ブレインチャンプルー
噛む音は来る。
ぐちゃ、むちゃ。にちゃ、ぴちゃ。ごり、がり。もぐ、まぐ。
正君は小学生の分際で強迫観念に捉われていた。いつからか覚えてないけど、物を咀嚼する音が苦手になった。昼食にクラス全員で戴きますと唱えた瞬間から、正君の苦悩が始まった。
ぴちゅ、ずちゃ。ねち、もむぐ。ばっり、かつ。ぬめ、りょ、ちう。
縦横無尽の噛む音の洪水に、正君の躯から脂汗が噴き出す。殊に腕白の旗の下その好奇心や膂力を誇示するように、食物をむさぼる右隣の席の偽山君の放つ獰猛な音や、上流の午餐において糖蜜を音も無くすする(しかしそういった場合でさえ気配はするのだ!!)左前の見烏君の気取った酷薄な音や、背虫君の飲み下した後のちょっという舌鼓の音や、鞠岩ちゃんの愛らしい鼻よりそよぎ出でる微風の音でさえ、正君を追いやった。音に迫られ、突き上げられて、徒らに目を瞬かせ唾を飲み込みしている内に、昼食の時間は終わってしまう。そうすると、奴が、担任の白石純が、その名前のとおりの白痴顔でやって来て「こら、また居残りか」と舌なめずりする様な貪婪な視線を正君へ置いて告げるのだった。
第一に腕白坊主の偽山君がきけと笑う。次に見烏君がふふんと侮蔑を込めて見下すと、それを合図に嘲笑の波は教室の端まで行き、また返す波が正君から気力を奪った。活きて行く気力を!!
おずおずと箸を持つ。白飯を持ち上げて口へ入れてみる。「のにも」と音が鳴る。噛めば「のにちゅや」と鳴るので、噛まずに飲み込む。甘酢のかかった肉団子、鞘隠元のソテ、黄色い(吐き気を催すほど黄色い)ふんわりふっくら卵焼き、小鯵の南蛮漬け、だしの染みた焼き豆腐、春雨と胡瓜の和え物……どれも噛まずに飲んだ。
食事が済む頃には涙と鼻雨とで正君の顔面はよごれた。そしてその顔を見て飽きもせず嘲笑が巻き起こる。馬鹿にされるのは嫌だけれど、噛む音の中に箸を上げ下げするのはもっと嫌だ。
「正は馬鹿だから、御飯食べれないんだよなぁ」
「正君は御飯を食べられない程、下品で阿呆なのだね」
「はははは、ちょっ」
みんな勝手な事を言う。そしてよく分からないが、笑う。鞠岩ちゃんも苦笑しているのが正君には判かった。馬鹿だから噛む音がだめなのか、下品で阿呆だからにちゃにちゃを出せないのか。いくら考えても小学生の正君には答えを出せなかった。
次の日、昼食の時間が近づいても正君は上機嫌であった。いつもの暗鬱な表情とは違い、華やかな笑顔で笑っていた。戴きますの鯨波の声。
正君は胸ポケットより耳栓を取り出して、噛む音を遮断した。
べちゃ、くちゃ。もじゃ、なぎゃ。
何たる事か。耳栓を用いた事で、嫌が応にも自身の噛む音(洞穴の反響作用に似ていた)から悩まされ始める。箸を置く、耳栓は外せない。世界には比較にならない程の悪意が満ちている。洞穴の音は暫くして無音に近づいた。其れでもなお咀嚼の呪詛は正君の耳には残っている。いや耳よりもずっと奥のタンパク質の襞の間へ刻まれていた。
でちゃ、ぬる。はも、じゃっく。ぴーとる、がだ。ばい、もっちお。
小袋からメィヲネィズが這い出す、にるにるにる。フォゥクはプチトメトの薄膜を突き破り、内容物が吐出する、その果液が皿の縁へ跳び散り、だらりと垂れ下がった所に肉片がずれて来てトメト液に汚染された。ねぎの貧相な様。煮込みハンバーグは跡を残して皿の外へ外へとにじり寄ってゆく。だし巻き卵の忌むべき色彩はひよこの様に柔らかく見る者の心を刺す。茄子は炒めつけられ乞食の如く涙を流した、南瓜は愚鈍な甘さで人間へ媚びてみせる。ハムやベィコンの縁、豚カツの肉と衣の間、鳥の毛穴、もやしの頭と胴体の継ぎ目、刻まれ擂り潰され、溶かされ胃の腑へ落ちる。
でろっ、しゃく、めっぞ、ずり、たら、の、うぇふ。
一学期は、苦しさも新鮮な分だけ耐えることが出来た。
二学期になって正君はいつも夏休みの事を考えていた。
夏休みは良かった。お爺ちゃんの家での思い出である。
朝食は苦い野菜の沢山入った粥で、昼になると蝉や、くあがた虫を腹いっぱい食べ、昼寝をして、運動がてら山へ西瓜を捕まえに行く。
晩御飯は豆腐だった、霧や霞を道家の秘術で押し固めでもしたように白く清らかな無為の風貌。あまりにも完全に隙だらけの故、対面者に打ち込む気勢を放棄させ得る位。型の無い型、音の無い音。泰然自若と皿の上に鎮座まします御姿を一目見て正君は参ってしまった。そしてまたその四角い善意は正君の毛枯れた胃をきたない腸を洗い清め、ほのかな涼しさを頭蓋の内へと残して過ぎた。
お爺ちゃんの家から帰って、三食すべてが豆腐、夢の中まで豆腐だった。
しかし豆腐との逢瀬を重ねれば、重ねるほど、あの殺伐とした現実が無性に腹立たしく思えてくる。噛む音は生きていくためにはしょうがない事なのだ、更に母の言う通り豆腐だけでなく色々の食物を摂って栄養のバランスを保たねばならない。しかし如何ともし難い屈辱感は何処から来る物だろう?
清君はもみじの色付いたちょうど去年の今頃にベランダから転落して半身不随になった。それで尚も栄養のバランスは必要だろうか。食べて、寝て、出す。健康を強要する理由は何か。栄養と運動によってニコニコするのはコーラの飲み過ぎで笑いが止まらなくなるのと何処が違うか。人だ。途中の人だ。
豆腐だけが「縺れた意図など何処にも無い」と言って呉れる。有り難い声だった。涙がこぼれそうだったけれど、豆腐の前で泣いてしまうのを潔しとしないところに正君の頑なさがあった。そういう時、正君は、豆腐に対して僅かにぶっきらぼうになる。豆腐はぶっきらぼうな正君も嫌いではない。其処に豆腐が在るだけで神の不文律を忘れる事が出来る。しかしまた今そこに居たのにふと目を離した途端、その姿が靄のように掻き消えてしまうのではないかと、馬鹿な考えだが、たまらない。そうなると正君は豆腐の骨が軋むくらい強く豆腐の肩を抱くのであった。そうしておけばよもや居なくなる事もあるまいと思う。痛く苦しい抱擁であったがまたこの上なく甘やかであり、それが証拠に豆腐の頬はほんのりと上気して薄桃色に色付いているのが見て取れた。
もう幾日目であろうか。正君が寝ても覚めても豆腐のことしか考えないので親は相談して豆腐を禁止した。ただし禁止という鞭だけならば、かかる大事には発展しなかっただろう。女親が不注意にも飴を用意してしまったのである。
曰く
「焼肉もおいしいわよ」(薄汚い売女の分際で人前に顔出しやがって)
「キャベツは栄養があるのよ」(悪口が生き甲斐の骨ぎすお喋り女め)
「上カルビ二人前」(吐き気を催す冒涜的な名前だ)
「豚足ひとつ追加」(……)
正君の髪の毛は生きている如く動き出し、顔面は赤褐色の仁王であった。ステンレスの鋏が奔る。間抜けた顔で豚足を取り落とす。鮮血は焼き網へ注ぎ、じゃーじゃー音を立て、そそる濃密な煙が昇る。膝の骨が無くなった、顔は燃え、鼻水はしょっぱい。頭の細胞がサイレンを鳴らす。逃げロ、ニゲロ、トウク、ニゲロ。坂道が続く、吐き気、吐くほど水分が無い。家の玄関の扉の取っ手のまるいこと、まるいこと。右手に鋏があるのに気付いて、放す。助からない。もう駄目だ。冷蔵庫の扉を肩を使って押し開ける。
豆腐。
「やってしまった、もうオシマイダ」
「何があったの」
「駄目だ、オシマイダ」
「落ち着いて、何があったか、ゆっくり話して」
「あ…ぁあ、オシ…マィダ…」
「どうしたの」
「…やってしまった」
「何を?」
「刺した、助からない」
「……刺した?」
「あぁ」
「誰を?」
「ああ母さんを殺してしまった、もうだめだ、オシマイダ」
「……」
「あぁあ、ぁあぁ、あぁ…マイダ」
「なぜ?」
「……」
「なぜそんな事を」
「あなた以外の食物なぞ私には堪えられない、あなたがなくて何の命の胃の喜びか、あなた以外の死は想像できない、あなた以外の生き方を私は知らない、悔い物食いて悔やみ紛らす諦念と言うも愚かなり、世界が我々を喰らおうとするなら私は世界の草一本残さずすっかり喰らうてみせる、かような胸など」
「ちょっと待って、一体なんなの」
「逃げよう、二人で」
「逃げるって、何処へ」
「何処までも!!」
電話が騒がしく鳴る。もう此処まで敵の手が回ったのか。どうする、どうした鯖獲谷正そこまでか。豆腐が知ったら愛想を尽かすぞ。一刻を争う、説明は後だ。急がねば。手に手を取って、一足、二足。歩みかけたその時に、玄関先で人の声。しまった、表は既に捕り手の網だ。裏口…裏口など無い。駄目だ……。
「…どうしたの…」
「……死のう」
「えっ?」
「僕たちは、もうこの世では、幸せに、なれないらしい」
「…」
「二人は最後まで戦った、二人の愛は千代に八千代に、母が娘達に、場末のマダムが常連客に、酔いどれ詩人の涙と共に、語り継がれる事だろう」
放心した顔がゆっくり歪む。豆腐は泣いた。しかしいつ頃からか、こうなる予感はあったのだ。いつか現実と言う巨大な、人の努力や憤りなど、どうにもならない巨大な車輪によって、小鹿が押し潰されてしまう様なそんな予感。理由はわからない、涙が止め処なく溢れてきてどうしていいのか判断が付かない。小鹿になった我とわが身が唯々かなしかった。暫くすると涙の山を越えて、平静過ぎるほど平静な面持になっていた。
初めて豆腐に出会った。吸い込まれそうな美しさだった。
そして正君は己が頭を豆腐のカドへぶつけて絶命した、豆腐は正君のカドへ頭をぶつけて息絶えた。