第二十九話・「世界が一番好きなんだ!」
「自分を哀れだと思った。自分の哀れさに涙を流したのは生まれて初めてだった…」
今でも、自分自身の哀れさを強く感じる。存在することの希薄さを感じる。生きていても、死んでいても、その価値は同義なのではないか。厭世的になる感情の渦。体中から噴出してくる黒い倦怠感。
漆黒の、鈍重な闇に飲み込まれそうになる。
「…でも、その涙を拭いてくれた人がいた。自分の悲しみを後回しにして、背中を押してくれた人がいた。そして…」
僕は、すぐそばでたたずむ雅を見つめた。
「何よりも、愛していると言ってくれた人がいた」
今にも崩れ落ちそうな心の中にある、一筋の光。
「そして、失いたくなかったものに気がついたから」
たった一人の家族。母が愛した父の存在。
「だから、素直に死んでやる気はない。そう言いたいのか?」
僕は、うなづかずに総を見つめ続けた。
「その目がすべてを物語っているようだな。だったら、この殺し合いは――」
「殺し合いじゃない」
僕はこぶしを握り締めた。足に力を入れた。この場にしっかり踏みとどまっていられるように。意思をしっかりと持っていられるように。責任に押しつぶされてしまわないように。
「僕たちは、助け合わなくてはいけない」
支えきれないほどの重圧が、今このとき、僕の双肩にのしかかった。
「総…何を言っているの?」
吟味するような瞳で僕の述懐を見ていた雅の眉間が、困惑のしわを刻んだ。
「あなたは、何を言っているの?」
「……」
決して会話に口を挟んでこなかった雅の介入に、注視する総。何かを言いたそうな口をつぐんで、雅と僕の会話の行方を探ろうとする。
「そのままの意味だよ」
「…分からないわ。その言葉が。助け合う? その行動に意味はない」
「補完することで、人間が本当の人間としての力を得られる。それは、世の中を動かすほどの力なのかもしれない。世界新記録や、大発明を成し遂げられる、偉大ものなのかもしれない」
「そう。そして、その力をもってして、あなたたち人間にとっての真価が試される。私がそれを見届けて、この星にとって本当に必要なものかを、この星を救うに足る存在かを見極める。そのための補完」
僕は、雅の両肩に手を乗せた。
「そうじゃない」
気でも狂ってしまったのか、と言わんばかりの表情で僕を見つめる雅。
「そうじゃないんだ」
僕は周りを囲む総を気にも留めず、雅に優しく迫った。
「補完をすることと引き換えに、何かを犠牲にする。それは当然のことなのかもしれない。何かを犠牲にすることによって何かを得ることは、当然のように聞こえる。でも、それは間違いなんだと思う。僕は、いろいろなものを失った。かけがえのないもの、二度と戻らないもの…。でも、得られるものなどなかった」
母の姿が僕の脳裏に立ち上がる。
「何かを犠牲にしなければ、何かを得られないと、考えてしまっているから…失うことに、犠牲にすることに納得してしまっているんだ。手に入れるためには仕方がない、そう思い込むことによって、自分に対する言い訳を考えている」
「…詭弁だな」
静寂に一言。平静だが、怨嗟すら加わった総の言葉。
「…分からないわ。補完の力は、総が思っている以上に強大なものよ。理想を簡単に成し遂げることのできる力を得ることができる。人々がうらやんでやまない、最高の力を手にすることができるのよ。歴史に名を残すことだって…」
雅は首を振って僕の意思を否定しようとする。
「なら、雅…。そうだとするなら、雅…」
僕は溢れ出そうになる感情をせき止める。
「母さんを取り戻すことができるのか?」
僕は世界中の誰よりも、母が大好きだった。一番近くにいてくれた人である母。身体的な距離だけではない。その心と心の距離においても、最も近くにいてくれた人だった。
「僕が補完することで、母は帰ってくるのか? 死んでしまった母を取り戻すことができるのか?」
雅は取り乱していたのを忘れ、押し黙った。総もまた、押し黙っている。
「雅…補完は、君が思っているほど万能ではないんだ。人間は、たとえ補完しても、不完全なままなんだよ」
僕は諭すように優しく語りかけた。
「…確かに、一度失われてしまったものを取り戻すことはできないわ。私のこの体は、一度失われたものの情報を元にコピーしたものだから。失われてしまったもの、そのものではない」
僕の瞳は雅を捕らえて離さない。
「でも、総…あなたは自分が言っている言葉の意味がまるで分かっていない」
雅の瞳が強烈な光をともす。それは、相手を射殺すことのできる強さを持った光。間近で目を合わせる僕は、その瞳だけで気圧されてしまう。
「人の可能性を否定することは、人の存在意義を否定すること。補完を否定することは、世界を、私を否定することなのよ。私は、私が作り出したすべての生物の中でもっとも可能性を秘めた生物として、あなたたち人間を指定した。補完することで可能性を見出せないのなら、この行為すら無意味だわ」
「そうなんだ。だから、僕たちは争ってはいけないんだと思う」
「そう…ね」
雅の力が抜けていく。僕の意志を否定する気力が抜けていく。
「争うことはもう無意味ね。最後の希望だったのよ。あなたたち人間にかけることが…。傷を負ったこの星を、私を救う最善の方法は…」
「…雅?」
力の抜けた雅にまとわりつく嫌な雰囲気。
「もう、駄目なのね。総…」
目を伏せてくぐもった声を出す。表情が読み取れない分、その異様な声が威圧となって、ひしひしと伝わってくる。
「希望が潰えた以上、もう一度世界を白紙に戻さないと駄目なのね。あの氷河期のように」
「な…」
僕の声と、総の声が重なった。声に込められた驚愕すら重なっていた。
「愛しているのに…。こんなにも、総を愛しているのに…」
肩を震わせ、悲しみに震える。しかし、声の質が変わることはなかった。裏切られたことに対する、怨嗟。
「それなら、一度白紙に戻すなら」
信じていたもの、愛していたものに裏切られたという傷心が、今、極限に高まりつつある。
「いっそ――私があなたを」
そのとき傍観を決め込んでいた総から怒声があがる。
「待て! 雅! 俺はまだ人間の可能性をあきらめてはいない! 補完することで、俺はお前を救ってやることができる! まがい物の言うことなど、信じるな!」
「そうじゃない、雅! 僕は、僕が言いたいのは!」
総が隣のビルから跳躍した。僕もあわてて雅を制止しようとする。
が、雅を捉えることはできなかった。手を伸ばした体勢のまま、僕は着地してきた総と向かい合う。
「どういうつもりだ!」
胸倉をつかんでくる。顔は僕と同じものとは思えない、怒りで満ち満ちている。
「お前は…! 自分が何をしたのか分かっているのか!」
「…分かっている」
「殺されるぞ」
「させない」
総は胸倉をつかむ手を離して、僕を突き放した。
「人が補完を成し遂げなければ、完全になれない存在だなんて、僕は認めない。人は、僕たちは、それぞれの世界をそれぞれの力で何とかしなければいけないんだ! 補完に頼ることなく! 僕は、それを雅に…この世界に伝えなければならない。間違っているんだ」
「詭弁ばかりのうのうと…!」
「詭弁かもしれない。でも! まだそれを詭弁だと、証明する行動をしていない! それを、僕はこれから証明する。雅を止める。止めてみせる」
僕は苦虫を噛み潰したような総に、強い意志の言葉をぶつける。
「僕は、雅が――」
だが、言葉の最後は強風によってさえぎられた。消失し、見失った雅が空中に浮遊し、こちらに手のひらを向けている。
生暖かい風が、頬を掠めた時、僕は自分の死が迫っていることを直感した。印象的に残っていたのは、彼女の凍てつくような無表情と、死を宣告する、長く細い指ときれいな手のひらだった。
巨大な衝撃がこの夢の世界の建造物を簡単に吹き飛ばした。衝撃波だったのか、爆発だったのか、いずれにせよ、生暖かい風を押し出して襲ってきたのは、破壊の波動だった。ビルの窓ガラスは粉砕され、芥子粒が彼方へと飛ばされた。ビルを形成していたコンクリートも、窓枠も、その形態を維持することもできずにぼろぼろと崩れ去って、隣のビルにのしかかる。半身を失ったビルには、もはや自重を支えるだけの力は存在していなかった。ガラガラと瓦礫を吐き出して倒壊していく。噴煙が四方八方を覆っていく。
僕はそれになすすべなく飲まれていくしかなかった。とっさに、イメージした強固な盾も鎧も――この状況下でイメージできたことに驚きだが――彼女の圧倒的な力の前には無きにも等しかった。
これが、雅。これが、星の力。
粉塵で周囲を塞がれる。風切る音で落下速度が感じられる。何の抵抗もしなければ、このまま僕は地面に激突するだろう。夢の中であっても、精神の死は肉体の死を意味する。死を理解した脳は、その指令を体にも伝えるだろう。
活動の停止。死の指令。
僕は、死ぬ。
それは僕を取り巻く全てのものからの別れ。悲しむ必要もない。もちろん悲しんでもらう必要もない。篠崎総は、誰の記憶からも消え去ってしまうのだから…。
――頑張れ。
和泉の声が聞こえた気がした。
――命尽きるまで。
そう言って突き上げた手の力強さを思い出した。
――総がいなくなっても、私は悲しむ暇もないんだから。悲しむこともできないんだから。
笑いがこぼれそうになった。
「和泉、君はそこにいるのかな」
声が聞こえたからそう感じた。
和泉は僕の近くにいて、涙をこらえて僕の生還を祈っている。
自分の悲しみ、辛さをこらえて、応援をしてくれた和泉。
彼女の言った通り、僕は何も分かっていない。自分のことばかりで、他人を思いやることもできなかった。父に当たり、和泉に冷たくし…果ては、雅に甘えた。辛いのは僕だけではないのに。僕が世界で一番辛いと思い込んでいた。世界である雅ですら苦しんでいたというのに。
「雅…」
だから。
「愛してる!」
だから僕は。
「君を救ってみせる!」
胸いっぱいに広がった愛の衝動がみるみるうちに溢れていった。
「僕は君が、世界で一番、いや――」
雅という女性を、この世界そのものである、この星そのものである君を。
「世界が一番好きなんだ!」
起死回生のイメージ。
瓦礫を吹き飛ばす。周囲のすべてを。この体にまとわりつくすべてを吹き飛ばすイメージ。瓦礫が僕におびえるかのように遠くへと吹き飛んでいく。視界がクリアになり、雅の姿が角度の関係でビルの陰に隠れる様まではっきり見えた。
だが、それまでだった。
膨大なイメージの作成に全力を注いだ結果だった。人のイメージにも限界はある。脳の能力には限界がある。人の思考回路では、百の難題を同時に解決することなど不可能。短時間にとなるとそれは不可能をさらに二乗するくらいに不可能である。僕も、その例外にもれることはできなかった。瓦礫を取り除くイメージで精一杯。
もう地面は目の前。
僕は、瓦礫のなくなった地面へ仰向けに激突した。
「……おい」
僕の声がした。
「夢の中でまで寝るな。夢から抜け出せなくなる」
僕であって、僕でない声。夢でつながったもうひとつの世界にいる僕の声だった。
「目を開けろ」
「……総?」
地面に目を落とすと、そこは瓦礫を払拭したむき出しの地面ではなく、特殊な緩衝材になっていた。
「…これは?」
体を起こして総を見る。総は、ばつが悪そうに雅のいるであろう空に視線をくれていた。
「雅は世界の白紙化を望んでいるんだ。お前が死んで俺が補完を完了してもそれは変わらない」
雅の索敵を止めて振り向く。従うようにコートの裾が揺れた。
「ならば、お前が生きていることを利用しない手はないだろ」
「…」
「雅は…星はお前を愛したんだ。お前をその手で殺したいと思うことは、異常でも理解できると思わないか」
「だから、僕を助けた、と? 僕が殺されない限り、雅は僕たちの夢から出て行かない、と考えたから?」
鼻を鳴らしてそれを肯定する。よくできた、と言わんばかりだった。
「俺は救うべき人がいる。世界を、大事な人を消し去らせるわけにはいかない。補完は、その後でもいい」
雅は交差点の真ん中で立ち止まり、こちらを見ている。何度も夢の中で会った、優しい瞳は影を潜めている。
「…分かった。でも」
僕は総の背中に従う。
「僕には補完の意思はない。雅を説得して、そして、世界も救う。総の母親だって救えるはずだ。自分たちの世界だけが救われればいいと…そういうのは嫌なんだ! …互いに出来ることを、互いのいる場所ですべきなんだ!」
僕の言葉を聞いて立ち止まった総が、ビルの上でそうしたように再び胸倉をつかんでくる。顔と顔が限界まで近づく。僕はその総の迫力に負けじと眉毛に力をこめた。
「まだ、全力じゃない! 人はこんなものじゃない! できる限界までしていない! 僕も、総も!」
しばらく火花を散らした後、総は僕を解放した。
「…考えておく」
「総…」
「ついて来い。人の力が本当に試される」
総の背中は頼もしかった。その背中を持っているのが、もう一人の僕であるということ。
そんなことが、自分のことのようにうれしく感じられた。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。これからも頑張りますので、よろしくお願いします。評価、感想、栄養になります。