第七話・「私、あきらめたくない」
「…もしもし? 起きてますか?」
ベンチに座っていた僕を、下から見上げるようにひざを抱えている。僕はどうやら、ベンチに座ったまま居眠りをしていたようだった。
ひどく暑い。
滝のような汗が、僕の肌という肌にまとわり付いていた。眠っていると体温が上昇する、ということを聞いたことがある。しかし、これは異常すぎるほどの発汗だった。暑さによる汗ではない、言うなれば、冷や汗のようなものに似ていた。
「すごい汗。いったいどんな夢を見たらそんなに汗がかけるの?」
僕は汗をぬぐうと、冷静になろうと深呼吸を繰り返した。
「雅は…」
僕は周囲を先ほどの出来事と照合した。
「優美で上品なこと。洗練された感覚を持ち、恋愛の情趣や人情に通じていること」
にこやかに答えるのは、僕を見上げる女生徒。
以前、文学部員勧誘をしてきた女の子だ。つぶらな瞳に、セミロングの組み合わせは、雅とは違ってどこか活発な雰囲気が漂っている。
「いや、違うんだ。そういうことではなくて」
全体的には華奢な雰囲気だが、腕には引き締められた筋肉の張りがある。ただ痩せているのではなく、脂肪を絞り込んでいることからも、活発な雰囲気という僕の読みは外れではないだろう。
「何が? 私、間違ってる?」
僕は、肩の力が一気に抜けたような気分になった。ふと、奥のベンチが視界に入る。仲の睦まじい恋人同士が肩を寄せ合って、会話をしていた。夢であることに安堵感を覚え、思わず微笑んだ。
「ちょっとこっちに来て」
「え、あ、おいっ!」
いきなり僕の腕をつかみ、中庭の出口に歩き出した。
夢の中の出来事が脳裏によみがえる。黒いフードの男が現れ、僕を襲ったこと。雅が僕の手を引いて助けようとしてくれたこと。夢は目覚めるとすぐに忘れてしまうはずなのに、ありありと頭に描くことができる。
傾きかけた太陽の日差し、中庭を駆け抜ける風、芝の質感、ベンチの白さ、そして、雅の手のひらの温かさ。ガラスの砕ける音、フード男の下卑な声、雅の切迫した表情、僕の叫び、そして、最後の瞬間に聞こえた、あの少女の声…。
「忘れてるでしょう」
僕の手を彼女が離したのは、文学部の部室の前まで来てからだった。引っ張られていた腕がひりひりする。女性にしてこの握力はいかがなものだろうか。
「総、忘れてるでしょ…」
僕を甘えた瞳でみつめる。
この瞳を見てしまったら、僕は断ることができなくなりそうだった。そう確実に言えるほど、この女生徒は男性の心をくすぐるものを、たくさん持っていた。
「忘れていたというか、思い出したくなかったというか」
僕はあからさまに目をそらす。
「覚えているならどうして来てくれないのよ? 文学部を見学するってそういう約束だったじゃない」
「でも、それは先生から半ば無理矢理…。それに、さっき顧問の先生に入部の意思はないって断ってきたし」
「そうであっても、約束は約束でしょ。はい、さっさと入った入った」
僕は強引に背中を押され、部室に連れ込まれた。
連れ込まれたというのには語弊がある。反抗するつもりならいつでもできた。
しかし、あえてそれをしなかったのは、どこか必要とされることに満足感を覚えていたからだった。
部室は長年の伝統などは見る影もないくらい狭隘で、本やプリントなどが散乱していた。
でも、僕はこの空間に嫌悪感を抱いたりはしなかった。中学校のときの部室もこれと同等であったし、何よりこの本やプリントなどの紙類が乱雑にされているのは、僕の好きな空間のひとつだった。
そう、僕は紙の匂いが好きだ。
中庭の空気のにおいも好きだ。
雨上がりのあぜ道の匂いも好きだ。
ただ、同じ雨上がりでもアスファルトのにおいは嫌いである。
とにかく、僕はこの紙で混雑した空間に埋もれることが好きな人間だった。だから、嫌悪感は微塵も抱かなかった。
しばらく部室を眺めていた僕は、自分が再びこの世界に引き込まれつつあることに気付き、頭を振った。
「そんなところに立っていないで、座ってよ」
僕を向かいの椅子に促す。
「それじゃ、はじめに、これどうぞ」
僕にプリントの束を渡す。表紙には部活紹介と銘打たれていて、一枚目は主に活動内容と実績が記載されていた。
「活動内容は、小説、評論文、俳句、短歌、など多岐の分野にわたる文学作品の執筆。月に一度の月刊誌の発行…」
「本当は、隔週にしたいんだけどね」
残念そうに、僕の音読に補足する。
「月刊誌の発行の翌週には、各部員による批評。優秀な作品は、文学賞への応募もある。年一回、文学誌の発行が文学部としての目的であり、部員の主眼はここにあるといってもよい」
うんうん、と頷きながら僕の音読を聞いている。
「実績…」
僕は読むのが面倒になって黙読に入った。
県文学賞の連続受賞記録、有名文学賞の受賞実績、文学部から輩出された小説家の記録…。
「どう? すごいものでしょう」
「そうだね」
僕は、次のページをめくった。そこは、部員紹介だった。
「部長、和泉恵理子。一年…。は? 一年?」
僕は目を疑った。そして、目の前にいる女生徒を疑った。
「これ、いつの部活紹介?」
「二年前」
「何だ…」
「嘘。今年の」
「…」
僕は嫌な予感がして部員紹介を読み進めた。
「好きな本、太宰治、武者小路実篤、谷崎潤一郎など。趣味は執筆に映画鑑賞。特技、小説を書くこと。最近気になっていること、文学部の部員が少ない。好きな食べ物、焼肉。特にタン塩…」
一枚のページに長々と自己紹介が書かれていることと、自己紹介のページ数がとても薄いことから、僕は心配になってきた。この部の未来もそうだが、部長の今後も。
「スリーサイズ、上から…」
僕は、そこまで言って無性に悲しくなってきた。窓に透き通る落陽と、文学部の落日が重なって見えた。部室が暗くなっていくのは、落陽のせいではないような気がした。
「聞きたくないんだけどさ」
「なら、聞かないで。私も、結構感じているんだから。もう少し色をつけてもいいわよね。そうでもないと、部員増えないよね。やっぱりか…。色気で部員を増やそうという考えが、そもそもの間違いなのかも」
「…」
「え、違うの?」
僕は少し大げさにうなずいた。
「俺が聞きたいのは、総部員数は何人なのかなって」
僕は問い詰めるように彼女に迫った。取調べをする警官と、被疑者のやり取りに似ていた。
「実は…」
急に、歯切れが悪くなり中央においてあるテーブルに文字を書き始めた。
「バストを二センチほど割り増しに書きました」
僕は帰ることを即決した。
立ち上がり椅子を戻すと、入り口へと向かった。紙の匂いは名残惜しいけれど、僕にはその残滓で十分だった。もはやこの紙の匂いで充満した部屋にはいまい。思ったとおり、部の状態も芳しくないようだし、厄介ごとに巻き込まれるのだけは避けたかった。
「総、お願い」
僕のシャツを引っ張って、追いすがってきた彼女を、僕は羽虫を追い払うように振りほどくと、彼女は傷ついたような顔をした。
電気をつけていない部室は、泥棒に物色された部屋にしか見えなかった。
僕はさすがにかわいそうになった。胸の奥にとげが刺さるとともに、僕の無慈悲な行為を何度もリプレイして反省する。
「ごめん」
僕はそれだけ彼女に届け、沈黙するしかなかった。部室の空気はよどんでいる。窓はあるが開けてはいない。いつの間にか汗は乾いていて、涼風が遠くからほんの少しだけ駆け込んできていた。肌で感じられるほど、僕は神経を周囲に張り巡らせていた。
彼女の動向が気になって仕方がなかった。
僕以外の男なら、おそらく彼女の気を引くために優しい言葉をかけたり、二つ返事で入部してしまったりするだろう。
でも、僕にはそれができなかった。
彼女は確かに誰から見ても、端麗な容姿を持っている。それだけに、僕は彼女が信じられなかった。僕である必要が感じられなかった。僕を真っ先に勧誘するほどの優先性を、僕は持っていない。過去に文学賞受賞という経歴はあるけれども、それは文学部の現在の問題に合致しないのだ。
今の文学部に必要なものは、あくまで部を存続するための部員であり、即戦力ではない。
だから、彼女がこんなに苦労してまで僕を誘う理由が分からなかった。彼女ほどの人間なら、僕以外の部員を探したほうが断然早い。
それだけは間違いなかった。
「総、私…」
考えれば考え込むほど馬鹿らしくなってきた。少しでも僕が必要にされていると早合点して、天狗になりかけていた自分に。
「それに」
僕は自己嫌悪の呪縛から解き放たれようともがくあまり、苛立ちと焦りを同時に声に出した。それは、誰が聞いても、苛立ちのほうが優先して聞こえてしまう声だった。
「俺の名前を知っているだけならともかく、どうしていきなり呼び捨てなんだよ」
思い起こせば、出会った直後から変だった。
彼女、和泉恵理子は、僕が廊下を歩いていると、急に驚いたように声を上げ、僕の名前を呼び捨てにした。そういう些細な事にこだわらない性格なのかもしれないが、僕はそうではない。どちらかと言えば、些細なことでも過敏に反応してしまう性質だ。
彼女は僕をいきなり廊下の真ん中で呼び止め、文学部のことを話し始めた。
僕は、廊下の真ん中、公衆の面前ということもあって、恥ずかしさのあまり文学部への見学を承諾してしまった。
僕が文学部だった、ということを周囲に知られたくない。
その気持ちの答えが、部活見学の承諾につながっていた。
僕の承諾を聞いた和泉恵理子は、太陽のような燦々とした笑みを残して教室に戻っていった。それを見た巧は、かなりうらやましそうにしていた。
「俺は君に会うのはこれで二度目なんだ。なんというか、急に親しくされても、正直どうしていいか分からない。君は関係ないのかもしれないけど、俺はそういう人間だから」
「…そう、だね。二度目なんだね…」
一気に彼女の語気がしぼんでいくのが理解できた。可憐な花が一夜で枯れていくように。
僕はいよいよ彼女を振り向けなくなった。振り向いたら最後、僕は世界一最低な男の烙印を押されるような気がした。
もう、すでに手遅れなのかもしれないが。
「総…ううん、総君」
呼び捨てにする癖が付いているのか、君をつけて改めて呼びなおした。
「私、あきらめたくない。あきらめない、から」
僕の背中をそっと撫でた声は、涙に濡れている気がした。彼女は僕の隣にそっと並び、静かに追い抜き、そのまま廊下の角を曲がって見えなくなった。
僕は開けっ放しの部室の前で、呆然と廊下のしみに目を泳がせていた。
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