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第二十七話・「思慕のすりかえ」

 港のコンクリートに放置された網。船体の塗装がめくれ上がった漁船。巨躯に黒いタイヤを巻きつけた船が、港に接岸されている。早朝に活気付くであろう魚の取引市場は、日中は廃墟同然だ。

「あんなことがあったあとでも、きちんと眠れたんだな…」

 歩けば僕は思い出す。

「でも、これは…」

 数多くの尊い思い出を。

 この海は、心の琴線を爪弾く力を十分に持っていた。母の実家には数えるほどしか行ったことがない。それでも、僕がこうして覚えていられるのは、過去が美化されているからなのかもしれない。美化された美しいものほど、記憶に残るものである。

 僕は防波堤に腰掛けながら、想像の及ばない水平線の向こうに視線を泳がせていた。

 潮の匂い、波の緩やかなうねりが、僕を幼少へタイムスリップさせる。

 ――あなた!

 母の甲高い声が防波堤に響く。波間には防波堤から足を滑らせた子供が手足をばたばたさせて、何とか海面にとどまろうと必死にもがいている。母の悲鳴を聞きつけたのか、遠くから父が満面に危機感をみなぎらせて走ってくる。母の表情は、まるでこの世の終末を見ているかのようだった。

 母は松葉杖を手放して、その場にくず折れた。このときの母は足を骨折していた。そのため海に飛び込もうとする意気に、足がついていかない。それでも母は、思い通りに動かない足を叱咤して、防波堤から身を乗り出す。腕をあらん限りに伸ばし、子供を助けようと死力を尽くす。届くはずのない距離だが、子供もそんな母に触発されてか、母のほうに腕を伸ばす。二人の手が互いの手をつかもうと迷走する。

 ――やめろ! お前まで落ちるだろう!

 今にも海に落ちそうな体勢の母を引っ張り上げると、父は一縷の躊躇もなく、海に飛び込んだ。子供のすぐ傍に水柱が上がる。子供は夢中で海と格闘した代価か、もはや海面に姿はない。

 ――あ…ああ…。

 母の動揺が喘ぎとなって聞こえる。

 …実際は、この風景を僕は知らない。

 父が飛び込んだときには、大量の海水を飲み込んで海の中へと沈んでいったから。海水を吸収した衣服が、僕を海中へと引きずり込んだから。

 目を覚ましたときには、僕の体は、防波堤のうえで仰向けにされていた。体中に衣服がぴったりと張り付いていて気持ちが悪い。母は僕が光を取り戻したと知るや、その温かい胸で僕を包み込んで泣いた。

 ――ごめんね…。ごめんね…。

 母はただそれだけを繰り返した。

 我が子を抱く母に聞こえるわけないと知りつつも、僕は思い出の中に残る母に呼びかけた。

「母さんのせいじゃないよ。僕が悪かったんだ。母さんの注意を無視したから」

 父は母が放り出した松葉杖を拾い上げている。自らの危険も顧みずに人助けをしたとは思えない、どこか沈着を装った面持ちだった。そして、泣きながら僕を抱きしめる母の肩に手を置いて、少しだけ微笑んだ。怒るでもなく、喜ぶでもなく、ましてや母のように体いっぱいで表現するでもなく、ただ一瞬微笑んだだけ。自らの命を賭けて守った子供の命と、それを包み込む母の姿を眺める。家族が幸せに暮らしていくこと。それを眺めることが、父の何よりの幸福であるかのように。

 泣き続ける母から離れ、シャツを脱いで力いっぱい絞る。シャツから水分が追い出されていく。父の横顔は普段のそれに戻っていた。

 事故を聞きつけてきたのか、ライフセーバーが母に駆け寄っていく。

 大丈夫ですか、と確認を取ると、母は大粒の涙をこぼしながら頷いた。

「父さんだったのか…。僕を助けてくれたのは」

 僕はずっとライフセーバーが助けてくれたとばかり思っていた。父は何もしてくれなかったと決め付け、思い込んでいた。でも違った。

 僕は、この夢の中に広がっている大空を仰いだ。防波堤の上から思い出達は消え、僕一人になった。僕が見ないようにしてきたもの。見てはいけないと必死に目を閉じていたもの。決め付けて、かたくなに信じ続けたもの。一心不乱に、拒絶したもの。

 息を吸い込んだ。

 分かっていたはずなのに、分からないふりをした。それを許すことができなかった。大切なものが失われた僕には、そんなことをする余裕なんてなかった。ただ、否定するだけ。

 父は。

 …父は、愛し方が不器用なだけだった。

 直接的な愛し方よりも、間接的な愛し方をする人だった。

 母のすぐ傍にずっといた僕には、それが分からなかった。分かろうとしても、気付けない位置にいた。狭隘な僕には当然の流れだった。

 母は世界で一番、直接的に愛を注いでくれた人。

 だから、僕にはその愛し方しか理解できなかった。すべてを母のせいにするつもりはない。けれども、僕の生きていた場所からは、父の愛し方を看過することができなかった。直接的な愛には気付くことができても、間接的な愛には気付くことができなかった。母も同様だった。父は、母が僕を心おきなく愛してくれる環境を、築こうとしてくれていたのに。

 結局、僕も母も、目に見えない父の愛に、気付くことができなかっただけ。父を分かろうとせず、父を最初から拒絶していた僕。直接的な愛を切望してやまなかった母。それでも、自分の愛し方を貫き通した父。

 溢れていた愛。

 こんなにも家族の中にあった愛。

 行き場を失った愛が、悲劇を生んだ。僕の心の中に大きな影を落とし、母の命をも奪った悲劇を。

「でも…今更なんだよ。どんなに愛があろうと、それをうまく伝えるすべを持たなければ、結局、何度人生をやり直せたとしても、母さんの死は変わらないんだ」

 やり直すことのできない、片道きりの人生。そして、母はいない。それが事実だ。厳然たる事実だ。もう通過してしまった道。立ち止まって振り返ることはできても、戻ることはできない。

「戻ることは、できない」

 僕は立ち上がった。一匹のカモメが僕のすぐ横を飛び、すぐさま急上昇していく。太陽と翼が重なる。

「こんな、俺の記憶にはないイメージまで見せて…。そう言いたいんだろ。雅…」

 僕は雅に笑顔を作って見せた。雅は愁いを帯びた瞳で口唇を開く。

「そう。戻ることはできない。決して」

 防波堤の上、距離を置いて、言葉を交わす。高めの波が防波堤に押し寄せる。テトラポットにぶつかった波は白く飛散し、水滴が僕の肌に触れた。

 突風が雅の髪の毛を乱暴にかき上げる。

「雅…君は誰?」

 突風が止むのを待って、僕は自分の中にある確信を口にした。

「…母さん、なのか?」

 波の音、音の波が耳に押し寄せる。二人の会話を妨害するように。

「少し、歩きましょう」

 雅は、砂浜を歩いていく。どのくらい歩いたのか。振り返ると、一定の歩幅で連なる足跡の軌跡が、いつの間にか大きな曲線を描いている。

「私が総の母、雅であるということ。そのことに変わりはないわ」

 潮騒の音に時間を忘れそうになったとき、雅は背中越しに言った。

「じゃあ…やっぱり君は――」

「私はこの世界の生きとし生けるもの、すべての母だから」

 砂に残した足跡が、波によって消されてしまう。

「最初に私がいた。あなたが地球と呼ぶ星。私は自分自身が完全な、全知全能な存在であることを証明するために、さまざまな生物を生み出した。それが生物の始まりであるし、人間の誕生にもなった。でも…それはことごとく失敗した。太古から現在に至るまで、完全なる、完璧なるものを生み出すことができなかった。完全なるものが生み出したものは完全。不完全なるものが生み出したものは完全には至らない。単純なことだった。そして、私は最後に人間を生み出した。私のすべてを注ぎ込んだ愛しい子。私が生み出してきたすべての子供達に勝る、完全な子……のはずだった」

 実際にそうだったわけではないが、雅が歯軋りしたように見えた。

「人間という器の中には、能力のすべてを保管することはできなかった。人のキャパシティは有限だったの。やむを得ず、私は人を二つに分けた。私が、私を複製し、そこに一人の人間に入りきれない部分を加えて。だから世界は二つある。でも、あなた達には、あたかも世界はひとつしか存在しないように見せた」

 波風が声を奪おうと、勢いを強くする。

「私は…それすら、完全にはできなかった」

 砂浜ははるか遠くにまで続いている。この夢の中では砂浜しかないのだ。だからどこまで行っても僕たちは砂浜をループする。それは、連綿と破壊と創造を繰り返してきた雅の行為のようにも見えた。

「人は…夢によって互いをつなぎとめたままになってしまった。不完全な星が生み出した不完全な人間。皮肉にも、私の不完全さが証明される形になってしまったのよ」

 足跡は、作っても、やがて波風によって塗りつぶされる。いくら作っても、消えていく。その行為の空しさ。

「それだけならまだ救いはあった。私が救いを求めるのもおかしい話だけれど」

 そう言って雅は自嘲する。

「人は進化していった。私の想像を超えて。もともと、進化を視野に入れてはいたのだけれど、この急激な進化は想定外だった。総、分かるでしょう? 今、この星の現状を」

「…戦争…環境破壊…」

 人間の愚行の数々。際限が無い。

「私はもう終わりにするしかなかった。人は人同士で平気で殺し合う。一方で環境破壊によって絶滅してしまった種もある。海も、空気も、大地も、私の体は、病巣と化しているわ。そういう意味では、あなたたち人間は、私が持つ癌…」

 言い返す言葉も無かった。正鵠を得すぎていて、反論の余地も無い。

「私は、あなたたち人間に自由と能力を与えすぎた。この星の、私の終わりが確実に近づいてきている」

 そして、雅は振り向いた。

「でも、人には可能性もあった。補完という可能性。人は進化の過程でキャパシティを増やし、失われた半身を取り戻せるまでになった。かつて私が完全なる一固体として、存在できることを望んだように。だから私は、この世界をあきらめてしまう前に、人の可能性に賭けてみることにしたのよ」

 僕も一定の距離をたもって立ち止まった。その距離は、今まで雅に接してきた距離よりも、確実に遠い距離だった。

「そうか…それが僕、なんだな」

「…」

「過去の母の姿に化けて近づいたのも、僕を補完へと差し向けるためなんだな。優しい言葉をかけたのも、それじみた行動も…」

「…そう」

 悪びれもなく雅は首肯した。静かに湧き上がってくる黒く醜い感情。

「あなたにすんなりと近付くには、それが一番都合良かった」

 頭痛がするのか、雅は少しだけ顔をしかめる。

「なら、満足しただろ。もうすぐ補完が始まる」

 僕は顔を背けて吐き捨てた。

「…そうではないの」

「じゃあ、どういうことなんだよ!」

 僕の足元には綺麗な貝殻が転がっていた。きらきらと輝いてはいるものの、半分が無残にも欠けてしまっている。

「僕は…君を想っていた。たとえそれが母への思慕のすり替えだとしても、僕は君が…君が好きだったんだ。ずっとそばにいれたらって…考えていたんだ」

「私もよ」

「…嘘だ。信じられるわけない。いまさら、そんなこと」

「総の夢、温かかった。あなたの母親への想い、苦しみ、悲しみ、恋しさ、それがとても愛しく思えた。いつの間にか、私は使命を果たしながらも、総に惹かれ、恋していった…」

「そんなの戯言だ…。君はこの星そのもので、そんなこと…あるはずない」

「私は母である以前に、女なのよ」

「だけど、君は…女である以前に、地球そのものだ! 地球が恋するなんて、馬鹿げてる!」

「それでも私は篠崎総に恋をした。この気持ちは、地球の想い。地球があなたを愛している。たとえ私が地球の使者、地球の意識そのものであっても、それが揺らぐことはないわ」

 雅の言葉に嘘はないようだった。

「……」

 無表情でも言葉には温かみがあった。

「……」

 だからその言葉だけでも、信じようと思った。


興味を持ってくださった方、読んでくださった方ありがとうございます。これからも頑張りますので、よろしくお願いします。評価、感想、栄養になります。

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