貴方に編む月の羽根
短編区分にしてありますが、原稿用紙105枚(中編)の作品です。ご容赦くださいませ><
その白い軍服を見た瞬間、リア=スモイエの心臓は止まりそうになった。もちろん実際に止まるわけはないのだが、それほどに驚き、手にしていた籠を取り落としてしまった。草の上に、ふわふわした白い糸の束がこぼれる。
「おっ、お許しください軍人さん!」
洗濯したての灰色の修道服が汚れるのも構わず、リアは必死でひれ伏した。蒼白になった顔も全身も、冷たく感じる。が、リアのそんな極度の恐怖と緊張は、当の軍人自身によって無意味なものとなった。
「……えーと、何を許せばいいのかな? 可愛いシスターさん」
やわらかな声音におそるおそる顔を上げる。と、長身の背をかがめ、首を傾げ気味にした彼がリアを覗き込むようにしている。明るい薄茶色の瞳は驚くほどに優しく、わずかに面白がるように細められていた。
「僕はクロジア王国国境警備隊、第三部隊長のダリオ=コズニク。あちらの聖ラエル修道院を訪ねたら、この丘にいると聞いたものでね。シスター・リアというのは、君で間違いないかい?」
国境警備隊――その響きに、一旦は戻りかけたリアの顔色が更に白くなる。それでもなんとか首を縦に動かし、肯定した。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……神様!)
胸の前で十字を切りたくなった時、隊長という肩書きにしてはまだ若い軍人――ダリオは微笑んだ。白い制帽を取り、軽く会釈をした彼の髪が、早朝の日差しに透けて明るく輝く。瞳と同じ優しい薄茶色だった。
「君の素晴らしいレース編みの技術に敬意を表して――シスター・リア、王都からの勅命を伝えよう。どうか僕と共に来て、王女殿下のために花嫁衣裳を編んでくれないだろうか」
思いがけない言葉に、リアの青い瞳は限界直前まで見開かれたのだった。
ここラヴァル島は、クロジア王国南端に位置する、自然の美しい島だ。春の初めである今は、木々も緑を吹き、色とりどりの花々が可憐に咲き並んでいる。
そんな島の中央、ナイエ山の中腹にひっそりと佇むのが聖ラエル修道院。十八歳になったばかりのリアが暮らす場所だった。
「じゃあね、リア。気をつけて行くのよ」
「たった一人で遠い王都に行かせるのはとても心配だけれど、他でもない王女殿下のご希望なのだから仕方がないわ。元気でお役目を果たしてね」
先ほどの軍人――ダリオに連れられて行くリアに、同年代のシスターたちは優しい言葉をかけた。おどおどと頷き、礼を言うリアを、ダリオは静かに眺めている。
「あ、あの……出発の前に、もう一度だけ院長様にご挨拶をしてもいいでしょうか?」
馬車に乗りかけてから、意を決したようにリアは頼んだ。ダリオは快く頷き、待っていると答えてくれる。
急いで駆け戻り、院長室に入ると、老齢の院長――マザー・サニヤが皺の刻まれた頬に笑みを浮かべた。
「どうしたのです、お忙しい隊長さんをお待たせしてはいけませんよ」
優しく手を握られ、リアは込み上げてくる涙を必死に堪える。
「怖いのです、院長様。私……もしものことがあったら」
「大丈夫ですよ。例えどこにいても、私たちの主が必ず守ってくださいます。あなたの信仰はどこへ行ったのですか?」
いつも共に礼拝をする時と同じように、まさに聖母のごとき微笑でマザーは言う。恐れは消えないが、すっと怯えが静まっていった。
「そうですよね。私を救って下さった院長様が仰るのですもの。きっと、無事に戻ってこられますよね」
自分を励ますように答える。が、サニヤは小さく首を横に振り、慈愛に満ちた眼差しを向けた。
「私ではなく、主が救われたのです。ですからこの旅もきっと、主の御心であるのですよ。あなたの無事を、いつもここで祈っていますからね。リア……私の、愛しい子」
最後だけは、祖母とも慕ったリアの気持ちに応えるように言って、マザーは優しく抱きしめてくれた。黒い修道服の胸に身を寄せ、リアはほっと息を吐く。この抱擁がある限り、自分はきっとやっていける。
その思いを胸に、リアは院長室の扉を閉めた。途端、廊下に戻ってきていた先ほどの若いシスター仲間がリアを見る。たった今、ダリオの前で見せた優しげな態度が嘘のような、険のある目つきだった。
リアはお辞儀だけを返し、急いで外へ出た。途中で聞こえた明らかな嘲笑も、悪意に満ちた囁きも、聞こえないふりをして――。
待っていたダリオに扉を開けられ、リアは馬車に乗り込む。八年を過ごした修道院からの荷物は、膝の上に載せた小さな包みだけだった。今身に着けているのと同じ修道服一式と下着、古びた聖典に、レースを編むためのかぎ針。その包みを大事に抱え、もう片方の手で銀色のロザリオを握っていると、向かいに腰掛けたダリオがふっと笑った。先ほどシスター仲間に餞別代わりに送られたような嘲笑では決してなく、優しい響きだった。
「そう固くならなくても、誰も取って食ったりはしないよ。そんなに軍人が珍しい? 隊長とはいっても、僕はまだ二十五なんだけど。君と七つしか変わらない。いや、七つも、と思われるのかな」
そう言われても、と黙っていたら、覗き込むようにして微笑みかけられる。
「とにかく、少しは打ち解けて、その可愛い顔を僕に向けてくれると嬉しいな。シスター・リア」
リアが思わず目を剥くと、ダリオは首を傾げた。
「どうかしたかい? 可愛いシスターさん」
「そ、そんな風に呼ばないでください」
初めて修道院の外へ出て、異性と二人で王都へ向かう。今までにない事態で、更に今までにない呼び方をされ、リアの怯えは妙な緊張に変わった。おずおずと頼んだのに、彼は不思議そうな表情をする。
「なぜ? 君はシスターだろう?」
「そっちじゃなく、あの、前に付いてる言葉が……その」
ああ、とダリオは笑みを浮かべた。軍服がなかったら、普通の青年にしか見えない笑顔だった。
「だって君は可愛いから。事実を言って悪いかい?」
「かかか、可愛くなんてありませんっ!」
つい大きな声を出してしまって、慌てて俯く。まだ両手に包みとロザリオを握り締めたまま。
「ふうん? 君がそう言うのなら、そういうことにしてあげてもいいけど」
頬に笑みを残して、ダリオはいきなり間近に顔を近づけた。
「ひゃっ、な、な、何ですか!」
「いや、綺麗な青い瞳だなと思って。化粧もしてないのに肌も白いしね。そうか、修道女はあまり外出しないからそれでかな」
後半は一人呟くように言ってから、にっこりと華やかな微笑を見せる。
「リア」
いきなり呼び捨てにされて、心臓が飛び跳ねた。奇妙な緊張が大きくなる。
「お言葉に甘えてそう呼ばせてもらうよ。綺麗な青い瞳の、僕のリア」
「…………!?」
もはや言葉も出てこなかった。全く彼の意図が理解できずに硬直していると、ダリオはリアの手をそっと取って引き寄せた。そして、まるで物語の騎士が姫君にするかのように、甲に唇を落としたのだ。
「君にはこれから、故郷から連れてきた『僕の恋人』になってもらう。休暇を一緒に過ごす、という設定でね。ああ、言っておくけど、清らかな君に何かやましいことをするつもりも予定もないから、その点については安心してくれたまえ」
いや、今既に『やましいこと』に当たる行為をされたような気がしたのだが、彼にはそんなつもりはなかったらしい。あくまでも涼しげに、清廉とした態度で続けたのだ。
「申し訳ないが、これも任務の遂行のためでね。理解してくれるだろう? 何せ、聖典にもちゃんと出ているくらいだ。『世の権威に従うように』と。権威も位も、神その人がお与えになったものなのだから」
ねえ、リア。そう耳元で囁かれ、限界ぎりぎりだったリアの思考は途切れた。途切れるしかなかったのだ。そこまで聞いたところで、あまりのことに意識を失ってしまったのだから。
――リア、リア、しっかりなさい。眠ってはだめ、生きることをあきらめてはいけないの。あなただけは、必ず生き延びてちょうだい。愛しい私の子、リア――
何度もそう呼びかけ、冷たい体で自分を岸に押し上げた母。そして、父と弟。大好きだった家族を一度に失った夜の悪夢を、リアは見ていた。
思い出すだけで胸が痛む。心が凍る。体までも冷たくなるほど、暗く苦しい過去。死を覚悟する状況で、リアは一人生き延びた。助けてくれた、誰かがいたからだ。そのひとの面影を、いつもリアは追おうとする。なのにいくら目を凝らしても見えない。ぼんやりとしか形作れない。
苦しくて疲れて、行き倒れていた自分を見つけてくれた人。あの、優しい命の恩人の顔なら、いつでも瞼の裏に浮かぶのに。
「マザー……」
温かな手の感触に、目を開けた。けれどその手はいつもの年老いたものではなく、見つめ返す瞳も顔も、別人のものだった。 はっとして引こうとした手を、彼――ダリオはそっと握って引き止めた。
「随分と驚かせてしまったみたいで、悪かったね。職業柄、あまりご婦人方との接し方には明るくないものだから」
とてもそうは見えないぐらいに、端正な風貌に余裕を残した微笑みを向けられる。さりげなく見渡して、自分がどこかの宿屋の小さな部屋らしき場所にいることがわかった。簡素な寝台に横たわっていた体を、リアはあわてて起こした。
「あ、あの、手を……」
「うん?」
「手を、離していただけませんか」
勇気を出して頼むと、彼は「失礼」と笑った。初対面では恐ろしく感じた白い軍服が、彼がまとっていることによってとても爽やかな好ましいものに見えてくる。それほどに上品で、洗練された振る舞いだった。 リアが少し落ち着いたところで、ダリオは先ほどの発言の意味を説明してくれた。
「王都に向かう間の、お芝居?」
「そうだよ。先ほど言った通り、君には王女殿下の花嫁衣裳を編んでもらうという大切な役目がある。美しいものを心から愛される殿下は国王陛下の一人娘、掌中の珠だ。まさに目に入れても痛くないほどのご寵愛ぶりでね。だからこそ陛下も、わざわざ修道女の君を王都に呼び寄せる、などという前代未聞の話を許可されたわけだ」
「はあ……」
確かに、修道女が修道院から出ることはほとんどないと言っていい。食料も敷地内で栽培してできるだけ補っているし、それ以外の最低限の買い物などは馴染みの使いに頼んでいる。後は、ひたすらに祈りと自己修練に明け暮れる日々だ。幾月かに一度麓の村に奉仕に行ったりするくらいが、数少ない外界との接触の機会なのだから。それに、そもそも聖ラエル修道院で編まれるレースは全て、神への捧げ物だった。
だが、他でもない王からの勅命とあれば、話は変わる。
「でも、どうしてうちのレースなのです? この広いクロジア国ならば、いくらでも他に素晴らしいレースを編まれる方がいるのでは」
「確かにいるだろうね。でも、君が編むレースほど美しく神秘的なものはない――と、王女殿下は仰っておられる」
「あの……なぜ私が編んだものだとおわかりになるのでしょう?」
出発前、院長室でダリオに詳しい説明を受けた時、確かに彼は『王女殿下がこちらのレースを気に入られた』と言っていた。でも王都に向かう人材として自分を推薦したのはマザーだとも聞いた。だから、まさか自分が編んだものと限定されているとは思わなかったのだ。
「麓の村の祝祭の時、君たちが編んだレースが売られていただろう? それを買った商人が王都に持ち込んで、人の噂を呼び、ついには殿下の手に渡った。中でも気に入られたのは、輝く月とその光を表現したという丸いデザインのレースだった。そう言ったら、院長が君の編んだものだと教えてくださったんだよ」
微笑むダリオの言葉で、リアは感激に震えた。
(ああ……本当に、王女様が私のレースを気に入って下さったなんて!)
今までの八年、ただ神への祈りを込め、編み続けてきた自分のレース。最近でこそ、村で売るための作品を別に作るようになった。それでも、出来上がった作品はある意味全て、リアのこれまでの苦しみを体現したものでもあった。そう思い起こすと、湧き上がりかけた歓喜は見る間に萎んだ。
『どこの馬の骨ともわからない孤児のくせに、調子に乗るんじゃないわよ』
『ちょっとうまく編めるからって、あんたがあたしたちより上だってことにはならないんだからね』
毎日浴びせられてきた嘲笑が蘇り、唇を噛み締める。そんなリアを黙って見つめていたダリオは、そっと言葉を続けた。
「あれほどに緻密で芸術的で、まるで蜘蛛が張った銀の巣のように儚げに輝いているレースは初めてご覧になった、と感激しておられたよ」
「……あなたが、殿下から聞かれたのですか?」
やっと顔を上げると、ダリオが苦笑する。
「いいや、そう伝え聞いた、ということさ。国境警備隊としていつも辺境にいる僕に、そんな恐れ多い機会なんてないよ」
リアにとって軍服を着た人は全員同じ軍人で、王都にいる人とどう違うのかいまいちぴんと来ない。表情でわかったのか、ダリオは笑って言い足した。
「そうだな……君が聖都の法王様と直接会うことがない、みたいな感じだろうね」
「法王様……! そ、それは確かにそうですね」
聖都というのは、この西方大陸で広く信じられているソラノ教のいわば総本山。法王を統治者とする独立区域である。無論、一介の修道女であるリアにとって、地理的にも心理的にも遠い場所だ。青ざめた顔色で納得するリアを、ダリオは可笑しそうに見ている。
「さて、説明が済んだところで準備に入ろうか」
そう言って彼が持ち出したのは、足元に置いてあったらしい箱だった。蓋を開けると、入っていたのは涼しげな水色のドレスと帽子。村娘が着ているものよりも上等で、そう――きっと王都に住んでいるような良家の娘が身に着けそうな仕立てのものだ。ちなみに、揃いの水色の靴もある。
「はい、どうぞ」
「どうぞって……何ですか?」
「面白いこと言うね。何って、もちろん君のためのドレスだよ。この一式全部、今から君のものだ」
「……はい?」
また、彼の言葉の意味がわからない。
途方にくれていたら、困ったような微笑を浮かべたダリオがリアの手から衣服一色を取り上げた。部屋の片隅にかけられていた鏡の前へ立ち、おいで、と手招きをする。素直に鏡に向かうと、後ろから手を回したダリオは、そのドレスをリアに合わせて見せたのだ。
少し曇った鏡に、目を見開いた一人の修道女が映っている。裾の長い灰色の修道服に、白の頭巾。顔だけが見えるよう巻かれたそこに、更に覆いかぶさる黒いベール。終身誓願を済ませた者が着る黒でなく、灰色の修道服は初誓願だけを終えた若い修道女のものと決まっている。ともかく、神にその身を捧げた存在であることをはっきりと示す服装だ。その上に合わせられた、美しいドレス。
「もしかして、これを私に着ろと仰っているのですか!?」
指し示すと、彼は当然とばかりに頷いた。
「いっ、いけません! そんな、だめです! 私は神に『清貧・貞潔・服従』の誓願を立てた身……その私がこんな格好をすることなど、許されるはずがありません!」
「うん、確かに君が戸惑う気持ちも十分に理解するよ。世俗を離れ、清く生きるシスターにドレスを着せ、あまつさえ髪を美しく結い、化粧までしようなんて、一見すれば許されざる振る舞いだろう」
その通りだ、とリアは首がもげそうなほどに何度も頷く。が、ダリオの微笑からは余裕が失われなかった。「でもね」とあくまでも爽やかに言葉は続く。
「修道女の格好のまま旅をしていて人目に付き、それが万が一でも我らが王女殿下――ひいては国王陛下の命だとわかり、聖都の法王様のお耳に入るようなことになったら……わかるだろう?」
純然たる教えを守り通す聖都。そのまさに最高指導者であられる法王様ならば、修道の身に不謹慎な行いをさせたと国王陛下に苦言を呈される可能性もなきにしもあらず。小声で説明をされ、リアの勢いは削がれる。
「国王陛下と君自身を守るためにも、僕と君は誰にも怪しまれず旅をする必要がある。それには恋人のふりをするのが一番いい、と言うわけ」
「だ、だからって『恋人』だなんて……『妹』ではだめなのですか?」
「僕には妹はいないからね。万が一調べられた時に困るだろう?」
う、とリアは言葉に詰まった。
事情はわかる。理解できるものの、すぐ従う気持ちにはなれなかった。
「でもやはりこんな格好は……『編んだ髪や金の飾りではなく、清い心をあなたの飾りとしなさい』と神は仰っていますし」
彼に対抗するわけではないが、聖典からそう引用する。しかし、ダリオは平然と微笑んだ。
「そうか、では髪を編むのはやめておこう。大丈夫、アクセサリーは着けなくてもいいから」
「そ……そういうことではなく、私はそのような着飾った格好など――!」
「おや、ぼろをまとっていても、高価な衣服を着ていようとも、神は人を見た目で区別なさるお方ではないはずだよ? 君自身がその外見でなく、心自体を飾りとする気持ちを持ってさえいれば、それで神はよしとされるのでは?」
「……でもっ」
「ああ、万が一にでも王都へ――王宮へ行けないなんて事態になったら、王女殿下はさぞ悲しまれることだろうなあ。隣人を愛せよ、いいや、汝の敵までもを愛せよと説かれた神は、その涙にどれほど心を痛められるだろうか。使徒とも言えるシスターの君自ら、誰かを苦しめることが許されていいのだろうか……!」
すう、と息を吸い込んだ後の、流れるようなダリオの弁舌。目を剥いたリアは、何一つ言い返すことができない。
極め付けに、口を開けたまま固まっているリアの手のひらに置かれたもの。それは、先ほど気を失った際に彼が保管していてくれたらしい、大切なロザリオだった。磔になったソラノ神の悲しげな御顔を、意味ありげに目で示すダリオ。まさに、完璧な論法だった。一見優しげに見えるこの軍人が、八年も修道院にこもりきりのリアに太刀打ちできるような相手ではないらしい、ということにようやく気づく。
「わかりました……着ればいいんでしょう。着ますとも! 着ますから、早く出て行ってください!」
完全に敗北だ。そもそも、敗北などという考え自体が自分の未熟さを如実に示していることが、また腹立たしかった。
「仰せのままに――可愛い『僕のリア』」
にっこりと、油断も隙もない艶やかな微笑みと共にお辞儀をし、ダリオは退室する。軍人には見えないくらい、流麗で美しい動作だった。
(落ち着かない……どうしたって落ち着かないわ、こんな格好!)
先ほどの宿屋――麓の村の端に位置していたらしい――を出て馬車で走り、夕刻に到着した港町。島で唯一賑わう通りを歩きながら、リアはまだ内心で叫んでいた。
そう、落ち着くわけがないのだ。だって、この八年――いや、その前の短い人生でさえ、こんなに着飾ったことはなかった。隣を歩くダリオによると、これでも十分地味にしたのだというが、リアにはそう思えない。
まず、髪がさらさらと揺れている。いつも後ろでまとめて頭巾に収めていたから、風になびくだけで妙な感じがする。問答の末、あまりに地味でも娘らしくないから、とドレスと同じ水色のリボンで上の部分だけを結んであった。
次はドレスだ。胸元が開きすぎている。といってもリアにとっての比較対象はきっちりと襟を詰めた修道服であるから、これでも上品なほうだと聞きはした。が、肌が少しでも見えているだけで気が遠くなりそうになるのだ。そして靴。今まで履いていた粗末なものと違い、美しく細い曲線を描く優美なデザイン。とても似合っているとは思えないし、歩きにくく感じる。
しかしなんといってもリアの困惑の最大要因は、先ほどから道行く女性たちの注目を浴び続けているダリオだった。
「うん? どうかしたかな、歩くのが速すぎた?」
「いっ、いいえ」
「じゃあ……もしかして慣れない靴で足でも痛めた?」
「違います」
「あ、そうか。お腹がすいたんだ。少し待ってくれるかな、もうすぐ馴染みの店に着くから」
「そうじゃありません!」
ぶんぶんと首を振った。彼が自分の困惑になどまるで気づいていないことが嫌で。なのに、リアの気持ちとは裏腹に正直な腹部からは、ぐううう、と情けない音が漏れた。出発前に軽食を取っただけだから無理もないとはいえ、羞恥で言葉を失ってしまう。
「恥ずかしがることはないよ。道程を急ぐあまりに気遣えなかった僕が悪い。どんなものが食べたい? ああ、魚料理なんてどうかな。きっと君も気に入ると……」
「違うんですってば! あ、えっと、お腹は……正直言って、少しはすいています、けど……そのせいじゃなくて」
頬を染め、最後は消え入るような声で言って、俯く。今すぐにベールを被って隠してしまいたいのに、優しい風がまたしてもリアのまっすぐな髪をなびかせていく。
「ごめんね、嫌な思いをさせて」
静かに言われ、思わず顔を上げる。気づいてくれていたのだ、と視線に込めていた棘を和らげる。刹那、鼓動が速くなった。ダリオが、風に揺れるリアの髪に触れ、そっと指で梳いたのだ。
淡い金色の長い髪が、彼の指の辿る流れのまま波打つ。
「綺麗な髪だ」
言葉は更にリアの心臓を刺激し、動悸を生んだ。ダリオにとっては何気ない褒め言葉だったのだろう。その証拠に、彼はすぐに手を引いたから。ほっとしかけ、毛先に軽く口づけられたことでまた目を剥いた。リア自身の動揺は別にしても、その仕草は今まで遠慮がちによこされていた女性たちの視線を堂々と釘付けにするものだった。
その凄まじいまでの強い視線に、リアの動揺も動悸も引っ込んでしまい、別の記憶が蘇ってくる。が、他ならぬダリオの言葉が記憶の傷を優しく撫でたのだ。
「澄んだ青い瞳も、日に透ける淡い金髪も、どちらも君によく似合う。神は君という人にふさわしい清らかな美を、祝福として与えてくださったんだね」
「祝、福……?」
「そうだよ。ほんの少しの間でも、その祝福に預からせてもらえる我が身の幸福を、僕は心から感謝している」
「幸福、って」
「君という可愛いひとの隣にいられる幸福さ。青い瞳の、僕のリア」
さあ、お手をどうぞお姫様。そう差し伸べられた、ダリオの大きな手。
「……そんな風に呼ばないでくださいって、言ってるのに……」
言葉は、最後の抵抗にもならなかった。ただ肩をすくめ、待っている余裕のダリオ。悔しいような、妙な気分でその手を取るしかなかった。
こうしてリアは、好奇と羨望の渦巻く視線にさらされながら、やけに気取ってやけに優しい、そしてやけに美しい軍人の王子様にエスコートされることになってしまったのだった。
『青い目なんて薄気味悪い。あっち行ってよ!』
『なあにその髪の色、変なの! マザー! リアがまた髪を編んでおしゃれしてまーす!』
そんな風にからかわれたり妙な言いがかりをつけられたりするたびに、リアはマザーの後ろに隠れたものだった。
クロジアやその周辺国で、金髪と青い瞳は多くはなくても存在する組み合わせなのだと、後で知った。それなのに、島の狭い村だけでなく、本土から来た良家の令嬢たち――みんな、行儀見習いのために数年滞在するだけの見習いシスターだった――までもリアを苛めた。
髪色をからかわれないように編みこんでいるのに、目立つまいとしたことが逆に反感を買う。それならばと垂らしていると髪を引っ張られ、足を出されて転んだ。
結局は何をしていても、彼女らと違う孤児である自分はからかいの対象であり、楽しみの少ない修道院での暇つぶしのように扱われていたのだろう。そうわかる年頃になるにつれ、何をされてもひたすら耐えて、ただマザーに教わるレース編みにのみ夢中になった。そして自分が編むものがどうやら他の誰よりも出来が良いらしい、ということは、彼女たち自身が認めざるを得ないほど差が付いてしまった。
それでも決して自慢せず、口数少なにレース編みと自己修練に没頭するリアを、彼女たちは表立ってからかわなくなった。代わりに、陰口と嘲笑がリアをいつも取り巻いていた。
そんな日々を何年も過ごすうち、リアは自分の目と髪色を指摘されることを恐れていったのだ。だから、ダリオの手放しの賛辞に驚愕した。とても信じられなかった。
「食事はどうだった? 喜んでもらえたかい?」
ぼんやりと目で追っていた白い軍服の背中が、リアに振り向いた。咄嗟に目を伏せてしまいながら、頷く。もちろん、ダリオはリアの反応になどお構いなしだ。よかった、と心底嬉しそうな微笑みを浮かべられてしまい、顔を上げられなくなる。
(な、何でこんなに心臓がどきどきするの? 神様、私の体はどこかおかしくなってしまったのでしょうか)
無意識にロザリオを握り締めようとして、修道服でもなく、いつものように持ち歩いていないことを思い出した。動揺でめまいまでしてきた時、二人のテーブルに新たな皿が置かれた。見ると、店主らしい中年の男性が笑っている。
「ダリオの故郷の恋人なんだって? いや~びっくりしたなこりゃあ。店中の女をかっさらうぐらいの人気もんがいつまでも身を固めずにいると思ったら、こーんなに可愛い子を隠してたとは。そりゃ誰にもなびかねえよなあ」
「え、あ、う」
単語さえ口にできないでいたら、ダリオが自然な動作でリアの肩に手を回した。それだけで卒倒しそうになっているリアに気づいているのかいないのか、いつもの完璧な笑顔を浮かべて。
「そうなんですよ。可愛すぎて、誰にも見せずに閉じ込めておきたいくらいで」
「お、何気に怖いこと言うねえこいつ」
「冗談ですよ。それぐらい大事にしているという意味です」
ねえ、リア――そう囁くようにして、またも髪を撫でられる。頭に血が上って、リアは倒れる寸前だ。
「まあ長かった戦争の爪痕も今じゃほとんどなくなったくらいの復興ぶりだし、軍人が恋人と過ごせるくらいに平和な時代が来たってことだあな。有難いもんだ」
「ええ。おかげさまで、僕らも生きた心地がするというわけです」
「おお、そうか。お前さんも戦争経験者だったな。まだ新兵の頃だっけ? あの、セレス島の決戦があったのは」
笑みを収め、ダリオが頷く。そのまま話を続ける二人は気づかなかっただろう。膝の上に置かれたリアの手が、かすかに震え始めたことに。
クロジア王国と海を挟んで向かい合っていた大国、ルロア。その双方が最後に決戦をしたのが、両国間に位置する小さな島セレスだった。ルロアの敗北・属国化により、かの国からクロジアに島の支配権は移った。といっても、島は未だ軍部の統制下に置かれ、誰にも近づけない状態だ。
「島民は全滅だっけか? まあ、のどかな島にゃあ気の毒ではあったが、おかげで大陸の平和は戻ったんだからなあ……」
まだ続いている店主の声を遮るように、リアは椅子から立ち上がった。真っ青になっていることは、自分でもわかっていた。
よろめきながら必死で化粧室に駆け込み、座り込む。頭が割れるように痛み、胃は絞られたようで、立っていられなかった。
思い出す――蘇る。暗く重い記憶の奥底から、封じたはずの闇があふれ出す。凄まじい砲撃の音が、煙が、地響きが、今まさに脳裏で再現されようとしている。
「うっ……」
込み上げてきたものを堪えきれず、洗面台に突っ伏すが、苦しい息しか出てくるものはなかった。涙が、つうと零れていく。
「リア……リア!」
呼んでいる声がダリオのものだと気づいたのはどれくらい経ってからだったのか。なんとか扉を開けるなり倒れこんだリアを、逞しい腕がしっかり受け止めて――そして、気づかれた。見られてしまったのだ。リアの長い金髪が、ほんのりと淡く、銀色に輝き始めていたのを。
「君は……!」
ダリオの瞳が驚愕に見開かれるところを見たのは、初めてだった。
「セレス島の生存者がいたなんて、まるで思いもしなかったな。しかも君は――」
「……『月の羽根』。そう呼ばれていた一族の、最後の生き残りです」
用意してもらった別室。長椅子に腰掛け、うなだれてリアは答えた。今は落ち着いて、髪の輝きは消えている。だが、先ほどのようにひどく取り乱した時や、感情が極限まで高ぶった時、あのように銀に発光してしまうのだと説明した。
元々は美しい銀の髪を持つのが特徴であり、それが名前の由来でもあった『月の羽根』の一族。月の加護を受けているのだとリアは教えられた。だが、輝く髪は不気味だとする人々が現れる。
魔力が宿っていると噂され、妙な魔術を使う一族として迫害されるようになった。ついに大陸から追われ、残ったほんの少数が、昔セレス島に逃げ込んだのだ。
生来穏やかな気質の島民は、一族と触れ合い暮らすうちに、真実をわかってくれた。共存は成功し、束の間の平和は続いた。
あの恐ろしい、決戦があるまでは。
「一族にも純粋な銀髪の者は残り少なくなっていましたが、私は父譲りの髪色だったようです。だから疑われることはなく、修道女の格好で、今までなんとか隠し通してきたんですが……」
それでも、輝く髪は受け継いでいた。ひどく淡い光ではあっても、これこそが『月の羽根』の生き残りの証明だ。元々疎まれていた民である。決戦のどさくさに紛れ、皆殺しの命が下されていたらしい。
だから、見つかることをずっと恐れていた。ダリオが命を奪いに来たのではないとわかり安堵して、あまりに今までと違う時間を過ごすうちに危険を忘れかけていた。
しかし、結局はこうして正体を知られてしまった。
(あれほど怖かった時が――命が終わる時が来たのに、こんなに静かな気持ちでいられるなんて)
いや、違う。怯えて暮らすことに本当はずっと前から疲れていた。恐れる反面、待っていたのかもしれない。先に旅立った家族のもとへ行ける日を。
黙って立っているダリオに青い瞳を向け、リアは微笑んだ。あきらめに満ちた、穏やかな微笑だったかもしれない。
「島の奥の洞窟に隠れていて……砲撃が終わった夜、闇に紛れて逃げました。小舟一艘で、家族で海を渡り、第三国へ行こうと。わずかでも、生き残れる可能性に賭けたのです。でも……」
見張っていた兵にあえなく発見され、舟は沈められた。父と弟は射殺され、リアをかばった母も背中を打たれた。海に落ちたリアたち家族を死んだと見なしたのか、追っ手は来なかった。
「そうだったのか……」
話を聞いたダリオは、長い沈黙の後に静かに言った。深い吐息と共に漏れた呟きは、リアへの言葉というより、独り言のようだった。すぐに気を取り直したらしく、ダリオは続けて訊ねた。
「それで、ラヴァル島に?」
「はい。舟の板切れに捕まって海をどれくらい漂ったのか……気が付いた時には島の近くまで来ていました。瀕死の母に抱えられ、岸に押し上げられたことはぼんやりと覚えています。その後は――」
マザーに助けられ、今に至るのだと、そう続けようとして固まる。
「お願いです、私のことは殺しても、マザーには危害を加えないでください……! あの優しい方がおられなければ、私はとっくに死んでいました。いいえ、私だけじゃない。あの修道院にいる全ての修道女たちは、彼女を母とも祖母とも慕っているのです。だから……っ!」
「自分を嫌い、いじめてきた彼女たちを思いやるのかい? 随分とあからさまに、陰口を叩かれていたようだが」
いつのまに観察していたのか、ダリオは知っていた。それにも増して驚いたのは、ダリオの冷たい瞳だった。今までの優しい態度が嘘のような、無感情の目。
知らず、背筋が凍える。
「……修道女としての立場で言えば、そうです。でも、きっと本心は……」
今はないロザリオを手の中に探す。心の中で握り締める。どれほどに嘘をついても、きっと神は全てご存知だから。
「ただ、私が嫌なのです。きっと耐えられないわ、あの優しいマザーを失うことに」
もう、誰も愛する人を失いたくない。
言い切ると、ダリオの瞳がゆっくりと細められた。氷がわずかに溶けたような、優しいのにどこか切なげな眼差しだった。
「……正直な答えだ。自分の中の真実を認めることは、高位の聖職者にとっても容易ではないのに」
「あ、あの……ダリオ、さん?」
「やっと名前を呼んでくれたね」
既に今まで何度も見せた、いつもの微笑を取り戻している。瞬きだけを返したリアに、彼は続けた。
「君が生存者であることは、この世界で僕と院長様しか知らない。そうだね?」
おずおずと頷く。恐れと不安をいっぱいに湛えたリアの目線に、ダリオは先回りするかのように軽く首を振った。
「僕は確かに軍人だが、あえて血を流すことを好むわけじゃない。信じてもらえるかわからないが、こう見えても一応信心深い家系に育ったものでね」
「それは……なんとなく、わかりました」
聖典の箇所を引用したりするところで、ちゃんと読んでいることもわかったから。
ふっとダリオが笑みを深める。
「聖母と見紛うほどの、あの院長様が秘密をばらすことはまずあり得ない。つまり、この僕さえ黙っていれば君はむざむざ死ぬ必要なんてない、というわけだ」
薄茶色の瞳は、まだ少し感情が読めない。にこやかなだけに余計、言葉の裏がわからなかった。
「言っただろう? 同じ軍人でも王都で働く精鋭と僕のような国境警備隊の人間は、まるで異なる存在だって」
聖都の例え話を思い出し、頷く。ダリオは、白い軍服の肩をすくめた。
「僕にとって大切なのは、任務を果たせるかどうか、ということだ。何と言っても勅命だからね、無事果たせなければどんな目に遭うことか。君が正直に言ったように、僕も自分の首は惜しい」
片手ですっと首を切る仕草をし、舌を出してみせる。そんな仕草は不謹慎かもしれないが、リアに自然な笑いを思い出させた。
「これまで通り、君は聖ラエル修道院のシスター・リア。僕は最後までそう扱うことを誓おう。君の美しいレースを待ちわびておられる、王女殿下のためにもね」
「ダリオさん……!」
両手を合わせ、ただ驚愕の瞳で見上げる。秘密を知られてもなお生き長らえることが可能だなんて、思いもしなかった。
出発から三日が経った。ラヴァル島を出て本土に上陸した後は、馬車と列車を乗り継いでひたすら北西へ進み、王都を目指す。残すところあと二日の道程だと、隣に座ったダリオが教えてくれた。
ガタンガタンと定期的に揺れはするものの、初めての列車の乗り心地は悪くない。むしろ、感動に値した。緑の木々や田園風景が流れて行く光景をリアはただ眺める。
穏やかに見守るダリオはいつものように白い軍服姿で――といっても同じ形のものと小まめに着替えているようだが――リアのほうは、何度目かに買い与えられたピンク色のドレスを着ていた。ふわふわとしたシフォンのリボンが胸元に結ばれたデザインだ。
「あの……」
遠慮がちに呼びかけると、聞こえていないのかダリオは窓の外を見ている。仕方がないので、小さく咳払いをして勇気を出した。
「ダリオさん」
「何だい? リア」
にっこりとすぐさま振り向かれ、聞きたかったことを忘れそうになった。リアの一抹の懸念を、ダリオの微笑みが肯定する。
「恋人同士で、『あの』はないだろう? いいかげん、呼び捨てにしてくれてもいいぐらいだけれどね。いや、それでも味気ないな。やはりここは『私の愛しいダリオ』とか、『恋しい貴方』なんてどうかな」
「こっ、恋し……!? でも私たちはあくまでもお芝居で」
くらくらしながら小声で抗議したリアに、「しっ」とダリオが人差し指を立てる。
「誰かに聞こえたらどうする? 呼称程度で勘弁してあげようと思ったのに、それがだめならもっと甘い言葉を言わせようか」
「なっ……!」
まるで酸欠の魚のように口をぱくぱくさせていたら、ついにダリオが吹き出した。くっく、と肩を揺らせて楽しそうに笑う始末だ。
「冗談だよ。あまり可愛い反応ばかりするものだから、ついからかいたくなる」
「か、からかっていたのですか!?」
「気づいていなかったの?」
「まあ、ひどいです! 本当にあなたという人は――」
赤い顔で抗議しかけたところに、聞こえてきたのは女性同士の囁きの声。長年の習慣でついびくっとしてしまったが、リアを見る目には純粋な羨望だけがあるようだった。後方の座席で、互いを突きあっている。
「見て、あの人本当にかっこいい……!」
「あの軍服、海軍じゃないかしら? エリートよきっと!」
「悔しいけれど、一緒にいる女性も美人よね。あんなに綺麗な青い瞳と、春の日差しみたいな金の髪、うらやましいわ」
ダリオが軽く手を挙げて見せると、学生らしき三人組は赤面し、うっとりとため息をついた。
(綺麗……うらやましい? 私が……?)
ぼうっとしていたリアは、肩を抱かれて悲鳴を上げそうになった。すんでのところで堪えられたのは、ダリオに囁かれたからだ。
「ほら、言っただろう? 君は綺麗なんだって。化粧の必要がないくらいなんだから。修道院で髪や瞳をからかわれたのも、他の子たちが君に嫉妬をしていたからだよ」
だから、自分に自信を持って――ダリオが微笑む。言葉も出てこないほど、それは予想外の解釈だった。
「そんなことわかりません。それよりも、早く手を離してくださ……」
「恋人同士は、仲睦まじくなくては不自然だ。逆に注目を集めても困る。わかるね?」
そんな風に言われては体を動かすことも、文句を言うこともできなくなる。彼の全ての行動原理は、任務の遂行のためだとわかっていたから。
「そんなに固くならないで。それとも、僕とこうするのがそんなに嫌? 傷つくな」
「そ、そういうわけではありません!」
思いのほか寂しげな顔をするから、あわてて否定して――それからまた耳まで赤くなった。
「ちっ、ちがっ……私はあの、ただ!」
「わかっているよ。あんまり君を苛めていたら神様に怒られてしまうから、これで譲歩してあげよう。清らかな僕のリア」
肩を抱いていた腕が離れ、ほっとしたのも束の間、今度は膝の上の手をそっと握られた。
泣きそうになったリアを間近で見つめて、ダリオは再び吹き出したのだ。ついに声を立てて軽やかに笑う彼を見ているうちに、一人だけ緊張している自分が腹立たしくなった。
「もう知りませんっ!」
「わかったわかった。からかうのはやめるから、こっちを向いてくれ。手も触れてはいけない、顔も見せてはくれないのではあまりに辛い道程だ。だから、話をしよう」
まだ頬を膨らませつつも、ゆっくりと視線を戻す。ダリオは、満足げに頷いた。
「……そういえばさっきあの子たちが、その制服を『海軍』って言ってましたけど」 優しい眼差しになんとなく落ち着かず、思い出したことを聞いてみる。国境警備隊というのは、海軍に所属するのかと。
「きっとあの子たちは海辺の街出身なのだろうね。軍人と言えば海軍だと思っているんだろう。といってもクロジアの軍服は皆白だから、間違えるのも無理はない」
「そうなんですか?」
微笑んだダリオが手で示したのは、自分の腕章。
「これが濃紺だと海軍、緑は陸軍。その中でも王宮付きの場合は赤、我々国境警備隊は水色、などと区別されている」
「私たち修道女の衣服の色が違うみたいなものかしら。では、この胸のメダルは?」
「これは勲章。まあ、軍人がもらう褒賞のようなものと言えばいいかな」
十字に月と星のモチーフがあるそれは、クロジアの国旗を表したものだ。まじまじと観察した後、リアの目線はダリオの肩に移る。長方形の紺地に、銀の線が二本と、星が一つ。その布の先には、銀の紐付き肩飾りがあった。
「では、これは?」
「それは階級章。軍隊の中での階級を示す印だよ」
「階級……隊長さん、ということですか?」
「まあ、そうだね。それにしても我が恋人は、意外に好奇心旺盛なようだ。僕にそんなに興味がある? 嬉しいな」
物珍しげに布地に触れようとしていた手を、また握られてしまった。たちまち赤くなり、リアはあわてて首を横に振る。苦笑したダリオが離してくれた手を、急いで膝の上で握り締めた。
またからかわれないように、と固めた決意は、笑いながら制帽を取ったダリオを見て、揺らいでしまう。
午後の日差しに優しく光る、薄茶色の髪。涼しげなのに温かい、同色の瞳。すっと通った鼻筋と、穏やかな微笑を絶やさない唇。長身に、ほどよく鍛えたその体格。軍人らしくない優雅な振る舞いの全ても、確かに彼は人目を引いた。女性たちが注目する気持ちもわかるほどだ、などと考えてしまってから、リアはまた俯いた。
(私ったら、何を……誓いを立てた身なのに)
胸が騒ぐ。頬に血が上る。落ち着かない。この現象が意味する感情を、リアは知らない。それでも、本能的に危険を察知するかのように、頭の中で警鐘が鳴っている。これ以上、考えてはいけない、と。
その刹那のことだった。順調に走っていた列車が、何かの衝撃で揺れた。すごい音を立てて急停車する車内で、リアはダリオの腕に守られる。先ほどとは異なる緊張と不安が、あっという間にリアの顔色を奪った。
「爆発……?」
低く呟いてから、リアの様子に気づいたようにダリオが肩を支えてくれる。
「大丈夫だ。きっと何か車体の調子でも――」
彼が言い終わらないうちに続いたのは、明らかな銃声。悲鳴を上げたリアを、ダリオが抱きしめた。また髪が輝き始めたら、というもう一つの恐れも知っているかのように、しっかりと。そのおかげか、髪は発光せずに済んだ。
音は、まだ鳴り響いている。震えながらそっと見上げると、ダリオは初めて見る険しい顔をしていた。
「前方車両か。リア、君はここに――」
言いかけた彼は、真っ青なリアに袖を掴まれて、口元を緩めた。安心させるように、肩に手を回してくれる。
「心配しないで、一人にはしない」
銃声で静まり返っていた車内が、再びざわつき始めた。人々が我先に逃げ出そうと扉に押しかけたその時、いきなり近くで発砲音がしたのだ。
「おおっと! どこへも行ってもらっちゃ困るなあ。お前たちはみんな、俺たち『月の羽根』の人質になってもらうんだからよ!」
飛び込んできたのは、銃を手にした覆面の男だった。言うなり威嚇のように天井に乱射する。あっという間に乗客が大人しくなると、同じ格好の男たちが何人も加わった。目だけを出した黒い覆面の即頭部には、赤糸で三日月の刺繍がされている。
(月の、羽根……!?)
リアの衝撃を知るかのように、ダリオが肩を引き寄せた。
「その名を使い、『失われた民の血を思い出せ』などと叫んではいるが、実体は立派な武装集団だ。最近王都で暴力行為を続けていると思ったら、こんなところまで範囲を広げているとはな」
心なしか、ダリオの口調がいつもより荒い。いや、いつもが気をつけているだけなのだろうか。口角だけを上げた笑い方も、強い瞳も、まるで別人のようだった。
「おい、そこ! 何を喋ってる!」
「くそ、軍人だ! 武器をよこせ! 早くしろっ!」
「武器は持ってない。この通り、丸腰だ」
銃口を向けられ、ダリオはゆっくりと立ち上がった。何も持っていない両手を軽く上げ、にっこりと微笑む。
「何だこいつ、へらへら笑いやがって。そのお綺麗な顔に一発ぶっぱなしてやろうか! ああ!?」
くぐもった声で威嚇する一人を止めたのは、今まで後方で立っていた別の男だった。「やめろ」と一言だけで従わせたところを見ると、どうやらこの場の主導者であるらしい。ダリオも、彼に目を合わせる。
「生憎、君たちが交渉を目論むような高位の人間じゃないが、これでも国境警備隊の隊長職にある。何なら、君たちの言い分を聞いてやってもいいんだが」
あくまでも堂々と、銃口を前にしているとは思えないほどの優雅な態度で、ダリオは言った。怒り出す仲間を制し、主導者の男が腕を組む。
「国境警備隊ねえ……そんな辺境部隊でそこまでの勲章と階級章をもらえるっていうのか?」
ダリオはただ肩をすくめ、微笑を崩さない。しばらく黙っていた男が、ふんと鼻を鳴らした。
「まあいいだろう。我々『月の羽根』が、君たち軍人や王都の人間が思っているような、単なる野蛮な武装集団ではないことの証明にもなるからな」
「ほう、ではどんな集団だと?」
「挑発してくるぐらいだ。お前も我々の声明は知っているんだろう? 我々は――」
続けようとした男の言葉に割り込んだのは、興奮したような仲間の一人だった。
「貴様ら軍隊と国が、大陸の平和だとかいう大義名分でやってきたことを考えろ! 特に、あのセレス島の決戦をな! 野蛮というのはああいう行いを言うんだっ、国家の犬め!」
それがまだ若い少年の声だったことで、リアは目を見開く。覆面でわからなかったが、そんな幼い者もいるとは。
「……国家の犬か。有難くその呼び名は頂戴しよう。だが、見たところ君は『あの』セレス島の決戦を知る年頃ではないようだね」
「はっ、知らなくても聞けばわかる! お前たち軍人がどれほど残忍に、残酷に、国同士の利益に何の関係もない島民たちを惨殺したかはな! そんなやり方で何が平和だ! 何が安寧の時代が来ただ! 笑わせるなってんだ!」
緊迫した車内に少年の声は響き渡った。全員の視線が集中するのは、言われた側のダリオだ。はっとリアは息を呑む。
彼はまた、あの冷たい瞳をしていたのだ。
「……『笑わせるな』、か。では言わせてもらおう。無論、神は人を殺すなかれと説く。だが、世界の始まりから人は罪に染まり、互いを手にかけ、憎しみあって生きてきた。我々軍人は『国家の犬』として堂々と人を殺し、勲章をもらって生きているとも。自分を正当化するつもりはない。しかし君たちの主張する『平和』とは何だ? 『安寧』とはどう定義する? 自分の信じる正義に反するものは潰し、武力を持って破壊し、生み出すしかないものではないのか? 我々も君たちも、どんな人間も、生来残酷な生き物なのだから」
決して声を荒げもせず、彼らのように強い口調でもないのに、ダリオの言葉は力を持って相手を圧倒した。彼の瞳に、一つの嘘も迷いもなかったからだ。
くっ、と悔しげに少年が何かを言いかける。彼が銃の引き金に手をかけた刹那、ダリオは動いた。左手でリアをかばって床に伏せさせ、右手は座席に置かれたままだった制帽の下に。いつのまに隠し入れていたのか、そこから抜き出した拳銃を構えるまで、リアには一瞬に思えた。
ダリオが撃ったのは、少年ではなかった。少年を狙い、銃を構えていた仲間のほうだったのだ。まさに狙いをつけていたその手を撃ち抜かれ、仲間の男は痛みに悶絶する。 騒然とした車内の乗客よりも驚いたのは、仲間に狙われていたことを知った少年のほうだったらしい。
「どうしてっ……!? なぜ僕を!」
少年の悲痛な問いに答えたのは、主導者の男。彼の判断は素早く、冷徹だった。
「奴が正しい。わめくだけで敵に機会を与えるような役立たずは、我々には無用だ」
そう言い放ち、迷いのない動きで少年に銃口を向けたのだ。覆面の中の幼い瞳が見開かれた時、ついにリアは叫んでいた。
「やめて……っ!!」
失った懐かしい面影を、そこに見た気がした。心臓が握りつぶされるようなあの痛み、その後に訪れた長く苦しい孤独。全てがまた目の前で再現されるようで、耐えられなかった。
ダリオに止められても座席の下から起き上がり、少年に――弟の面影に、必死で手を伸ばす。まさに一触即発、という状態だった場の空気が、わずかに乱れた。その一瞬の隙を見逃さず放たれたダリオの弾丸が、主導者の男の肩を撃ち抜く。
「き、さま……」
倒れた男は、悔しげに呻いた。無言で歩み寄ったダリオが、彼の銃を蹴り飛ばす。床に流れた血が白い軍靴を汚しても、ダリオは表情一つ変えなかった。そばで腰を抜かしていた少年と、静かに瞳を合わせる。
「どれだけ理想で言い固め、正義という名で取り繕おうと、銃とは人を傷つけ、命を奪うもの。それ以外の存在にはなり得ない。それを手にした瞬間に、人は知らず見出すことになるんだ。自らの内に確かに潜む、穢れた罪の血を――」
がくがくと震える体で、それでもダリオを睨み続ける少年の目。あふれ出す涙から目を逸らし、ダリオが背を向けた。その時を待っていたかのように、呆けていた仲間たちが動いた。
「くそ……っ! もっともらしい口利きやがって! どうせお前も汚ねえ人殺しだろうが、クソ軍人めっ!」
ダリオが振り返る。表情のない顔をして、冷たい瞳で彼らを見据え、リアにその背を見せる。次々に銃を構え、わめいた男たちが引き金を引こうとして――。
「ダリオさんっ……!」
ついに飛び出そうとしたリアより先に行動したのは、今までただ震えていた乗客たちだった。
「うるせえっ、正義を騙った暴徒どもが!」
商人らしい中年の男が投げた鞄が、覆面の一人に命中する。
「そ、そうだっ! 何が『月の羽根』だ! 失われた民の名で同情なんか集めても、お前らは単なる殺人集団なんだよっ!」
「ルロアの暴走をクロジア軍が止めたからこそ、今の平和があるんだ! そもそもあの島民を皆殺しにしたのは、ルロア軍だろうが!」
「お前らがルロアの残党どもだってみんなわかってんだ! せっかく戻った穏やかな暮らしを妙な暴動煽って脅かしやがって! これでも食らえ!」
ある者は鞄を投げ、靴まで投げ、またある者はついに、杖を手に飛びかかる。銃を取り落とした集団は、圧倒的多数である乗客たちの反撃に総崩れになった。女性たちまで加わり、男たちの反撃を応援する。
別の意味で混乱状態となった車内に響いたのは、高く鋭い笛の音だった。同時に踏み込んできたのは制服姿の男たち。既に遅い感もあるが、やっと駆けつけた鉄道警備隊の人員だった。事情を説明し、何やら話をつけたらしいダリオに、警備隊員は姿勢を正して敬礼をする。あっという間に縄をかけられ、引きずられていく覆面の男たちが車内から消えると、リアはずるずると床に座り込んでしまった。今頃、全身がひどく緊張していたことに気づく。
そして、連れて行かれる少年を見つけた。リアと目が合った瞬間だけ、少年は途方に暮れた幼い顔に戻って。胸が痛み、気づけば駆け寄っていた。ダリオに頼み、荷物から出してもらったものを、少年の手に握らせる。
呆然としていた彼の瞳に映るのは、リアのロザリオ。
(ああ……どうか忘れないで、手放さないで。あなたの中の、正しく在りたいという純粋な想いを)
「主よ、祝福を……どうかこの嘆ける魂に、光をお与えくださいますよう」
急いで、囁くように言った祈りを、彼はどう受け止めたのかわからない。リアが握った手を、少年はしばらくそのままにしていた。痛みに満ちた彼の瞳を、きっと自分は忘れないだろう、とリアは思った。
騒動のあった夜、ダリオは予定の変更を告げた。混乱を避け、下車した小さな港町の、宿屋の一室でのことだ。
「え、船旅……ですか?」
「ああ。列車には警戒態勢も敷かれたし、王都へ向かう街道も同様だ。ああいった武装集団は大小含めてまだ存在しているから、万が一の危険を避けるためにも、人々があまり取らない経路で旅をする」
「わかり、ました……」
どのみち自分には逆らう理由も権利もない。そう素直に頷き、しばらく黙っていると、ダリオがふいに沈黙を破った。
「どうして、あんな危ない真似を?」
「あ……」
少年をかばおうとした時のことだとわかり、ごめんなさい、とうなだれる。が、ダリオはいつものように微笑みはせず、まだ厳しさの残る瞳で問いを重ねる。
「それに、なぜあのロザリオを渡した? あれは君の大切なものだったはずだ」
リアは表情をかげらせた。後悔のためではなかった。
「結果として、彼の行動は悪に傾いてしまったのかもしれない。でもあの子の涙には、真実の想いと深い絶望がありました。まるで、あの日全てを失った時の、私のように」
思い出すだけで痛む胸を、リアは押さえる。
「マザーが下さったあのロザリオと彼女の想いが、私にとっての光でした。絶望の淵から救われ、生きることができたのです。だから……せめて、と。彼にとって、何の力にもならなかったかもしれませんけど」
そう、ああいう瞬間にこそ、自分のような立場の者が――神に仕える修道女として――何かをしなければいけない。けれど、結局は何もできずに終わり、自分は無力だった。
俯き、唇を噛み締めていたリアが顔を上げると、ダリオがひどく真剣な瞳で見つめていた。もう、厳しい色はなかった。
「真実の想いは、必ず相手の心に届く。例え時間がかかったとしても、そこに本物の労わりがあれば伝わるものだ」
「ダリオさん……」
ふっと、彼は微笑を浮かべる。いつもとは違う、とても寂しげな笑みだった。
「無力だと感じるのは、僕のほうだ。あの少年、いや、彼らが発した言葉の全ては、確かに事実なのだから」
――残忍、残酷、国家の犬、人殺し。
彼らの声が剥き出しの敵意と共に蘇り、リアの胸を刺す刃となる。ダリオの悲しい瞳を見ていたら、言わずにはいられなかった。
「……私も、同じです。修道女だからと言って、何も変わらない。変えられない。いくら祈りと修練に励んでも……いいえ、そうするたびに感じるのです。よりはっきりと見えるのです。自分の中にある消せない罪の存在が」
ずっと続けてきた孤独な戦いを思い出し、リアは両手を握り締めた。
「父を、母を、弟を惨殺した人間――非道な軍人たちを、自分が逆に殺してやりたいと、何度そう思ったかしれません。『復讐はわたしがする』と仰る神に、なぜ今すぐにさばきを下されないのかと怒りをぶつけたことも……」
リアの告白は、少なからずダリオを驚かせたようだった。苦笑して、すぐ近くにある彼の瞳を見上げる。
「でも、何年も苦しい中で祈りを続けるうち、わかったんです。彼らと自分との間には、決して大きな差などないのだと。殺してやりたいと思った時点で、私はもう罪を犯している。赦せと、敵を愛せよと、そう説かれる神の教えに、背いているのです」
だから、とリアはゆっくりと首を横に振った。
「同じ罪を持つ私には、彼らも、あなたも、決してさばけません……さばいては、いけないのです」
懸命に微笑もうとしたリアの試みは、失敗に終わった。それより先にあふれた涙が、頬を伝ってしまった。
「君は……本当に」
ただ黙って聞いていたダリオが、何かを言おうとしてやめる。代わりのように、彼は温かい手でリアの頬を包んだ。また流れ落ちる滴を、指でそっと拭ってくれる。
その指と瞳の優しさに、思わずどきりとした時、背に下ろしていた金の髪が淡く輝き出した。まるで月の光のような優しい銀色の薄膜が、羽のようにリアの髪を――いや、全身を包んでいく。
驚き、思わず離れようとしたリアの手首を掴み、ダリオが引きとめた。
「……は、離してください。私、髪が」
今まで、恐怖や衝撃以外の感情で髪が輝くことはなかった。列車での騒動でも光らずに済んだのに、輝きは段々濃く、強くなっている。それに何より、ダリオに気味悪がられることが怖かった。
けれど、ぎゅっと目を閉じ震えていたリアの髪を、ダリオは優しく撫でたのだ。
「言っただろう? この美は神の祝福だと。誇るべきもので、引け目に感じる理由なんて何もない」
思わず瞳を見開き、彼を見上げる。優しい眼差しに心臓が脈打つと、また髪の輝きが増した。それでも、ダリオは動じなかった。逆に引き寄せられ、広い胸に収められて、全身に彼の体温が伝わってくる。
「……無理することはない。いや、しないでくれ。祈り、耐えることと、心が壊れるまで我慢することは違う。泣きたい時は、思う存分泣いていいんだ」
切なげにリアの名を呼び、ダリオはそっと耳元に囁いた。
「――君が無事で、本当によかった」
ああ、先ほど無茶な行動を怒ったのも、心配してくれていたのだ。
胸に染みる言葉の全てと強い抱擁に、ずっと堪えていたものが崩れ落ちていく。長い長い孤独と、苦痛。一人きりで必死に生きてきたリアの歳月が、今あふれて、流れ出す。彼の胸に顔を埋め、泣き崩れたリアを、ダリオはずっと抱きしめていてくれた。
翌朝、ダリオと共に乗った船は、意外にも大きな軍船だった。今までのように質素に、一般人の旅を装うのかと思っていたリアが驚いていると、やはり武装集団などの襲撃を警戒してのことだと言う。
「君の安全を最優先させることにしたんだ。目的地までもうすぐだからね」
一瞬浮き上がりかけた心は、言葉の後半を聞いて沈んだ。
(……何を変に意識してるの。彼は、任務を遂行しているだけなのに)
ちくりと痛んだ胸を押さえ、リアはなんとか平静を装った。それでも微笑もうとした口元は強張り、視線を合わせることが辛かった。甲板に護衛兵らしき人員はいたが、幸いリアのいる船室にはダリオ以外の人間はいない。窓の外を見るふりをして、彼に背を向けた。
しばらくして兵の一人に呼ばれたダリオは、リアを残して出て行く。一人きりの船室は、突然広く感じられた。昨夜のことで近づいたと思っていた心の距離が、また遠くなってしまったような気分だった。
なぜ、こんな風に胸が痛むのだろう。まるで重石でも乗せられたように、息苦しく感じる理由は何なのだろう。
無意識に、手放したロザリオをまた探していた。少年の瞳を思い出し、空の手を握り締める。あれほど忘れられないと思ったのに、気づけば自分の感情に振り回されている。そんな無責任な自分が、果たして神に仕える修道女だなどと言えるのか。
(考えちゃいけない。そうよ、例えどう思おうとも、私の運命はもう決まっているのだから)
いくら分不相応だとしても、行き場のない自分を受け入れてくれたあの修道院で、自分は一生を過ごすのだ。生涯を祈りに捧げ、長い長い時を、ずっと。
知らず、唇を噛み締めている自分に気づく。喉の奥まで、何か得体の知れないものが出てこようとしている。熱い、大きな、自分でももてあますような何か。
「考えちゃだめ……リア!」
押し殺した声で思わず戒め、そばにあった長椅子に腰を下ろした。軍船とはいっても、乗員のためなのか船室は綺麗に整えられていた。上等な布地の感触を確かめるうち、いつのまにか瞼が重くなり、長椅子に寄りかかっていた。旅の間に蓄積されていた重い疲労が、意識を闇に落としていく。
そして閉じられた瞼の裏に現れるのは、遠い日の映像。八年前のあの日、ラヴァル島に流れ着いてマザーに助けられ――いや、それよりもっと前だ。闇夜の海で、必死で舟を漕ぎ出したあの緊迫の空間。響いた銃声に、眠るリアの体も震える。だが、眠りは深く、まだ覚めない。痛みから逃れようと無意識に封じていた記憶が、段々と蘇っていく。
『お母さん! お母さんっ、しっかりして!』
撃たれ、血を流しながらも自分をかばおうとする母。その肩ごしに、リアは自分を狙う軍人を見た。赤い軍服を着た、ルロアの軍勢だ――。松明を手にした彼らの顔が、醜くゆがんでいる。執拗に、血を流し尽くそうとする者の顔だ。リアを狙った銃口が火を吹く直前、その軍人は大きくのけぞって倒れた。頭部から、大量の血を流して。驚く彼らが銃を構えなおした方角に、白い軍服姿の男。いや、まだ若い、少年のような軍人がいた。
銃撃戦は、一瞬の差で彼に勝利をもたらした。ルロアの兵士を次々と絶命させたその技能とは裏腹に、銃を下ろした少年は、暗い絶望に満ちた顔をしていた。遠目に見えたその彼は、彼の顔は――。
はっと、リアは目を覚ました。
すっかり眠り込んでいたらしく、開いた視界に夕日の光が差し込む。その光に反射して、やわらかくきらめく薄茶の髪と瞳。
「……ダリオさん」
心臓が飛び出そうなほど驚いたのに、声には動揺が出なかったようだった。ダリオは静かに微笑み、船室の外を指し示す。
「目的地に到着しましたよ、眠り姫様」
冗談めかして微笑んだ彼は、リアに手を差し伸べる。一瞬の躊躇の後、その手を取って起き上がった。リアの夢も動揺も、何も知らないダリオが、ゆっくりと船室の扉を開く。強い海風がリアの髪をなびかせるが、構うことなく甲板に歩み出た。何も考えられないほど、ただ驚愕に包まれていた。
「ここは……そんな、はずは……!」
優しい緑の木々が生い茂り、花々は咲き乱れる。白い壁と赤茶色の屋根が特徴的な、質素な家々。数は多くなくとも、集落を形成するに十分な、暮らしの印。
あの日全てが失われたはずの、懐かしい島の光景が目前に広がっていた。
「そう、ここは君の故郷、セレス島だ。そして、この旅の最終目的地だよ」
「でも、軍部の統制下にある、って……」
船が無事着岸しても、よく事態が飲み込めない。そんなリアの問いに答えたのは、ダリオではなかった。
「確かに我が軍の統制下に置かせてるわよ? 当面、島の再生計画が完了するまではね。ご納得いただけたかしら、親愛なるリア=スモイエさん」
鈴を鳴らしたような軽やかな声の持ち主が、桟橋の向こうから姿を見せた。その澄んだ声に決して劣らない、可憐な風貌の少女だった。
夕焼けに色濃く輝く、蜂蜜色の緩い巻き毛。陶器のような白い肌を爽やかな青のドレスに包み、同じ青の小さな帽子をちょこんと頭にのせている。
「我が、軍……?」
彼女を守るように取り囲む衛兵。その人数にも、彼らにかしずかれることにも慣れ切った風情の少女。その威厳が示す答えに、リアはただ目を瞠ることしかできなかった。
「王女殿下」
ダリオが横で膝を付き、頭を垂れる。呼ばれた彼女は、上品に微笑んだ。
「ダリオ=コズニク、ご苦労でした。こうして無事、我が国の貴重なる人材を守り、わたくしの元へ導いてくれたこと、嬉しく思いますよ」
流れるような仕草でダリオに手を差し伸べ、彼がその甲に唇を落とす――かと思いきや、そこで彼女の気品ある笑顔は思いきり歪む。同時に歪んだのは、ダリオの顔だった。王女殿下が、彼の手を強くつねったからである。
「……なーんて言うとでも思ったかしら? こんの、すっとこどっこいがっ!!」
「すっとこ、どっこい……?」
あまりのことに硬直するリア。だが、王女の憤怒はそれだけで収まらなかったらしい。
「いい? あたしはねえ! 大切な彼女を無事に送り届けろ、と命じたはずよ。あなた、『無事』という言葉の意味がわかっていて? 読んで字のごとく何も起こらないことよ。彼女の平安を乱す出来事を何一つ起こさず、連れて来るようにと言ったの! それが、あの列車の騒動は何なの!?」
「あれは不可抗力で――」
「不可抗力う? あらあら、あなたに――このあたしが信頼を置く希少なる逸材であるダリオ=コズニクの辞書に、そんな単語が存在しているとは思わなかったわ!」
「まあまあ落ち着いて、アナリーザ」
「『王女殿下』!」
「はいはい、王女殿下」
「はいはい、じゃないっ! ああ、彼女が無事だったからよかったものの、万が一のことでもあったらどうするのよ! 本当にあなたは馬鹿よ。大馬鹿ダリオ!」
「その件は重々反省しております。申し訳ございません、殿下」
表情を引き締め、ダリオが言う。ところで、と彼はリアに目をやった。
「彼女が大変驚いているようですが」
「え? あ、あら」
王女はそこで我に返ったらしく、また先ほどの美しい微笑みを浮かべた。ぱっちり大きな緑色の瞳は、まだ笑っていなかったが。
「ごめんなさいね、驚かせて。でもこれはいつものことだから、気にしないで。まったく、これでもクロジア王国の精鋭を集めた、王立特別軍の一員だという自覚があるのかしらこの男は」
ねえ? と同意を求められ、ただ桟橋に立ち尽くしていたリアは瞳を瞬かせた。
(精、鋭? 王立特別――何ですって?)
リアの混乱に満ちた思考を読んだかのように、ダリオは苦笑し、今度はリアに向かって膝を付いた。片腕を折り曲げ、丁重なお辞儀をする。
「ただいま、アナリーザ王女殿下直々のご紹介に預かりました、ダリオ=コズニクと申します。クロジア王国王立特別軍、第一師団にて、参謀長を勤めさせていただいている者です。改めまして、よろしく――リア=スモイエ嬢」
初めて会った時と同じ、いや、より艶やかな微笑みで、ダリオは顔を上げた。
「なんて言うと大げさに聞こえるけれど、要するに国境警備隊にも在籍しつつ、『王女の補佐役、兼、使いっぱしり』も時々やらされている、という程度のことだよ」
声を落とし、冗談めかして言うダリオ。
「ちょっと、聞こえてるわよ!」とまたご立腹の王女――アナリーザ。二人の笑顔は、リアの理解を促してはくれなかった。
***
そして現在、あの衝撃の対面からふた月と少し。リアは優しい海風の吹き込むセレス島の小屋で、黙々とレースを――王女アナリーザのための花嫁衣裳を編み続けていた。
純白のそれは、儚げな線を描いて裾へ向かっていく。完成まで、あともう少し。
といっても、まだ着られる予定のない花嫁衣裳ではあるのだが。
「殿下にご結婚のご予定がなかったなんて、夢にも思いませんでした」
リアが言うと、アナリーザは悪びれずに微笑む。
「そういう理由にでもしておかないと、修道院も許可を出さないでしょう? だから無理を言って、お父様にも協力してもらったの。何が何でもあなたを呼び寄せて、この美しいレース編みの技術を守りたかったから」
いたずらっぽく舌を出した笑顔は、若干十六歳、という年齢にふさわしい無邪気なものだ。生来の親しみやすい人柄も相まって、リアはこうして話をさせてもらうようになった。公的な場での威厳を忘れたかのように、アナリーザは自然な口調で続ける。
「でも結果がよかったのだからいいでしょう? レース編みだけでなく、あのセレス島の生存者を――『月の羽根』の一族であるあなたを、こうして無事保護できたんですもの。ダリオから途中報告を受けた時も、どれほど喜んだことか。だから、王宮じゃなくここで待っていることにしたの」
今の世に、もう残虐な迫害などあってはならない。そう強く訴えた王女に押し切られる形となって、国王も国を挙げて制度の成立に動いた。まさに大陸の平和のために、大きな一歩を踏み出すこととなったのだ。が、発案者張本人は、うっとりとリアの手元を見つめている。その熱心な視線が、先の立派な訴えだけではない彼女の本心を示していた。
「ああ、本当に美しい、奇跡と見紛うほどのレース……それに、あなたのように美しい民が滅んでしまわなくて本当によかった。あらリア、手が止まっていてよ? このわたくしにふさわしい、完璧な花婿候補が見つかったら着るんですからね。しっかり仕上げてちょうだい」
思わず笑って、リアはレースを編む手を速めた。
この有能で風変わりな王女には、既に多くの求婚者がいるという。肝心のアナリーザ本人の厳しい目にかなうお相手はなかなかいないらしいが。
「まったくどいつもこいつも、欲にまみれたろくでなしばかり。国を治めるということの責任なんて、何も考えてないの。指導者一人の決断が、全国民の生きる道を決めるのだということもわかっていない。それに、未だに婿をとることにどうこう言う古臭い輩もいるのよ? どう思う? リアったら」
時折、こうしてお忍びで島に訪れるアナリーザと語り合うようになってふた月。リアも遠慮ばかりせず少しは言葉を返せるようになってはいた。でもこの時はどう答えたらいいかわからず、ただ困ったように微笑み返した。
元となる型であり、下地も兼ねた白い絹のドレス。その形に合わせて、レース地を作り上げていく。リアの手つきを満足げに見つめながら、アナリーザは侍女が入れたお茶を飲んでいる。
「とにかく、お嫁になんて行かないの。だって、この国を治めるのはわたくしなんですもの」
「……きっと素晴らしい女王陛下におなりですわ」
確信を込めてリアは言った。
美しいものを心底愛する彼女は、それ以上に真実国を想い、民を想ってくれている。そうでなければ、これほど若くして、王国史はおろか他国の歴史や言語にも造詣を深め、自ら望んだという君主教育に耐えはしないだろう。それに、彼女は虐げられた者の痛みを思いやることができる人だ。
ほとんど破壊された無残なセレス島の状態を、でき得る限り元通りに復元したのも彼女の案だった。そして、今はまだ軍の保護下に置いているこの島を、将来は平和の象徴として立て直す。それがセレス島の再生計画であり、必ず実現させるつもりだとアナリーザは誓ってくれた。
「本当に、ありがとうございます。殿下」
思わず声を詰まらせたリアの肩に、既に立派な君主としての気概を備えた王女が触れる。優しい抱擁をくれたアナリーザは、いたずらっぽい笑みで話題を変えた。
「それで、あなたのほうはどうなの?」と。
「どうって、何がですか?」
「何ってもちろん、今はここにいないあの男のことよ。会いたいんじゃないの? 毎日とっても心配そうに海を眺めてるって、衛兵が」
「私は別に、ダリオさんのことなんて……!」
「あら、ダリオの名前は出してないのに」
してやったり、という風にアナリーザがにんまりする。真っ赤になったリアは、思わずかぎ針を取り落としてしまった。
「そ、それはもちろん心配です。心配じゃないほうがおかしいじゃないですか。少しの間とはいえ、私を守り、ここまで連れて来てくださった方ですもの。例え通常の任務ではあっても、ご無事を祈るのが修道女としても当然の役目です」
そう、今のリアは、以前のように灰色の修道服を身に着けていた。無事目的地に到着し、変装する意味もなくなったのだ。まだドレスに馴染むことはできなかったし、リアにとっては当然の選択だった。着替えをたくさん用意してくれていたらしいアナリーザには、ひどく残念がられたのだが。
「……髪の毛、光り始めてるけど」
そっと耳元で囁かれ、あわててベールを押さえかけ、すぐに気づいた。どういう時に髪が輝くか既に知っている彼女に、からかわれたのだと。さすがに、ベールを通して見えるほど輝きは強くはないはずだ。
しかし当てずっぽうの彼女の言葉は、悔しいことに現実になった。確かな発光の感覚を、体に感じたのだ。
(ああ、だめ! どきどきしたら、もっとひどくなるのに)
なぜかはわからないが、最近のリアはおかしい。ダリオのことを考えると、それだけで胸が騒いで、髪が光り出してしまうのだ。彼と一緒にいた、あの時ほどではないけれど――。
「アナリーザ様……! 私、一体どうしてしまったのでしょうか」
年下のアナリーザに、身分のことも忘れてすがってしまう。それほどに、リアは自分の変化を恐れていた。だが、アナリーザの答えは簡潔なものだった。
「どうして、って、恋してるからでしょ?」
気づいてなかったの、と逆に驚かれて、リアは今度こそレース地までも取り落としてしまった。
リアの受けた衝撃には思い至らないのか、微笑ましげに笑って、アナリーザは続ける。
「ダリオも優しげな顔して結構ひねくれてるから、あなたみたいな人がそばにいるのがちょうどいいと思うわ」
「ひねくれ……?」
「彼ね、公爵家の末息子なの。今では認められ、周囲から敬われてもいるけれど、昔は母親が違うからってお兄さんたちにも冷遇されててね」
彼女が教えてくれたのは、ダリオの生い立ち。王家とも並ぶ家柄に、後妻の子として生まれた彼は、兄たちのように官僚の道は目指さなかった。士官学校には入ったものの、卒業後進んで実戦の場へ出ていったのだと。
「わたくしが起用する前に、戦死しなかったのが不思議なくらいだったわ。常に危険な場に身を置いてた。公爵と父上は遠縁だから、小さい頃はよく遊んでもらったの。というより、上の兄たちは逃げて、わたくしの相手をするのが彼しかいなかったのね。兄弟がいないわたくしにとって、兄代わりみたいな人よ」
苦笑するアナリーザの瞳は優しく、まるでその頃の二人が見えるような気がした。
「どうしてそんなに危ない場所へ行くの、ってわたくし聞いたわ。彼なら、王宮でも出世できるほど有能なのにって」
「……ダリオさんは、何と?」
「救えなかった命があるから、って一言。すごく悲しい目をしてた。そういう目ができる人だから、今の任に選んだの。あなたを迎えに行ってもらったのも、今思えば神のお導きだったのかもしれないわね。だって知ってる? 彼が小さい頃に亡くなったお母様はね、実はセレス島の出身だったのですって。あなたたちの一族ではないらしいけれど、それもあってあのセレス島の決戦に志願したらしいし」
手を止めたリアの様子に気づかず、アナリーザの感慨深げな言葉は続いた。
「だから『月の羽根』の民に対しても特別な想いがあったんじゃないかしら。私にこの島で待つようにって言ったのも、彼なのよ。きっと、誰よりも先にあなたに島の再生を見せたかったんだと――あら、リア? どうして泣くの? リア、リアったら……!」
肩を支え、慰めるように背を撫でられても、あふれ出した涙は止まらなかった。
『故郷から連れてきた僕の恋人』に――確かに彼がそう言ったことを思い出す。もしかしたらダリオにとっても、この島は心の故郷のようなものだったのかもしれないと。
彼の痛みが、あの微笑の奥に抱えてきたのであろう苦しみが、王女の言葉と重なり真実を導いていく。封じられていたリアの記憶の、最後のかけらがはがれ落ちる。
(ああ、あの人は……!)
瞼の裏の、描けなかった面影。ずっと追い続けてきた、自分を救った人の顔。それが今、はっきりと思い出せたのだった。
花嫁衣裳が完成したのは、三月後のことだった。このままセレス島に滞在しないか、それとも自分に付いて王宮に来ないか、等々。アナリーザの熱心な誘いを、リアは丁重に辞退した。
自分が一番行かなくてはいけないところ、その場所に今、こうして立っている。
ラヴァル島、聖ラエル修道院。院長室の前だ。震えそうな足を繰り出し、勇気を振り絞って扉を叩く。優しい院長――マザー・サニヤは、離れていた間のことを忘れるほど、自然な微笑で迎えてくれた。
「よく戻りましたね、リア」
再びあの抱擁に包まれ、リアの心は温かくなる。だが、言わなければいけないことを思うと、すぐに表情は翳った。
「マザー、私……」
言葉に詰まり、沈黙を挟んでしまう。あれほど考えて、決断したつもりの思いが、本当に正しいものなのかわからなくなったのだ。リアのかすかに震える手を、サニヤは握った。静かに、微笑みを深める。
「わかっていますよ。修道院を――修道女を、やめるのでしょう」
「どうして、それを……!」
今日、リアは、誓願を解いてもらうためのお願いに戻った。そのことを知っていたかのように、サニヤが差し出したのは一枚の書状だった。
「あなたがそう言うのではないかと、王女殿下が伝令を使わされたのです。ご一緒にその旨の手紙と、直接お願いして頂いたという法王様の承認書類に、署名付きでね」
「アナリーザ様が……」
自分の決意を、彼女はとっくに知っていたというのか。しかも無言で、これほどに早く協力までしてくれた。
「今日、あなたの訪問を待って、意思を確認したら受理されるそうです。正式に誓願は解かれ、あなたは普通の女性に戻るのですよ」
「マザー……!」
どう言えばいいか、どう償えばいいか、道々そればかり考え続けてきた。どうやってもこれほどの恩に報いることなど到底できないという結論に至って。ただ、ひたすら頭を下げようと思っていたのに。
修道服の胸に抱きつき、子供のように泣きじゃくるリアを、サニヤは優しく――本当の祖母のように抱いていてくれた。
「リア、神の御心とは、生涯を修道女として祈りに捧げる、ということだけではありません。その人それぞれに進むべき道があり、生きるべき場所があるのです。私にとってはそれがここで、あなたには別の場所があるというだけ。だから、何も悔いることなどないのですよ」
あなたの、想うままに生きなさい。静かに、それでも深い愛を持って、サニヤはそう告げた。その言葉は、リアの数少ない宝物の中に新たに加わることになったのだ。
***
それからの日々は、飛ぶように過ぎていった。いや、正直に言えば一日一日がとても長く、貴重でもあり、また苦痛でもあった。貴重だと感じるのは、穏やかで優しいこのセレス島――故郷での暮らしが、再び戻ってきたことだ。
まだ住民は他におらず、アナリーザの手配してくれた侍女や衛兵たちが滞在しているだけ。それでも互いに挨拶を交わし、笑顔を送り、相手を気遣う時、共にいる人々の温もりを知った。
今では、一日に何度もリアの髪は銀色に輝いている。そもそもの『月の羽根』の民とはこういうものだったのか、それともリアだけの現象なのかはわからない。
ただ、アナリーザが各地の文献を調べて教えてくれたことは、一つ。『月の羽根』の民は、誰かを大切に想う時その髪の輝きを増すのだと。そして、その輝きは力になり、不思議な現象を起こして、その人を助けたりもする。リアの場合は、まさに今もやっている、レース編みにその力が現れた。
王女殿下も、貴重な文化として後世への継承を強く望んでくれている。が、実のところ力の仕組みはよく理解できていなかった。優しく髪が輝き、その銀色の光が羽のように自分を覆う時、まるで暖かな何かに満たされるように感じる、ということだけ。
説明の付かないこの感覚に助けられ、より複雑で美しい模様をレースに編みこむことができる。もう、何作仕上げたかわからないほどだった。初めはアナリーザが届けてくれていた糸も、今では専門の人員が小屋を使い、常時紡いでくれている。
そして今夜も、リアは輝く髪を背に流し、その光に包まれながらレースを編んでいた。今まで好んできたように、月を思い浮かべて作るのは、二つの三日月が向かい合ったデザインのタペストリー。
この作品こそが、楽しさや充足感と共に、リアに苦痛をも感じさせる原因になっていた。
「……編みあがっても、飾る場所がなくなってしまったわ」
一人、手を止めて呟く。リアが暮らすこの小屋には、もう置き場がないほどレース編みがたくさんある。そのため、最近の作品は他の小屋に保管されていた。
それも仕方がないだろう。もうほぼ一年――ここに移り住んで、ずっと編み続けているのだから。だが、そんなことが苦痛なのではなかった。
編みかけのタペストリーをテーブルに置き、リアは窓辺に立つ。今宵もちょうど三日月で、白い砂浜と暗い夜の海を穏やかに浮かび上がらせていた。
「……ご無事、かしら」
呟くと、ずっと堪えてきたものが喉の奥からせり上がり、瞳を濡らし、胸を突く。
誓願を解いてもらってから、リアはたった一人を想いながらレースを編んできた。今までは神への捧げ物であり、信仰と祈りの証明でもあったレースは、リアの心そのものへと変わった。自然に、そうなっていた。
修道女をやめても、再びマザーにもらった新たなロザリオを大切にし、日々の祈りを習慣としていることは変わらない。けれど、それだけに生きることはもうできない。だからこそ、ありのままの自分に戻ることを選んだのだ。
「ダリオさん……」
呼んでしまった名前は、より鮮やかに面影を浮かべさせ、リアの髪を輝かせる。もう隠す必要も理由もない。自分は、あの人に恋をしている――。
会いたい。そう思うたび、この想いが自分だけのものであることに胸が痛む。苦しくて、やりきれなくて、それでも無事を祈らずにはいられない自分がいる。
あの列車事故以来、皮肉にも数を増したという武装集団の襲撃。今も彼は、遠くの地でその鎮圧に当たっているという。決して、自分の与えた役目だけでは満足していない証拠なのだ、とアナリーザも苦笑していた。だから、この切なさもやるせなさも、一人でずっと抱えていかなければいけないものだと覚悟していた。それが――、
「船……?」
涙で潤んだ視界に、一艘の船が映った。いつもこの島と本土とを行き来して、生活用品などを届けてくれる商船にも似ていた。そこから桟橋に降り立つ人影が見える。
夜目にもわかる、白い軍服。月明かりに優しくきらめく髪は、遠く、薄茶色に見えた気がして――リアは、すぐさま小屋を飛び出した。草に、砂に、足をとられそうになりながらも駆けて。自分が薄い夜着にレース編みのショールをはおっただけで、素足のままだということにも気づかぬほど懸命に走って、その人のもとへたどり着いた。
瞳を見開き、リアの出迎えに微笑んだのは、たった今まで、苦しい想いで待ち続けていたダリオだったのだ。
「……まるで、月の精だな」
小さく感嘆したように言ったダリオが、リアの髪にそっと触れた。以前より伸びた淡い金髪が、夜風に揺れている。髪色すら銀とも見紛うほど、強く輝くようになっていた。
「背中に銀の羽が生えているみたいだ。昔の人が一族の名を付けた理由がよくわかるよ。前よりもっと、綺麗になった……」
髪を梳いた手で、今度は頬に触れられる。どくん、と胸が鳴り、鼓動は更なる輝きを生んだ。
「どう、して……?」
会いたかったのだと、心の想いを伝えたいのに、出てくる言葉は違った。ダリオが、軽く肩をすくめる。
「やっと任務が落ち着いてね。それなのにすぐ次の任務だ。まったく、王女殿下も人使いが荒い」
「次の?」
また、どこか危険な場所へ行ってしまうのかと不安げに問うと、安心させるようにダリオが微笑んだ。
「これから正式に『平和の象徴』として世界に発表される、再生されたセレス。この島の――つまるところは、君の警護、という任務だよ。殿下はここをまた人々が暮らせる場所にするだけでなく、王国統治の拠点にもされるお考えだそうだから」
首を傾げる。鼓動が跳ねる。何か、ひどく喜ばしい知らせを聞いた気がするのに、正しく理解できないほど混乱している。
リアの眼差しを間近で受け止め、ダリオは言葉を継いだ。
「参謀長と未来の女王の、休息場所に使うということだよ。あくまでも別荘としての殿下とは違って、僕はここから動かないつもりだけれど」
まだ事態を把握できないのに、鼓動だけが速くなる。ダリオは、困ったようにリアを見つめた。
「だから、君のそばにずっといる、ということなんだけど……だめかな?」
「……ほ、本当、に……?」
涙が頬を伝い、落ちる前にダリオの指が拭って。苦笑した彼が、切なげに言った。
「本当だ。あれからずっと、気づけば君のことばかり考えていた。思い出すたび会いたくなって……だから、君が誓願を解いたと殿下に聞いた時、もう心は決まっていた。君も知るように、僕はとても清い人間とは言えない。人もたくさん殺したし、罪も犯した。それでもいいと君が言ってくれるなら、許してくれるなら――僕は」
彼の言葉を最後まで聞かず、リアは首を横に振った。ぽろぽろ涙を流しながら、何度も、何度も。
「言った、はずです……! 私は、私だって、誰かを許すほど立派な人間じゃないと。でも、だからこそ……共に祈り、手を取り合い、支えあって生きたいと、私は……!」
ダリオの瞳がゆっくりと見開かれ、瞬いた。次第に広がっていくのは、とても嬉しそうないたずらっぽい色。気づけばリアは、彼の胸に両手を添え、すがりつくように見上げていたのだ。
「誰と誰が、共に支えあって生きるって?」
すぐ目と鼻の先で見つめられ、自分の大胆すぎる行動と思わず口にしてしまった言葉を恥じた。けれど、既に伝えてしまった本音は、もう取り消せない。
「……そんな風に聞かなくても、もうおわかりのはずです」
顔も真っ赤で、心臓が壊れてしまうかと思うくらいどきどきしていて、どこかへ隠れてしまいたいほどだ。なのに、いつのまにかダリオの腕の中に捕らえられていて、離れることもできない。
「いや、はっきり言ってくれないとわからないな」
「あ、あなたがそんなに意地の悪い方だとは思いませんでした」
「おや、知らなかったかい? 意地が悪くなくては、参謀長なんて役目は務まらないんだよ」
平然と言ってのけ、ダリオは楽しげに笑う。抗議しようと見上げると、笑みを収めた彼は真摯な瞳でリアを見つめた。その眼差しに引きずられ、想いは素直な言葉として滑り出ていた。
「思い出したんです、私……」
瞳だけで意味を問われ、今度はリアが微笑む。あの辛い記憶の中で、たった一つ。宝物となった過去の光景を思い浮かべながら。
「あなたは、私の命を救ってくれました。そのために苦しい思いをさせてしまったのかもしれません。計り知れない重荷を負わせたのかも……でも、確かにあなたのおかげで私は今、こうして生きています」
「――リア」
新兵であったダリオが、初めて実戦で人を撃った。それが自分を救ってくれたあの夜のことだったのだと、今のリアは知っている。記憶が蘇った時、アナリーザに調べてもらったのだ。
確信と感謝を込めたリアの視線を、ダリオは静かに受け止めてくれた。月明かりと、リアの髪が生み出す銀の輝きとに包まれた空間。彼はリアを引き寄せ、抱きしめた。
「……生きていてくれて、よかった」
万感を込めたような彼の言葉に、リアはまた瞳を潤ませた。
「あの夜、この手で救おうとした命が消えた。そう思った瞬間、僕は自分の無力さを痛感した。誰かを救うということが、どれほど難しいことかよくわかったんだ。所詮はあの少年が言ったように、ただ大義名分を盾に多くの人を殺してきただけ。これまでずっと、そう思っていた。でも――」
苦しげに語ったダリオは、静かな微笑を湛え、リアを見つめた。
「今こうしていられることに、感謝したいと思えるよ。ずっと壊れたと思ってきた希望。初めて助けたいと思った少女……僕のリアが、そばにいてくれると言うのだから」
初めは壊れ物を扱うようにそっと、段々とその想いの丈を込めて。ダリオの腕に力がこもっていく。長い長い抱擁の後、彼は言った。
「君と再会して、君の心に触れてから、僕はもう一度光を思い出した。ずっと探していたものを、大切な相手を――見つけたと思ったんだ」
噛み締めるように言ったダリオが、真剣な瞳を向ける。
「僕と共に、生きてくれるかい? 優しい僕の『月の羽根』……リア」
言葉の代わりに、頷くのが精一杯だった。零れ落ちる熱い滴を、微笑んだダリオが唇で拭う。口づけは甘く優しく、頬から唇へと場所を変え、ゆっくりと重ねられて――二人を包む銀の輝きは、澄んだ清らかな光となって、夜空に還っていく。
その光が羽根のように広がり、空を舞って、まるでレース編みのようにきらめく模様として世界に刻まれても、生まれたばかりの恋人たちの口づけは終わらなかった。
(了)
読んでくださり、ありがとうございました。
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