最終話・「愛は地球を救う」
あれから、僕は夢から覚めた。夢の中での出来事がまるで嘘だったかのような現実が始まった。でも、本来の夢とは違って、その出来事のことは忘れていない。雅との誓いも、総との和解も、すべてきちんと記憶の中で生きている。もちろん、その後も夢を見るし、時々、総と会ったりもした。
――少し、別の時間に寝ろ。俺はお前の夢なんて見たくないんだよ。
ぶっきらぼうな言い方だったが、結局、いろいろなものをイメージして競い、そして、今後のことを話し合ったりした。
いつでも総は母親の病気のことを気にかけていた。補完することで母の病気を治すことが出来れば、というのが彼の補完への動機付けだった。申し訳なさもある。少なくとも補完のほうが希望をもてたかもしれないからだ。でも、総はそんな僕の顔を嫌った。
――俺は俺の意思でそうした。母は俺が救う、それだけだ。補完なんて言っても、結局は努力の賜物なんだ。やってみせる。
総は分かっているのだ。補完して能力が上がったとしても、それは上限だけで、上限に到達するには、たゆまぬ努力が必要なこと。オリンピックメダリストも、ノーベル賞受賞者も、世界的企業の経営者も、人一倍努力した結果なのだ。
総とは何度も戦ったが、それが彼の強さだということを、いまさらながらに理解できるのだった。
――そして、不完全だからこそ、完全を目指せる力がある。俺はそう考えることにした。
もうひとつの世界で生き、同じものを持っている。でも、はやり根本的なところは違う。劣性、優性ではなく個々の人間。理想の友人。
これからもその関係が続いていけばいいと思う。これからも、ずっと…。この星を救うための、お互いの世界を救うための架け橋として。
「何をしてるの?」
和泉の声がそばから聞こえた。奇妙奇天烈な珍獣でも見るような、痛い視線のおまけつきだ。
「愛を確かめているんだ」
芝生にべったりとうつ伏せながら言った。校舎の真ん中にある中庭の芝生に、僕は太陽の光を浴びながら横たわっている。両手両足を広げられるだけ広げ、大地から伝わってくる温かみを感じている。
「こうしてみると分かるけどさ、結構、地球ってあったかいんだよ。これって、地球が僕たちに注いでくれる愛だよね」
「北極で同じことを言ってみれば?」
和泉は呆れた風に鼻で笑った。
「ま…それも含めて、総らしいといえば、総らしいんだけど。……ね、それより小説、まだ書き終わらないの?」
白いベンチに腰掛けながら、和泉は何気ない調子で聞いてきた。最近、和泉は毎日のように僕の小説の執筆状況を聞いてくる。それだけ楽しみにしているというのが感じ取れた。
僕は、他人から見れば珍妙な格好をやめて、和泉の隣に腰掛けた。距離は、少し近い。
「もう少し、かな。僕の気持ちとか、たくさん詰め込みすぎて、収拾がつかないというか…。筆力の問題なのかな。僕自身の」
「そっか」
和泉が僕との距離を少しずつ詰めてきた。僕はそれに気づいて心臓が大きく跳ね上がった。
「俺…って言わないんだね」
「あ、まぁ…ね」
「それって、私だから、かな」
また少し接近する。僕の心臓の回転が一層速くなる。
「僕、って使いたくなかったのはさ、単に甘えているような響きが嫌だったからなんだ。母さんとのことが頭から離れなくて、僕って使っただけで、思い出してしまって。だから…無理にでも俺って言おうとしていたんだ。ただそれだけ。過去から逃げようとしていただけ」
「私だから、じゃないんだ…」
拗ねたように口を尖らせる仕草はかわいいと思う。僕はその姿にドキドキさせられながらも、ベンチに預けた腰を上げた。
「さて、帰ろうか」
放り投げてあった自分のバッグを取り、出口へと歩いていく。ついでに、ベンチの脇に立てかけてあった和泉のバッグも持っていく。和泉はしばらく白いベンチに座りながら足をぶらぶらさせていたが、
「総らしいといえば、総らしいんだけど。総らしくないと言われれば、総らしくないような気がする」
と言うと、小走りに僕の横に並ぶのであった。
「総ってさ、どうして私のこと名前で呼んでくれないの?」
僕は困った。正直に話すことには羞恥があった。僕の中の甘酸っぱい思い出。和泉に聞かせたらきっと馬鹿にするだろうと思ったからだ。
「理由、あるんでしょ?」
「…笑うなよ」
でも、僕は注意を喚起して心を決めた。
「昔、授賞式で会った人がさ、その人が恵理子って言う名前だったんだ。ただ、それだけ」
バスを降りて自宅へと向かう。
「それ初恋?」
「まぁ…そんなとこ」
「だから、その人と同じ名前だから、意識しちゃう、と」
「まぁ…そんなとこ」
「……私…な…けどな」
「え?」
僕はほとんど聞き取れなかったその言葉が気になった。が、和泉は取り合ってくれなかった。
「その子に負けないように、私も頑張らなきゃね。そして、その子に勝ったと判断した時点で、総は私のことを名前で呼ぶこと! いいわね! 約束!」
自宅に向かう僕を追い抜いて、くるりと振り返る。
「私はこの約束を絶対に忘れない、だから…」
過去の光景がリフレインする。
「総も、忘れないで!」
輝くような少女の顔が、笑いかける和泉の顔と重なった。そして、僕は、無意識のうちに微笑んでしまうのであった。
到着した玄関前。僕はドアノブを握ったところで躊躇する。
「…どうしたの? 入らないの?」
和泉が小首をかしげ、ドアノブを握ったまま逡巡する僕に問いかける。
「いや、開けるけど。開けるんだけどね…」
「どうしたの? 歩いて疲れちゃったんだから、お茶のひとつでも出してよ」
僕がいつまでもドアを開けないことに痺れを切らした和泉が、僕の手を払いのけてドアを開けてしまう。はっきり言って。
…僕は気が進まなかった。
「総、お帰りなさい」
私服姿の美しい女性が、慎ましやかに三つ指をついてくる。
「その…ただいま。…雅」
さて、どこから話したものか。少し整理しなければならないようだった。
「な…ど、ど、ど、どういうことよおおおおおっ!」
和泉という人間には。
テーブルに座って事情を説明する。僕と和泉は隣り合い、向かいには雅が姿勢を正して座っている。姿勢が崩れる様子はない。美しい造型の芸術品のようだ。ころころ姿勢を変える和泉とは大違い。
「それで、彼女が噂の夢のプリンセス?」
「うん…まぁ、そうなるかな」
雅がここに居るのにはリスクが伴う。この星そのものということが周囲に知れれば、それだけで大変なことになるだろう。信じることがそもそも大変なことだと思うが…。そんなリスクを犯しても雅がここに居ようとする理由。
「総は、愛を確かめる方法を教えてくれた。だから、私も確認したくてここにいます」
「へ〜え…言うわね」
こういう事態になることは、不可避だったとはいえ、どうやら事態は思った以上に複雑なようだった。
「で、その夢のプリンセスがどうして、この家に住めるわけ? お父さんはいきなりこんなことになって、許すわけないでしょ?」
「いや、父さんは納得してくれたよ。特に揉めることもなかった」
「く…」
唇を噛む和泉。和泉が僕との距離を極端に縮めてきた。心臓がドキドキしている。意味は、まったく逆だが。うまくはいえないが、緊張と、恐怖だろうか。
そのとき、玄関から物音がした。
「父さん、かな」
僕は険悪な雰囲気のこの場を去る。特に父と話すことなどなかったが、逃げる手段としては効果的だと思った。
「着替えを取りに戻ったんだ。すぐに会社に戻る」
父は僕が近くにいるのを知ってか、そう言ってきた。すでに手にはボストンバッグがあり、着替えが入っているようだった。おそらく、女物の靴が一足増えていることに気を利かせて、隠密行動をとったのであろう。
「…そう」
胸にこみ上げてくるものがあった。父の見えない気遣いを、僕は今、見ることが出来たような気がした。
「夕食、作ったのか?」
「いや」
「よかった。それじゃ、総、戸締り頼む」
寂しそうな父の背中。
「…と、父さん」
靴べらを靴のかかとに滑り込ませながら、父は僕の声に耳を傾ける。
「…明日は、早いの?」
静止する父。
「今ぐらいには、帰れるはずだが…。そうか、邪魔なら、もう少し遅く帰ってくる。空気を読めなくてすまんな」
雅と和泉のことを言っているのだろうか。父は、済まなそうに、そして残念そうに、かかとを革靴にねじ込んだ。
「…父さん。夕食、何がいい?」
立ち上がろうとした父が、また静止した。
「……」
「作っておく。何がいい?」
薄暗い玄関。
「…お前が作ったものなら、何でもいい…。いや、肉じゃがを頼む」
父の声は、少しだけ震えて聞こえた。
「わかった。じゃ」
肩越しに玄関口の父を見ると、父は自分の頬をこれでもかというぐらいつねっていた。
「…夢では…ないな」
父はひとりごちると、立ち上がって肩を大きくゆすった。肺に溜まったしこりを吐き出し、玄関の扉を勢いよく開けた。足取りは、母が生きていた頃の父そのものだった。
そんな父を見て、少しだけ、少しだけ、嬉しくなった。色々なことがあったおかげで、今は父の悲しみが、愛情表現が、僅かだが理解できる。僕が少しだけ歩み寄れば、気づくことのできる不器用な愛情。だから歩み寄ってみようと思う。
一歩、踏み出してみようと思う。
今さら、ではない、今から、なんだ。
和泉に原稿を渡してきた帰り道、僕は巧と別れ、駅前を歩いていた。
和泉は僕の原稿を受け取って非常に嬉しそうだったが、印刷の作業を抜け出してきたことで、今はきっと怒っているだろう。巧も、そのことについては深く同意していた。しかし、そんな巧も、原稿をちゃんと提出しているのだから、どこか文学部に魅力を感じているのだろう。僕はと言えば、文学部員であることに劣等感を感じることはなくなった。書くことで、この星の危機を救えるのではないか。小説を書くことで誰かに星の叫びを伝えることが出来るのではないか。そう考えるからだ。
補完を捨てて、今の僕を生きる。総がそうしたように、僕も僕の戦いをする。その手段が、小説を書くことだ。
僕は自分の背中にのしかかる責任という荷物を抱えなおした。心なしか、自分の身が重くなった気がする。
しかし、その責任が僕の足腰を強くする。
僕自身を強くしてくれる。
大切な人を守る力をくれる。
「募金お願いします!」
駅前で募金活動している女の子の声が聞こえる。
黄色い服を着た団体。僕は、それに近づいていって、財布を広げる。今月の懐事情には厳しいものがあるが、それでも、僕は樋口一葉を募金箱に入れた。募金箱をぶら下げた小さな女の子は、大きな声で、
「ありがとうございます」
と笑顔で言っていたが、その隣の大人は、僕の大盤振る舞いに目を丸くしていた。
「どういたしまして」
僕は、その子の頭をなでる。僕が財布をしまって歩き出すと、女の子は背中に向かって、ありがとうございました、と、もう一度大きな声で言った。
踏み出した夏の太陽は、夕方になっても人々を茹で上げようと必死で、歩く人はどこか気だるげだった。
僕は、遠くで聞こえる女の子の募金活動の声を聞きながら、箱に書かれていた一文を思い返していた。
その募金箱には、大きな文字で、訴えるようにこう書かれていた。
――愛は地球を救う、と。
【END】
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。ひとまず、この物語はこれでおしまいです。文学とはなにか、家族とはなにか、愛とはなにか、少しでも伝わっていただければ、それにまさる喜びはありません。評価、感想、栄養になります。