楽しみであった。
二月十四日、登校すると教室には甘い匂いが立ちこめていた。クラスの女子たちが、大量生産してきたチョコやクッキーを交換し合っているのだ。高校受験も目前だというのに、逆に感心してしまう。中には、俺たち男子にも無差別に配る女子もいる。……くれるのはありがたいのだが、このような気持ちのこもってないチョコにお返しを考えるのは少々面倒でもある。
バレンタインは、いつからお菓子交換の日になったのか。いや、毎年、バレンタインに告白された男子の情報は耳に入る。無差別にお菓子を配り歩いている女子も、ひょっとしたら意中の人には特別なチョコを用意しているのかもしれない。そんなことを考えると、彼女たちも可愛く思えてしまう。
「聡磨~! 下駄箱にチョコ入ってた! 本命かな! どうしよう!」
鞄から教科書を出し授業の準備をしていると、小さな赤い箱を握りしめた弘樹が俺の机へ駆け寄ってきた。声量こそ小声だが、興奮を抑えられないといった様子だ。
「は? 下駄箱とか、汚な……」
「言うな! 彼女の清純な気持ちは、俺の靴なんかでは汚れないんだ!」
「だいたい、誰だよ、彼女って」
「あ、誰だろ。……書いてないや。中に書いてあるかな?」
「……ちょ、止めろって!」
俺の机で、おもむろにラッピングを解き始めた弘樹を慌てて止める。
「ばか! もし本当に手紙とか入ってて俺に見られたら、その子が可哀想だろ。それに、このクラスの女子かもしれないんだから」
そっと教室を見渡してみる。こちらを気にしている様子の人は誰もいない。
「確かに……そうだな。一人の時に確かめるよ」
弘樹は素直に頷き、それを鞄の中にしまった。そして、俺の前の席の椅子を借りて座った。
「でも、弘樹なんかを好きになる女子いるんだな。信じらんね」
「うるさいな。彼女だっていたんだからな!」
「フラれただろ。半年前に」
「八ヶ月前です~」
「意味のわからねぇ煽りすんな」
今年の初夏の頃、弘樹は一年半付き合っていた彼女と別れた。一つ歳上の、学校一かわいいと評される女子だった。別れた当時は半べそかいてウジウジしていた彼も、もうふっ切れた様子だ。
「あ、ケーキ焼いてきたからさ、昼休みあげるよ。給食の後、すぐ歯磨くなよ」
男子中学生にしては珍しく、弘樹はお菓子作りの趣味がある。昨年のバレンタインも彼は大きめのタッパーにクッキーを詰めてクラス中に配っていた。女子からの評判も良かった。
「あぁ、今年はケーキか。楽しみにしてるよ」
弘樹の作るお菓子でハズレはない。今日も食べられるのかとわくわくしていると、彼は机に肘をついて身を乗り出してきた。
「ところで、聡磨はどうなの? 何かもらった?」
「さっき服部からもらったよ」
「あ、俺もすれ違いざまにもらったわ。って、そういうんじゃなくて、水谷は?」
「あー、まだ」
ちらりと教室の中央……里沙に視線を移す。彼女もまた、他の女子と同じようにチョコの交換をしていた。
ふと、目が会う。彼女はそのままそらさず、こちらへやってきた。
「水谷、おはよー」
弘樹が先に里沙に挨拶をする。
「おはよう」
「おう」
今日の里沙は、普段はしない編み込みを顔の横に施していた。
「弘樹くん、はい、チョコ」
「おっ、さんきゅー。俺もケーキ作ってきたから、昼休みに食べてよ」
「ホント? やったー! 弘樹くんのお菓子、美味しいから大好き!」
本当に嬉しそうにはしゃぐ里沙に、相手が弘樹とわかっていてもムッとしてしまう。
俺は彼女に手の平を差し出した。
「里沙、俺には?」
「ごめん、聡磨。聡磨に渡すつもりだったやつ、さっき部室に忘れてきちゃったんだよね。後で渡すよ」
「……そう」
「えー、聡磨のは俺や皆にあげてるのと違うの? 特別なやつなの?」
弘樹がニヤニヤしながら囃し立てる。里沙は少し動揺したように頬を染めた。
「別に……いいじゃん。ちょっと量が多いだけだし」
「失敗作の寄せ集めだろ」
「うっ、さすが聡磨、鋭い」
里沙は半歩後退り、うろたえる演技をする。弘樹は「なるほど、そういう特別か」と納得したように頷いていた。
ホームルーム五分前の予鈴がなる。
「じゃ、また後で。……聡磨、今年は本命チョコもらえるといいね」
里沙はイタズラっぽく笑って、くるりと背を向けた。
去っていく里沙と俺を交互に見比べた弘樹は、黙って俺の肩に手を乗せた。俺も黙ってその手を払いのける。
「健闘を祈る、聡磨」
弘樹はそれだけ言うと、自分の席に戻っていった。俺は小さく舌打ちをした。
俺には毎年バレンタインにチョコをくれる女の子がいる。大切で、大好きな女の子。毎年手作りのチョコを、他の人にあげるものとは違う包みで渡してくれる。そう、『特別』なチョコレートをくれる女の子。
しかしそれは、『特別』であっても『本命』ではない。彼女の想いの人は、いつの頃も他にいた。
隣の家に住む里沙とは、赤ちゃんの頃からの付き合いで、親同士も仲が良い絵に描いたような幼馴染みだ。
彼女を好きになった瞬間など、覚えていない。ただ、保育園で結婚の約束をして、それ以来、ひたすらに彼女だけを見てきた。他の女子に気持ちが揺らいだことなど一度もない。
それなのに、それなのに……。
里沙は、恋心を俺に向けてくれない。里沙のことを、誰よりも良く知っているのは俺なのに。里沙が今日、なぜ編み込みをしているのか、なぜ部室にチョコを忘れてきたのか、俺は知っている。後輩にチョコを配るため、朝練にでも顔を出してきたのだろう。そして、俺のチョコが入った袋を忘れてきたのだ。忘れてきた袋には俺へのチョコの他にもう一つあり、それを誰に渡そうとしているのかも知っているよ。そして、それこそが『本命』チョコであることも……。
放課後、自習室での勉強を終わらせ、生徒玄関に向かう。一階に降りると、体育館への渡り廊下と教室棟の境目付近に、里沙が立っているのを見つけた。コートを着てマフラーを巻き、鞄も持っている。
「里沙、何してんの?」
声をかければ、彼女はビクッと肩を跳ね上げた。
「あ、聡磨、お疲れ。勉強でもしてたの?」
「あぁ、もう帰るとこ。里沙は?」
「あたしは、ちょっと用事があって」
里沙はぎこちなく笑顔を作りながら答えた。なんとなく、察しはついた。俺は一人でさっさと帰ろうと思い、彼女に背を向けた。
「そうか。じゃあな」
「待って、聡磨」
振り返ると、里沙は鞄から何かを取り出そうとしているようだった。
「チョコ、まだ渡してなかったから」
そういえば、そうだった。大切な今日の使命を忘れるところだった。失敗作でも義理でもいい。里沙がくれるなら、それでいい。
「あったあった」
里沙が目的の物を取り出したところで、
「おーい、下校時刻もうすぐだぞ。早く帰れー」
と里沙の背後から声がかけられる。
里沙はハッとして、取り出したチョコを慌てて鞄に戻した。そして声の主の方へ駆け寄った。
「先生! これどうぞ!」
出たな、下田。
そこにいたのは、去年の俺たちの担任で、今年は国語を教えてくれていた下田先生だった。そして、里沙の片想いの相手である。
里沙からチョコを差し出された先生は、里沙の肩越しに俺を見やった。おそらく、俺は彼を睨み付けていただろう。
先生は気まずげに頭を掻いた。
「あー、里沙、悪いな、邪魔しちゃったか?」
「え、全然、邪魔なんてしてないよ」
「そうか? でも……」
先生はもう一度俺に視線を移した。
「里沙、誤解されないようにやれよ」
先生はニヤリと笑うと、里沙の頭にポンと手を乗せた。
カッと、怒りで頬が熱くなる。里沙に触れるな。
「違います! あたしたち、そういうのじゃないし!」
「わかったわかった。でも、ごめんな。職員会議で、生徒からのチョコはもらっちゃいけないことになったんだ」
「……えっ、そうなん、ですか?」
「だからごめん。気持ちだけもらっておくよ、ありがとう」
「……」
里沙は今、どんな表情をしているのだろう。何を思っているのだろう。
「あ、あの! 先生、あたし……」
「いたいた、下田せんせーい! 早く手伝ってくださいよー!」
里沙が何か言いかけたところで、遠くから女性教師が下田先生を読んだ。
「はーい! ……里沙、悪いな、話あるならまた今度でいいか?」
「……はい、さよーなら」
里沙は、言いかけた言葉を飲み込んだ。二度と、吐き出すことはあるまい。
「さよなら。聡磨もな。二人とも、受験勉強頑張れよ」
先生は駆け足で体育館の方へ去っていく。その背中を最後まで睨み付けてやった。
ふいに里沙は体の向きを変え、足早に生徒玄関へ歩いていった。慌てて彼女の後を追う。
「おい、里沙」
「何よ、ついて来ないでよ!」
「俺、チョコもらってないんだけど」
里沙は足を止めると、鞄から小さな紙袋を取り出した。さっき先生に渡し損ねたものとは、同じ紙袋だが違う色のシールが貼ってある。
「ん」
不機嫌そうな顔で片手でチョコを突きつけてくる。少したじろぎながら、「ありがとう」と受けとる。彼女のもう片方の手には、先生へのチョコが握られたままだった。
「……それ、どうすんの?」
指差して尋ねれば、彼女は顔を赤らめた。一部始終を俺に見られた羞恥、チョコを受け取ってもらえなかった悔しさ、先生に相手にされなかった屈辱、物事が思い通りにならないことへの怒り。いろいろな感情が混ざり合っているであろう。
「あんたに関係ないでしょ!」
赤い顔で、噛みつくように叫ぶ里沙。里沙のことを温厚な性格だと思っているクラスメートは多いだろう。しかし、彼女は俺にだけ感情的にぶつかってくることがある。そう、俺にだけ。
「ざまあみろって思ってんでしょ! 聡磨には『本命貰えるといいね』なんて偉そうなこと言って、あたしはチョコを渡すことすらまともにできない女だよ! ……バカにしたいならしてよ。いつもみたいに、からかえばいいじゃん」
里沙の声は、震えていた。
「それから!」
言葉を切ると、里沙は上目遣いに俺を睨み上げた。
「失敗作の寄せ集めなんかじゃないから」
プイッと再び背を向け歩き出した彼女は、廊下のゴミ箱に手に持ったチョコを叩きつけるように投げ入れた。
「里沙! 何やってんだよもったいねぇ」
ゴミ箱に駆け寄り、里沙が捨てたチョコを拾い上げようと手を伸ばしたところで、ふと思いとどまる。
拾って、どうするんだ。俺が食べるのか? あの先生に向けられた気持ちのこもったチョコを。
伸ばした手を引っ込める。拾わなくていいや。里沙が勝手に捨てたんだ。後悔するなら、勝手にしろ。
このチョコと一緒に、先生への想いもゴミのように捨てられちまえばいいんだ。
外は雨が降っていた。
傘を差して歩く里沙の後ろを、数メートル離れてついていく。ストーキングしてるわけじゃない。家が隣なんだから、しかたないだろ。
里沙は今夜、今日伝えられなかった想いに、捨ててしまったチョコに、涙を流すのだろうか。その時、俺は隣で慰めることができない。彼女を抱きしめることが、俺にはできない。
それで、いいのか?
俺は、里沙が悲しむところなんて見たくないんだ。
俺は、里沙を抱きしめたいんだ。俺といることで、里沙に幸せになってもらいたいんだ。
「里沙」
前を歩く彼女の名前を呼ぶ。
「……なに」
彼女は振り返らず返事をした。
「そのまま、歩きながら聞いて。……聞くだけで、いいから」
里沙はほんの少し、歩くペースを落とした。
「正直、ざまあみろって思ったよ。里沙が下田のこと好きなの、前から気づいてたし、気に食わないと感じてた。チョコ、受け取ってもらえなくてホッとしたし、里沙が言いかけた言葉も聞かれなくて良かったと思ってる」
赤信号で、里沙が立ち止まる。俺は彼女の横には並ばず、後ろに立った。
里沙にバレないように、こっそり深呼吸をする。そして、もう一度息を吸い込み、吐きだすように言葉を放つ。
「俺は、里沙が好きだよ」
里沙の、傘が揺れた。後ろを振り向きかけた彼女は、しかしハッとしたように前を向いた。
「ずっと前から、里沙だけが好きだった。保育園で結婚しようって約束したこと、今でも本気で思ってるから。絶対、忘れないから」
信号が青に変わる。里沙は若干ぎこちない足取りで歩き始めた。
「毎年、バレンタインに里沙がチョコくれるの嬉しかったよ。いつも、みんなに配るのとはラッピングが違ったよな。『本命』じゃないのはわかってた。でも、俺のことを『特別』に思ってくれてるなら、それで満足だった」
歩くペースが少し速くなる。まるで、俺から逃げようとしているみたいだ。
ちゃんと、聞いて。返事なんてしなくていいから。俺の気持ちを、聞いてくれ。
「でも、最近はダメなんだ。それだけじゃ、満足できなくなってきた。里沙のこと、どんどん好きになるし、他に好きな男がいることが、前みたいに我慢できないんだ。『特別』なだけでいることが、辛いんだよ。いい加減、里沙の『一番』になりたいんだ」
里沙の足が止まる。もう俺たちの家の前に着いていた。
里沙が振り返る。日はとっくに落ちて、街灯の下、里沙の顔が赤くなっていることがわかった。照れか、混乱か。
「バカじゃないの? 結婚の約束なんて、そんなの本気でしたわけないじゃん! だいたい、あの頃は結婚の意味も好きが何なのかもわかってなかったし、」
「俺は、当時から里沙が好きだったよ」
「し、知らないよ! あたしは、本気じゃなかったって言ってるの!」
「昔の話はいいんだよ。俺はただ、里沙が好きだと伝えたかっただけだから。それだけ、知っておいて欲しいんだ」
雨足が強くなる。傘に落ちてくる雨粒はバチバチと音を鳴らす。
「なんで、このタイミングなのよ」
雨音がうるさい。里沙の声が掻き消される。
俺は一歩、彼女に近づいた。里沙は少しうつ向いた。
「いくら相手が聡磨だからって、そういうこと言われたらちゃんと考えなきゃいけないのに。……今、頭ぐちゃぐちゃで、まともに考えられないよ」
「次から次から、って来ると休まる時間もないだろうから、悩みの種はまとめて提供してやったんだ。感謝しろ」
「むかつく。ありがたくないし」
唇を尖らせる里沙に我慢できず、編み込みされた髪に触れる。
「これ、きれいにできてるな。かわいいよ」
「かわいいよ」と言った瞬間、弾かれるように里沙は後ろに飛び退いた。
「は、き、気持ち悪! もう帰る!」
「あぁ、またな。おやすみ」
里沙は駆け足で自分の家の玄関まで行き、しかしなかなか家の中に入ろうとしなかった。そして、困ったような顔で振り向く。
「聡磨……あたし、聡磨のことそういう……恋愛対象として考えたこと、なかったよ。だけど、聡磨の気持ち、嬉しくないわけじゃないから。だから、聡磨のこともちゃんと考える。……でも、期待はしないで」
「……あぁ、わかった」
俺が頷くと、里沙はホッとしたように顔を綻ばせた。胸がツキンと刺されたように痛む。
「でもまぁ、そんなこと考えるより、受験勉強に集中しろよ」
「誰のせいで集中できないと思ってんのよ」
「さぁ、下田?」
「ばーか! それに、あたしは今更勉強頑張らなくたって余裕なんです!」
里沙はべーっと舌を出し、そしてふふっと笑った。
「じゃあね。また明日」
里沙は俺に軽く手を振って、家の中に入っていった。
閉じられた玄関の扉を見つめ、俺は傘の柄をきつく握り締めた。
その日の夜、俺は一人で里沙がくれたチョコを食べた。毎年貰っていたチョコの中で、それは一番苦かった。
雨はまだ降り続いていて、バラバラと屋根を鳴らしていた。