第九話・「何でそんなことも分からないんだ!」
食器の音だけが、静かな食卓に虚しく響く。
父が料理を作るようになったのは、母が死んでからのことだった。仕事一筋に見えた父も、仕事で一日中家を空けることがなくなった。家庭的な仕事もこなすようになったし、積極的にではないにしろ、僕に声をかけてくるようになった。
ただ、そういったあからさまな態度の変化を、僕は見せて欲しくなかった。
母が死んだから、家庭を大事にすることに気付いた。
母が死んだから、家庭的な仕事をこなすことにした。
母が死んだから、僕とのコミュニケーションをとることにした。
僕はそんな父の変化を望みはしない。たとえ雅の言うことが本当だとしても、僕には、母には伝わらなかった。
伝わらなければ、無意味だ。
けれど同様に、僕が、母が、父の愛し方に気付いていないだけだったとしたら。
「総、味はどうだ」
味噌汁の味が、母の味付けに似ている事が僕はたまらなく嫌だった。僕はその味が感じられないように、一気に喉に流し込んだ。父は僕からの返事が得られないと分かると、自分の食事に取り掛かった。
「ごちそうさま」
「もういいのか」
席を立つ僕に言う。
「父さん」
逆に呼びかけた僕は、背中を向けたまま。食卓だけにともされたオレンジ色の光が、過去の情景を思い出させた。スポットライトの当てられた舞台のように。
「母さんと、どうして結婚したの」
僕が誕生してから、一番初めの記憶は川辺で母と遊んでいる記憶だった。
そこに父の姿はない。
僕が知っている母の記憶よりも、父の知っている母の記憶のほうが圧倒的に多い。それは確かなことだ。それだけに、母を幸せにしてあげられるのは、僕ではなく、父であったことも、僕は悔しいぐらいに知悉している。
母は、僕によくこう言った。
――総は、お父さん似ね。きっと、素敵な男性になる。そうなったら、お母さんをお嫁さんにしてね。
僕は、母が喜んでくれるのなら、と幼心で考え、大きく頷いて見せた。
直後、母が僕を強く抱きしめ、震える胸の中から切ない声を漏らした。
――きっと、約束ね。
母は、泣いていたのだろう。
「父さんは、どうして母さんを好きになったの」
父はただ押し黙っていた。
「…もういい」
僕は部屋に雅を待たせていることを思い出して、話を切り上げる。
もともと、父にはろくな返事を期待してはいなかった。母が死んだときも、そうだった。母が死んで傷ついた僕は、父にきつく当たった。罵詈雑言などは序の口で、父に対して手をあげることすらしてしまった。それぐらいのことをしても、僕は誰にも咎められないと思った。僕が母を亡くしたことの重大さは、誰よりも僕自身が理解していたから。もはや、父に暴力を振るうことも、当時の僕の理性は制止しなかった。
しかし、父は梨の礫で、弁解、反撃はおろか、母のことさえ何も話そうとはしなかった。
ただ、ときどき父が自分の定期入れの中から写真を取り出して眺めているのを見たことがあった。
父の胸ポケットにしまってある二枚の写真。
父はそれをじっと眺めているだけで、特にリアクションはなかった。だから、それが母の写真であるかどうかを確かめる術はない。それがもし、母の写真だとしても、それが僕に作用を及ぼすことになろうか。
いまさら、もう遅い。
母は、仏壇に飾られているのだから。
「高校のときから、あいつは誰よりも綺麗だった。すべてを包み込むような…綺麗な目をしていた」
「それが、母さんを好きになった理由?」
僕は声が震えていた。憤懣が拳に力を与える。
「ああ。私は、あいつを愛してやまなかった」
防波堤が決壊するように、僕の中から怒りが迸った。
「いまさら…いまさらそんなこと言ったって遅いんだよ! 母さんは死んでしまった。もう、戻ってこない! 父さんの愛し方では、母さんに伝わらなかった。何でそんなことも分からないんだ!」
吐き捨てた。
雅の語ることが真実であろうとも、狭量な僕には、それを信じ、父を許すことなど到底できるはずがなかった。長い年月を経て固まったしこりが、一瞬で氷解するのなら苦しみはしない。それができないから、僕は父を嫌悪し、そんな自分自身にも嫌悪しているのだ。
僕は部屋へ戻った。
僕の居場所は、この家にはここしかない。父と共有するその他の空間すべてが、僕は嫌だった。
父が僕を殴り飛ばす気概を持っていれば、違っていたのかもしれない、と思うときがある。
僕の暴言を父は甘んじて受けている。
怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ唇を真一文字に引き結んで、耐えている父。
父が何を感じ、何を思い、何を成そうとしているのか、僕は何も知らない。
それが、父の贖罪なのだろうか。僕のしたいようにさせることが、父の償いなのだろうか。石のように寡黙で、受身な父からは何も感じられない。それゆえ、僕は父の本心を知らない。
僕は、生暖かい空気を取り除くために部屋の窓を開けた。カーテンを空けると、月明かりが差し込んでくる。青白い光の筋は、一直線に僕の部屋に突き刺さる。
部屋を見回すと、雅はいない。
もともと、雅が僕の部屋にいること自体、不思議なことだった。
突然現れては、突然消える。
まるで魔法使いのような女性。理解できない言葉を言ったかと思うと、僕にしか理解できない言葉も発したりする。全てを知悉していて、超然とした、そう、この世の物事全てを見てきた傍観者のような、とても言葉にはできない女性。
中学のときに出会った二条恵理子は、一瞬の輝きを秘めた人。
たった一度出会っただけなのに、僕の記憶に鮮明に残る人。
葉月雅は、まるでそこにいるのが当たり前のような、極端に言えば、体の一部のような、そんな人。
雅との邂逅で感じた懐かしさは、それを裏付けているような気がする。失われた僕の一部分が帰ってきた感覚。相当に異常な感慨を僕は雅に抱いてしまう。嘘をついても、強がっても、きっと彼女には見透かされてしまう。だから、僕は彼女に正直に、素直になれる。
それは、とても素晴らしいことなのだと思う。
雅は、きっと母親のような包容力を持った人なのだ。
「そういえば、雅と初めて会ったのは夢の中だった…」
僕は自然と笑いがこぼれた。ベッドに横たわり天井の模様を漫然と眺める。
「また、夢でも会えるのかな」
まぶたに雅の笑顔が映って、消えた。
読んでくださった方、興味を持ってくださった方、ありがとうございます。ネクタイを締めるのにだいぶ慣れました。そんな作者ですが、これからもよろしくお願いします。評価、感想、栄養になります。