第4廻 春の息吹は運命を告げる
「一体なんだって言うのよー!」
突如響いた怒声に、塀の上で気持ちよく寝ていたノラネコが飛び起き、ころんの形相に驚いて逃げ出した。
「同じ男の子なのに、どうしてああもちがうのかしら! 碧君なら絶っ対、あんな言い方しないわよっ!」
カバンを振り回しながら、ころんは早足で道を行く。
「いきなり呼び捨てにするし…もう、ムカつくぅ~っ」
ずしんずしんと地響きでも聞こえてきそうなほど、憤然と歩いていたころんだったが、ふと、背後の気配に気づいてこめかみを引きつらせる。
「ちょっと! あなた、いい加減に……」
カバンを振り上げ、振り返る。――が、
「ひえっ、ぼ、僕は怪しい者では……っ」
そこにいたのは中年の小太り男で、あの男ではなかった。
「……………ごっ、ごめんなさいっ! ちょっと人違いして……」
振り上げたままのカバンを思い出し、ころんはあわててカバンを下ろして頭を下げる。
「いやいや、いいんですよ。ところで、僕、こういう者なんですけれども」
男は小脇に抱えていたカバンのポケットから名刺入れを取り出し、ころんに一枚差し出す。
ころんは名刺を受け取りはせず覗き込んだ。薄いカードに表示された画面を見て、眉をひそめる。
「タムラモデル養成所所長………モデル?」
「はい。それで、これが案内書なんですがね」
男はカバンからピンク色の分厚いファイルを出し、中を開いて見せる。
何やらウンチクを話し出し、ころんは困惑しながら首を傾げた。
「――というわけでですね、あなたをモデルにスカウトしたいんですよ」
「……えぇ!? 私なんかには無理です!」
モデルだなんて、そんなの恥ずかしい。ころんは顔と手をぶんぶんと横に振った。
「あなたには素質がありますよ。大丈夫。心配なさらなくとも、あなたならモデル界のトップスターになれますよ!」
「いえ、そうじゃなくて…」
「今なら契約金、お安くしておきますよ」
にこにこと笑いながら近づいてくる男に、ころんは辟易する。
「け、結構です! 私、モデルなんてなる気ありませんっ」
「そんなぁ。じゃあ、せめて案内書だけでも、今後の参考として差し上げますよ」
「い、いらないですっ。ほんと結構ですから!」
案内書を押し返し、ころんは駆け出そうとした。
「あ、ちょっと待ってよ」
男の腕がころんの腕に伸びる。ぞくっ、ところんの背筋に悪寒が走った。
「やっ……さわらないでっ!!」
恐怖から思わず目を閉じた。同時にバシッ、と音がする。
触れるかと思っていた男の手は触れることなく、ころんはおそるおそる目を開いた。
「!」
開いた目に映ったのは、倒れゆく中年男の姿――と、
「押し売りってのは、お前みたいなのを言うんだな」
カバンを持った手を、男に向かって伸ばしている相模だった。どうやらカバンで男の後頭部を殴ったらしい。
わずかに目尻に涙を浮かべ、ころんは目を瞠った。
「ななな……いきなり何をするんだ、君はぁ! 営業妨害で訴えるぞぉっ」
地面に手をついた中年男は拳を振り上げ、情けない声で叫ぶ。
相模はぎろっと中年男を睨みつけ、ずいっと中年男の目前に顔を寄せた。
「やれるものならやってみなよ、おじさん。あんたなんかに負ける気はしないね。――それに」
すうっと目を細め、相模は男だけに聞こえるよう声をひそめた。
「この女は俺の獲物なんだ。余計なことしてんじゃねぇよ、バーコードハゲ」
「ひっ。ひぇえええっ」
相模の言いようのない迫力に、中年男は散らばったカバンの中身を拾い集め、逃げ出した。
「そんな度胸もないくせに、訴えるなんて言うなよな。あーあ、新品のカバンなのに、あんな中年男なんか殴ったりしたから汚れた」
カバンをはたきながらひとりごちると、相模はころんを振り返って微笑んだ。
「大丈夫か? ころん」
その表情に、トクン…ところんの心臓が小さく脈打った。
初めて会う人なのに、初めて見る顔なのに、なぜか懐かしさを感じる。
男が近づくたびに走る悪寒も、背中のざわめきも今はない。むしろとても落ち着いている。
(なんなの? この感覚。妙になつかしくて、あたたかい……)
戸惑いながらも、ころんは「あ……うん……」と頷いた。
(最初はイヤな人だと思った。でも、今はちがう。なんだか頼もしくて、そして――)
見つめてくる相模の目を見つめ返すころん。ほんの少し、相模に対する印象が変わった。
「この辺りはあーいう奴が多いから気をつけなよ?」
「うん……あの、さっきはひどいこと言って……ごめんなさい。それと、あり……」
「お礼ならほっぺにちゅーでいいよ」
ころんの言葉を遮り、相模はにっこり笑って頬を指差す。ぴきっところんのこめかみに青筋が立つ。
(………………前言、撤回!!)
ぐっと拳を握りしめ、ころんはきびすを返し、すたすたと去っていく。
「ころん? 待ってよ」
相模はエアバイクにまたがり、ころんに合わせたスピードでころんの横を走る。
「ついてこないで! 何よ、せっかくお礼言おうと思ったのに!」
相模と目を合わせず、ころんは怒鳴った。しかし、相模は気にした風もなくにこにこ笑って続ける。
「だからほっぺにちゅーで……」
「ふざけないでよ!」
「俺はマジだよ、ころん」
「ついてこないでってばっ。それに呼び捨てにしないでって言ったでしょう!?」
さっきまでの頼もしさはどこへ行ったのか。一瞬でも格好いいかもとか思った自分が悔しい。
「この辺りはあーいう奴が多いって言っただろ? だから家までついていってあげるよ」
「家まで!? 冗談! やめてよ!」
「またあーいうのに捕まってもいいの? 今度は助けてやらないよ? それでもいいならいいけど」
ぴくっ。
一瞬、ころんは迷った。だが素直になれず、そっぽを向いた。
「そ、それでも結構です! さっさと帰りなさいよ!」
「本当に帰っていいの?」
「…い、いいわよ?」
「ふーん」
相模はにやっと笑い、エアバイクを止めた。
「じゃあ俺は帰るよ。また明日な、ころん」
「はいはい、さようなら!」
止まりもせず、振り返りもせず、ころんは言った。
しばらくして、ころんはつと止まり、振り返ってみた。そこに相模の姿はない。
(…………)
ころんはふっと表情に影を落とした。
「何…期待してるのよ、バカころん」
(あんな、他人をからかって楽しんでるような人に、期待なんかしちゃいけないのよ)
とぼとぼと歩き出すころん。その時、エアバイクの小さなモーター音が聞こえ、ころんは反射的に振り向く。
振り向くと、ころんの横を主婦らしき人がエアバイクで通り過ぎていき、ころんは内心でがっかりした。
そこへ、横の道から出てきた若い青年がころんに近づいてくる。
「お。そこの君、かわいいじゃん」
「な……なんですか?」
カバンを胸に抱え、ころんは怯え気味に後退する。
「あー、怖がらなくていいって。別に取って食おうってわけじゃないからさ。ただちょーっとお兄さんに付き合ってもらえれば……」
バンッ。
かなり怪しい笑みを浮かべて近寄ってくる青年の横顔に、黒いカバンがどこからか飛んできて、見事命中。
「いって! どこの誰……」
「お兄さーん? その子に手を出したら――俺が許さないよ?」
満面の笑みで現われたのは相模だった。最後だけは、きっちり凄みをきかせる。
青年はびくーっと体を硬直させ、何も言わず撤退した。
「まったく。だから言っただろ? ああいうのが多いから気をつけなよって」
「あ、あなた、どうして…さっき帰るって言ったじゃない! それに助けないって……」
困惑顔のころんに、相模は小さく肩をすくめた。
「何言ってるんだよ。危険だって分かってるのに、女の子一人で帰らせるほど、薄情な男じゃないの、俺は」
「……」
「そんな目を丸くするようなことじゃないと思うんだけど。まあいいや。ほら、行くよ」
「行くってどこへ?」
「……家に帰らないつもり?」
呆れてため息をつく相模。ころんは「ああ」と気づいて、ぽんと手を打った。
「ころんがなんと言おうと、今度こそついて行くからな。危なっかしくて見てられないんだよなー」
ぶつぶつ言いながら、相模は投げつけたカバンを拾い、シート下の収納スペースに放り入れる。
(なんだかんだ言って、助けてくれるんじゃない)
ころんは遠ざかっていく相模の背中をまたも懐かしく感じ、笑みをこぼした。
――自分勝手な奴だけど、
「おーい、次どっち?」
――ほんの少しだけなら、信じてもいいかもね。
丁字路で止まり、振り返っている相模を見て微笑み、ころんは相模のもとへと駆け出した。
「じゃあ、俺はこれで」
「うん。送ってくれてありがとう」
門扉を挟んで、ころんは相模に小さく手を振った。相模はUターンし、肩越しに手を振って去っていった。
「ちょっとムカつくけど、悪い人でもなさそうね」
微笑んで、ころんは家の中に入った。
「ただいまー」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
洗濯かごをも持ったシェルティナが、ぱたぱたと廊下を走ってくる。ちょうど洗濯物を干し終わったところらしい。
「学校の方はどうでした?」
「うん、想像してたより綺麗だし、なんと言っても広いわ! ガイドはあちこちにいるけど、迷子になりそう」
初等部から高等部まですべて含めると、まるで一つの町だ。
「それは大変。しっかりさゆちゃんに見ていてもらわないと」
「そうそう、ユキとはクラスが離れちゃったのよね」
「あら、もっと大変っ。何かあったらフォローできませんね」
「その時は私が出る」
低い男の声がしたかと思うと、何もない空間から変わった風貌の青年が現れた。
青年は中空で両腕を組み、座るように足を組んでいる。
外見は二十代半ば頃だろうか。両目の下から下あごにかけて赤いラインが入っていて、双眸は瑠璃色。
外側にはねている髪は柑子色で、尖った耳の前に垂らされている髪だけが長く、若竹のような色だ。
上部が身頃のみの服を着ており、下部は両脇に大きくスリットが入っている。両側のスリットから見える素足は、ふくらはぎを白い布で覆われている。
「スレイド。最近出てこないと思ったら」
「必要がない」
「相変わらず冷めてるわね」
ころんが肩をすくめる。青年は人間ではなく、人外。それも、人間からは悪魔と呼ばれる種族――魔族だ。
彼は神族であるころんの母・カーレンとは敵対する種族だが、なぜかころんを守護している。
母となんらかの約束をしていたらしいのだが、詳しいことは聞かされていない。
人前では姿を見せず、時々こうして家の中や誰もいないところでは姿を見せる。
口数が少なく淡々としているが、優しいところもあると信じている。
「まあいいわ。何かあったら助けてね。スレイドったら呼んでも出てこない時あるんだもん」
「たいした用でもないのに呼ぶからだ」
「コミュニケーションを取るためでしょ」
リビングに入り、ソファーに座った。スレイドは宙に浮いたまま、あさっての方向を見ている。
まったく、いつもこうだ。返事はするが必要最低限。滅多に目も合わせないし。
「お嬢様、昼食はいかが致しましょう」
シェルティナが笑みを崩すことなく尋ねる。
「そうね……あっ、スパゲッティ! きのこクリームのがいいな」
「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」
ダイニングへと向かうシェルティナ。ほんの数十秒で戻ってきたシェルティナは「申し訳ございません」と、肩を落とした。
「クリームソースが切れてしまっているようで……」
「そうなの? 残念」
「まことに申し訳ございません。わたしの管理ミスです。今すぐ買って参ります」
「え? ないならそれでいいわよ。わざわざ買ってこなくても」
「いいえ、キッチンを任せられている者として、このような事態を招いてしまったことに対し、責任を取らなければなりませんので」
そう強い口調で言うシェルティナに、ころんはため息をついた。
(責任感が強いところはシェルティナのいいところなんだけど、それがちょっと強すぎるから、悪いところでもあるのよね)
ころんはカバンから財布を出しながら「いいわよ。それくらい私が行ってくるから」とリビングを出ようとする。
「いけません……! これはわたしのミスです、お嬢様の手を煩わせるわけには……」
「そのお嬢様が自分で行くって言ってるんだからいいの。確かメルディに売ってたわよね」
「そうですが……ではスレイドさん、いつものように……」
「待って、今日は一人で行くわ」
ころんの言葉に、シェルティナは目を瞠った。ころんはあまり家から出ることはない。
一人で出かけることはまずなく、外へ出かける時はシェルティナか、スレイドが人間の女性に変化してついていく。
それは男に触れてしまわないように、と父が用心のために決めたことなのだが、高学校入学を機に、そういった習慣を終わりにしたいところんは考えていた。
「大丈夫よ。私ももう高学生なんだから、いつまでもシェルティナたちに甘えているわけにはいかないもの」
一人で出かける気満々のころんの笑顔に、シェルティナは不安ながらも折れた。
「ですがやはり心配です。スレイドさんだけはお連れ下さい!」
「仕方ないわね。変化して一緒に行くんじゃなければ」
「それでは……スレイドさん、お願いします」
スレイドは無言ですうっと消える。見えないが近くにはいるだろう、普段のように。
「お嬢様、くれぐれもお気をつけ下さいね」
「うん、いってきます」
気遣わしげなシェルティナに見送られ、ころんは初めての一人での買い物に出かけた。