第八話・「慰めて欲しいのね」
何者かに執拗に追われる夢を、いつから見始めたのだろう。
いつだと断定することはできないが、高校入学してからの線が色濃い。
前触れもなく見始めて、そして、気づかないうちにその夢を見なくなっていくのだろうか。
夢などその程度だ。
子供のころに見た夢を、僕は覚えていない。それが当たり前だと思う。夢は記憶の整理のためでもあるのだから、いつまでも覚えていては脳内が繁雑になってしまう。だから、覚えたままでいることにさしたる意味はない。
僕はそう考える。
「ただいま」
僕は玄関のドアを開けた。
暗闇が僕を出迎える。毎日の日課のようなもの。無意味な挨拶。それとわかっていて繰り返すのは、長年そうしてきたから。
この瞬間が、一日で一番嫌いだ。
思い出す自分がいる。過去の思い出にとらわれてしまう自分がいる。
僕は、和室にある仏壇の前に座り込んだ。両足を抱え、写真に写る女性をみつめた。楽しくもないのに毎日僕に微笑み返す。僕はいつか表情を変えるのではないかと、時々、頑として目を離さないときがある。どちらが先に笑ってしまうかを競う、我慢大会の要領で。
結果はいつも引き分け。
母は、微笑んだまま決して表情を崩すことはなかった。
「ただいま」
玄関から、重く疲れた声が聞こえた。
「いたのなら電気ぐらいつけたらどうだ。空気の入れ替えもしないで。蒸し暑くてかなわないな」
「…今、帰ったところだったから」
「夕食はとったのか?」
僕は首を横に振った。
「昨日は俺が作った」
「ん、そうか。今日は父さんの当番だったな。そうだな、何がいい?」
「…別に。何でもいい」
「…そうか」
このやり取りも、日課のようなものだった。
母が仏壇に飾られるようになってからは、僕と父が順番に夕食を作ることになっている。家に帰ると、毎日同じことの繰り返し。
この日々は、退屈以外の何物でもない。
父がキッチンで食事の準備をしている気配を感じながら、僕は二階にある薄暗い自室に入る。電気もつけずに、ベッドに横たわった。停滞した湿気。シーツに顔をうずめながら、僕は子宮にいる赤ん坊のように体を丸めた。
「僕は、何がしたいんだ…」
誰に伝えるでもなく、そっと暗闇に流し込んだ。
ふいに、暗闇が揺れる。
「…!」
「こんばんは」
雅は、僕のベッドに腰掛けると、僕の顔を見て微笑んだ。あわてて体勢を立て直すと、雅から少しはなれてベッドに腰掛けた。暗闇の中では、この距離感が僕にとっては安全な距離だった。
これ以上近づくと、僕はうまく言葉を話せないほど緊張してしまいそうだった。
「どうしてかな…」
雅が僕の横顔をじっと見つめているのに気付いた僕は、急に顔中が熱くなった。もちろん気温のせいではない。
「雅がここにいることが、当たり前のような気がする。本当は、驚いて当然の状況なのに」
「ここにいたい。そう思ったから、私はここにいるの」
「そんなことを言えるのは、君だけじゃないかな。普通の人間は、思ったからって、望んだからって、すべてが自由になるわけじゃない。君が何を望んだかは、知らない。でも、君のように自由になれない人間が、たくさんいるんだ」
「総、それはあなた自身のことね」
静かな薄い闇。うっすらと見える雅の顔。時間の流れが分からない真っ暗闇に暑さが加わり、僕は思考を鈍らされていた。
「僕は…」
自分の手を強く握り締めた。握力を高めていくと手が震え始める。
「僕は、本当は文学部に入りたいんだと思う。自由に文学をやっていたい。こんな無駄な流れを続ける生活は…嫌なんだ。きっと、本当は…」
「慰めて欲しいのね」
僕は、いっそう優しく微笑んでくれる雅にどこか惹かれ始めていた。
自分の気持ちを正直に吐露できる存在。そんなより所となれる彼女に惹かれ始めていた。
「そうだとしたら」
僕はとても寂しかったのだと思う。
「総、おいで」
だから、雅が両手を広げて、僕を受け入れてくれたことが分かると、僕は気がどうにかなってしまいそうだった。胸からこみ上げてくるのは、言葉だけではなかった。
嗚咽や、涙、感情、ストレス。
僕が長年溜め込んだものが、胸から一気にこみ上げてきた。
雅は僕を優しく抱き締め、そっと頭を撫でる。
「よしよし…」
雅の柔らかな胸の中で、僕は誰にも開くことのできなかった胸懐を開くことができる。
「昔…昔、母さんが生きていたころ、今よりはずっとましだった。父さんは、家よりも会社にいるのが好きだったから、いつも僕と母さんを省みることはなかった。僕が家に帰ってくると、母さんが僕を迎えてくれた。『お帰り』って微笑みながら言ってくれた。でも、僕はそんな母さんが悲しかった。夜になると、一人で寂しく泣いている母さんを知っているから。父さんが家に帰ってこないのは、自分のせいじゃないか、って。父さんの写真を見ながら泣いていた。僕にはどうすることもできなかった。母さんを支える力がなかったんだ」
雅の背中を強く抱きしめた。雅は何も言わず、ただ僕の頭を愛撫している。
「でも、朝になると母さんは、夜泣いていたのが嘘のような笑顔で、『行ってらっしゃい』って、僕を送り出してくれた。そんな母さんに僕は、何をしてあげられる? 何をしてあげられた? 何も、してあげられない。してあげられなかったんだ」
母の夜の涙と、朝の笑顔を、僕は鮮明に覚えていた。忘れていく記憶は多々あれど、忘れることのできない母の両極の表情。僕の知らない昼の母も、きっと泣いていたのだろう。
「そして、母さんは、死んでしまった。自ら命を絶って…」
雅が撫でるのをやめて、僕をしっかりと抱きしめなおす。強く、さらに強く僕を抱きしめる。苦しくなるのが、逆に心地よかった。
その強さが、思いの強さに感じられたから。
決して離すまいという雅の気持ちが染み込んできたから。
僕は、そうしてくれることが心地よかった。
「だから、僕は…」
「だから総は、お父さんが許せない。お母さんを苦しめたお父さんが許せない。でも総、すべてが総の思っているようなことではないの」
雅は僕の顔を上げさせ、言い聞かすように言葉を綴った。
「お父さんは、泣いていた。…愛すべき人を失って、悲しい人などいない」
「父さんが母さんを愛していた…?」
「言葉にできない思いがある。言葉では伝わらない思いがある。だから、人はそれを表現するために行動する。総のお父さんは、行動で示そうとした。働いて、誰よりも働いて、そして、家族を幸せにしようとした。不自由なく暮らせるように。でも、伝わらなかった。思いのすべてを人に伝えることはできないから」
僕は雅の鼓動を聞く。一定のリズムで刻まれる、生きているという証。
「静かに周りのものを見て。そうすれば、今まで見えなかったものが見えるようになる。一方が伝えることができないのなら、一方で感じてあげるしかない。お父さんも、お母さんも、総も」
安寧な空間に、僕の意識がスライドする。
「…不思議だ。君の言うことがすべて正しいように聞こえる。何でも知っていて、誰よりも広い心を持っていて…。なのに、こんなにも身近で、肌で感じられる」
雅の匂いが、母の匂いに似ていた。鼻の奥につんとくる、安心感と涙をつれてくることのできる匂い。
「総、私は、あなたの思うような存在ではない。こうしているのは、本来はありえないことなの。私がここにいる理由は、あなたにあなた自身を取り戻させるため。いわば、その使者のようなもの」
苦渋の色を濃くする声色。
「私が存在していられるうちに、可能性が見たい。あなたの可能性を」
ドアの向こうから、僕を呼ぶ声がする。父の声は、夕食の完成を告げていた。
「総、私は、もう…」
父が僕の部屋に近づいてくるのが足音から理解できた。僕は狼狽し、雅の言葉を静止する。
「ごめん、夕食をすぐ済ませてくるから。それまで、ここにいて。絶対にこの部屋から出ては駄目だ。戻ってきたら、もっと話をしよう」
僕は自分の顔を普段の顔に戻すために、顔の筋肉をいろいろ動かし、最後にシャツの袖で顔をぬぐう。憂いを払拭した僕は、部屋に下りた夜の帳の中、雅に微笑んだ。
対して、雅は悲しそうに微笑んでいた。
読んでくださった方、興味を持ってくださった方、ありがとうございます。包容力は、身に付けようとして身に付けられるものではないような気がします。そんな作者ですが、これからもよろしくお願いします。感想、批評、栄養になります。